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聖戦貫徹議員連盟(せいせんかんてつぎいんれんめい)は、1940年(昭和15年)2月に斎藤隆夫衆議院でおこなった反軍演説をきっかけとして、軍部を支持する議員が同年3月25日に結成した超党派の議員連盟[1]

概要編集

1940年の結成時は、山崎達之輔を中心に立憲政友会からは中島知久平前田米蔵久原房之助肥田琢司立憲民政党からは永井柳太郎社会大衆党からは麻生久赤松克麿が参加した[1]

同年6月3日の総会には43名が出席し、各党の解党を求める決議と統一新党の設立を訴え「政治体制整備に関する方策」[2]を発表した。参加議員は250名になった[3]

6月24日の近衛文麿による新体制確立の声明を受けて緊急の常任幹事会を開き既成政党即時解消要請を決議し、翌日各政党を訪問して解党を求めた[4]。 訪問を受けた民政党の町田忠治[5]は、解党の意思はないが新党と争う気もないと答えた[6]

既存政党への影響編集

7月6日に社会大衆党は他の政党に先駆けて解党した[7][8]

16日に政友会久原派が解党、久原は自由主義を放棄し国体の本義に則った新体制確立を望むと述べた[9]

25日に民政党の永井柳太郎グループ40名が離党、国家の危機を乗り越えられる新政治体制を作るために大同団結すべきとの脱党宣言をした[10]

26日に国民同盟は、挙国一致体制によって肇国の理想を達成すべきとの宣言を出して解党した[11]

30日に政友会中島派(革新派)は解党大会を開き、解党宣言で八紘一宇の皇謨と東亜新秩序建設を訴えた。中島は、ヨーロッパでのドイツ、イタリアの圧勝は世界の進化発展の現象であり、この機会に「天祖一元より発し、純血単一にして、世界に冠絶する優秀生命体である日本民族」が発展することは、世界の進化発展を現す肇国の皇謨である。東亜と南方に新秩序を確立することは東方の盟主たる日本民族の義務であり世界新秩序の建設に協力するべきで、そのために強力な新政治体制を作らなければならないとの演説をした[12]

8月15日には民政党主流派も解党し憲政史上初めて無党状態となった[1][13]

各政党の解党理由は新政治体制の確立のため、東亜新秩序建設のため、民族の興亡のためと様々あるが、隈板内閣から大正時代末期にかけて重要な役割を果たしてきた政党は、五・一五事件によりすでに政治の中枢から排除され解党したのと同じ状況であって、政党政治は時代の激流に押し流されてしまった。孤立して排除されることを恐れた政治家たちは、政党政治を否定した後の具体的な展望を示さず、統一新党で軍との関係を強化して政治力を持とうとした[14][15]

脚注編集

  1. ^ a b c 林茂 2006, p. 171.
  2. ^ 内容は、聖戦貫徹のために強力な統一新党が必要なこと、その新党は自由主義、階級主義を廃し国体の本義に沿った物にすること、そのために各党は解党すること等
  3. ^ “政界各層、俄然動き 新党樹立の機運濃化 : 成否の鍵は近衛公出馬”. 大阪毎日新聞. (1940年6月4日). http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/DetailView.jsp?LANG=JA&METAID=10121058 2013年12月14日閲覧。 
  4. ^ “既存の政党運動誘導 : 速に全面的運動へ : 近く側近から近衛公へ進言”. 大阪毎日新聞. (1940年6月25日). http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/DetailView.jsp?LANG=JA&METAID=10123139 2013年12月15日閲覧。 
  5. ^ 当時の民政党総裁
  6. ^ “解党勧告に民政明答せず : 聖貫連盟委員町田総裁訪問”. 大阪朝日新聞. (1940年6月26日). http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/DetailView.jsp?LANG=JA&METAID=10123486 2013年12月15日閲覧。 
  7. ^ “社大感慨の解党 : きょう解党大会開く”. 大阪朝日新聞. (1940年7月8日). http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/DetailView.jsp?LANG=JA&METAID=10121411 2013年12月15日閲覧。 
  8. ^ 林茂 2006, p. 173.
  9. ^ “自由主義を一擲 : 久原総裁が解党の辞”. 大阪朝日新聞. (1940年7月17日). http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/DetailView.jsp?LANG=JA&METAID=10121820 2013年12月15日閲覧。 
  10. ^ “同憂の士とともに日本再建に邁進 : 民政四十名遂に脱党す”. 大阪朝日新聞. (1940年7月26日). http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/DetailView.jsp?LANG=JA&METAID=10123340 2013年12月15日閲覧。 
  11. ^ “国民同盟解党”. 大阪毎日新聞. (1940年7月27日). http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/DetailView.jsp?LANG=JA&METAID=10123254 2013年12月15日閲覧。 
  12. ^ “政革派解党大会”. 読売新聞. (1940年7月31日). http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/DetailView.jsp?LANG=JA&METAID=10121371 2013年12月15日閲覧。 
  13. ^ “幕を閉じる民政党(上・下)”. 読売新聞. (1940年8月15日). http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/DetailView.jsp?LANG=JA&METAID=10122781 2013年12月15日閲覧。 
  14. ^ 林茂 2006, pp. 172-175.
  15. ^ “政党"最期の城"陥つ : 新体制の嵐支え切れず : 民政党解党までの経緯”. 中外商業新報. (1940年8月15日). http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/DetailView.jsp?LANG=JA&METAID=10122791 2013年12月15日閲覧。 

参考文献編集

  • 林茂『太平洋戦争』中央公論新社、2006年、改版2刷。ISBN 4122047420

関連項目編集