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肥前石井氏(ひぜんいしいし) / 佐賀石井家(さがいしいけ)は、鎌倉時代の発祥と伝わり、室町時代から明治時代初期にかけて肥前国を根拠とした武家士族である。とくに近世佐賀藩主・鍋島氏藩祖以来の外戚家門として殊遇を享けた一族として知られる。

肥前石井氏/佐賀石井家
家紋
丸に三つ鱗まるにみつうろこ三山形さんやまがた
花杏葉はなぎょうよう五つ木瓜いつつもっこう鍔に小槌かんにこづち花菱はなびしなど。
本姓 藤原北家兼道流
桓武平氏千葉氏流
家祖 石井下総守藤原忠光藤原鎌足17代の孫)
種別 武家
士族
出身地 下総国猿島郡石井郷
主な根拠地 肥前国小城郡佐嘉郡
著名な人物 陽泰院
鍋島茂里
鍋島茂賢
石井如自
石井鶴山
石井忠躬
石井松堂
石井忠亮
石井義太郎
石井亮一
石井筆子
石井忠恭
石井常英
石井次郎
石井虎雄
石井照久など
支流、分家 鍋島主水家(武家)
深堀鍋島家(武家)
凡例 / Category:日本の氏族

本貫は下総国。本姓は藤原氏北家兼通流)を称し、女系の血統から、下総国出身の千葉氏の後裔とも称した。

戦国大名龍造寺家兼隆信の譜代重臣(水ヶ江譜代)として勢力を拡大し、後に佐賀藩主・鍋島氏の外戚・重臣として続いた。

石井党石井一門石井寄合衆と呼ばれる精強な武士団を率いて、戦国時代から江戸時代初期にかけて隆盛を極めた。

佐賀藩に伝わる武士道論書『葉隠』にもしばしば登場する一族で、明治に至るまで戦国時代の武家の気質・家風を伝えた一方、俳人・歌人や学者などの人物も輩出し、文武両道の家門であった。

明治以降も日本の電話創始者・石井忠亮、日本の知的障害者教育・福祉の創始者・石井亮一ら有為な人材を輩出した。

姻戚には大隈重信中牟田倉之助武富時敏久米邦武らが名を連ねている。

起源編集

肥前国の石井氏は、室町時代中期の肥前国小城郡主・千葉教胤の家老・石井式部大輔越後守藤原忠國の子孫の一族である。この忠國は、関東出身で、千葉介の玄孫にあたるとされる。

『石井系譜』(弘化4年(1847年)成立、佐賀県立図書館鍋島家文庫所蔵)によると、忠國は、関白太政大臣藤原兼通13代の子孫にあたり、下総国猿島郡石井郷を本貫とする。

忠國の曾祖母は、下総国守護職・千葉介の娘とされ、忠國は、千葉氏の内紛の影響を受けて、親族の肥前国小城郡主・千葉胤紹を頼って、下総国から肥前国に移住したという。

忠國は、千葉胤紹に仕えて、その副将に抜擢され、胤紹の没後は、甥の千葉教胤の家老をつとめた。忠國の千葉家中での立身出世により、石井氏は肥前国佐嘉郡与賀郷飯盛村に領地を得て、その後の繁栄の礎を築いたのである。

石井系譜編集

佐賀県立図書館鍋島家文庫に伝わる『石井系譜』では、藤原鎌足の16代・式部大輔藤原忠衡が、建長2年(1250年)8月、下総権守となり、下総国猿島郡石井郷に下向、その嫡男・下総守忠光が初めて石井氏を称したとしている。忠光の曾孫・式部大輔忠成は、千葉介の姫を妻に迎え、千葉氏と縁故関係を生じた。忠成の曾孫が式部大輔越後守忠國である。

水江臣記編集

多久市郷土資料館の『水江臣記』によると、下総国安部野城主・石堂式部大輔忠正入道禅心の嫡男・式部大輔忠成が、三浦合戦(宝治合戦か)に14歳で出陣した際、陣中に一羽の鳩が飛来し、近くの井戸の中に舞い降りて行ったという。合戦で汚れた軍旗(一説には血刀とも)をその井戸で洗い、再び合戦に臨んだところ、見事勝利を収めたというので、その吉事に因み、「石堂」の家名を「石井」に改めたとしている。この忠成の曾孫が式部大輔越後守忠國である。

だが、実際のところ、『石井系譜』、『水ヶ江臣記』ともに、傍証できる一次史料が存在せず、真偽の程は明らかではないが、下総国(現在の千葉県茨城県)には、現在に至るまで石井姓が多くみられる上、鎌倉時代後期の蒙古襲来に伴って、守護職の千葉氏が分国の肥前国小城郡に家臣団を随えて移動していることから、石井氏が下総国に発祥し、千葉氏との縁故で肥前国に移った一族であることはおおよそ事実と推定できる。

肥前国への移住編集

石井式部大輔越後守忠國の父は、下総国の武士・石井左京太夫忠家といい、合戦で討死したため、忠國は、親族の肥前国小城郡主・千葉胤紹を頼り、肥前国に移住した。胤紹は忠國を優遇し、大宰府安楽寺留守職・小鳥居信光の娘を正室に娶せて、副将に抜擢したという。さらに、千葉氏より肥前国佐嘉郡与賀郷飯盛村に領地を与えられ、永享元年(1429年)、その地に菩提寺本善寺を建立した。忠國は、千葉胤紹の横死後は、その甥、幼君・千葉教胤に仕え、家老をつとめた。

勢力拡大の契機編集

石井式部大輔越後守忠國の嫡男・ 式部大輔忠保の代には、本拠地を小城千葉城下の「石井屋敷」から領地である佐嘉郡与賀庄飯盛村に移し、村内の飯盛城に入って、城内に居館を構えた。これが契機となって、水ヶ江城主・龍造寺氏、隣村本庄村の土豪鍋島氏と地縁・血縁による繋がりを生じ、戦国時代に石井氏が飛躍する足掛かりを築くことになった。また、一族を挙げて、飯盛村を中心に開墾を進め、佐賀平野南部の肥沃な穀倉地帯にある飯盛村一帯と、今津や相応津といった有明海に通じる津(河港)を支配し、豊かな財力と武力を築いた。

その頃、主家である千葉氏は内紛によりかつての威勢を失い 、佐賀平野南部に割拠する土豪地侍に、旗頭としてその支持を得た国人龍造寺氏が台頭してくる。忠保の嫡男・駿河守忠義の頃には、水ヶ江城主の龍造寺康家家兼父子との連携を深めていった。鍋島氏とともに龍造寺氏を盟主に擁して、後に戦国大名・龍造寺氏の家臣団の中核をなす「水ヶ江譜代」を形成することになる。

戦国時代編集

石井式部大輔忠保の没後、家督を継いだのは、嫡男・駿河守忠義であった。忠義には、5人の男子があり、嫡男は和泉守忠清、次男は石見守忠繁、三男は三河守義昌、四男は駿河守忠本、そして、五男を尾張守兼清(忠房)といった。この5人の兄弟は、いずれも、知勇・人格に優れた武将であった。石井氏は当初、千葉氏の直参の戚臣として行動していたが、千葉氏の衰退が著しくなると、次第に龍造寺氏に接近する。そして迎えた享禄3年(1530年)の田手畷の戦いにおいて、鍋島清久清房父子と連合して、後世に伝説を残した「赤熊の奇襲隊」を率いて、苦戦する龍造寺家兼隊の危機を救ったことがきっかけで、鍋島氏とともに石井氏も龍造寺氏の重臣の地位を確固たるものにした。この合戦の功労によって、鍋島清房は龍造寺家純の娘・華渓を娶り、石井の惣領・忠清も家純の四女を継室に迎え、末男の兼清は家兼の曾孫にあたる於保宗益の娘を娶った。

しかし、龍造寺氏は、当初、勢力基盤が弱く、家兼は馬場頼周の謀略によって主君・少弐冬尚や国衆から排斥を受け、筑後国へ亡命する事態に遭う。その後、間もなく、家兼は本領を回復するが、そのとき家兼帰還の中心となったのが鍋島氏であり、そして、石井氏ら「水ヶ江譜代」であった。鍋島氏・石井氏に加え、佐賀平野南部の土豪、地侍にとどまらず、百姓までもが蜂起して、家兼を迎えた。こうして、鍋島氏と石井氏は龍造寺家中で一層重きをなすに至った。

石井五家の成立編集

石井氏は、石井駿河守忠義の5人の男子がそれぞれ独立し、一家を立て、嫡男家和泉守家)・二男家石見守家)・三男家三河守家)・四男家駿河守家)・五男家尾張守家)まで連なった。いわゆる石井五家である。この5人の兄弟が率いた武士団を、人は石井党石井一党石井一門と呼び、戦場では精強な武士団として名を馳せた。 また、後世に至るまで、一族の団結は揺るぎなく、それは、明治維新まで続いた。

龍造寺隆信の登場と石井氏の興隆編集

龍造寺隆信の家督相続を主導編集

龍造寺家兼の没後、家兼の遺言によって、当時僧籍にあった曾孫・円月(後の龍造寺隆信)が家督を相続した。当初、隆信の家督相続には、家臣団の中にも異論があったものの、石井兄弟の末弟・石井尾張守兼清が隆信擁立に主導的な役割を果たした。兼清は、家兼の遺言を奉じ、当時、隆信が出家していた水ヶ江城下の宝琳院に一隊を率いて参上した。隆信の還俗を渋る住職を説き伏せ、そのまま隆信を奉じて、水ヶ江城内の兼清の屋敷に迎えた。兼清は、隆信の還俗・元服の儀式の一切を取り仕切り、隆信の家督相続を実現させたのであった。その後、隆信は、中国探題大宰大弐大内義隆の後見を得て、龍造寺氏の宗家筋の村中龍造寺氏をも相続することになる。

隆信追放編集

しかし、隆信の宗家相続に対し、宗家の重鎮・土橋栄益が、豊後国守護職・大友宗麟の支持を得て、反旗を翻す。天文20年(1532年)、ときに大内義隆が家臣陶晴賢によって討たれた直後で、後ろ盾を失った隆信は筑後国に亡命する災難に遭う。2年後、隆信は復権することになるが、このときも、鍋島清房尾張守兼清が、佐賀平野南部の土豪・地侍らと連携し、隠密に隆信帰還の準備を進めた。隆信は筑後国を出発し、海路、肥前国佐嘉郡河副郷に上陸した。河副郷には、他の土豪・地侍とともに石井和泉守忠清が一族を率いて参陣し、そのまま佐賀城に向けて進発した。途中、敵方である高木氏や八戸氏に占拠されていた居城・飯盛城において、石井三河守義昌次郎兵衛忠晴父子が指揮する一隊が奮戦して、城を奪還。さらに進撃を続け、遂には佐賀城を回復した。さらに、隆信は小田政光が拠る蓮池城に攻め込み、石井三河守忠朝が敵方の勇将・江口源世入道を一騎討ちで戦いを挑み、これを討ち取るなど、石井氏は隆信復権に多大な功績を挙げた。

龍造寺隆信勢力拡大期編集

永禄6年(1563年)には、龍造寺隆信は、肥前国三根郡中野城主・馬場鑑周と、鑑周に擁立された少弐政興を攻めた。この合戦では、石井隊が先陣をつとめ、石井石見守忠次源次郎忠修父子に率いられた一隊が決死の突入を図り、攻撃の突破口を開く武勲があった。

元亀元年(1570年)の大友親貞との今山の戦いでは、奇襲部隊の主将・鍋島直茂石井伊予守忠信(石井一幽軒)が従ったほか、南里氏鹿江氏太田氏とともに筑後国との国境付近に部隊を展開し、海路侵攻してきた大友勢を迎撃・撃退した。さらに孤立した龍造寺長信が籠る蓮池城救援のため、石井氏が派兵した遊撃隊が、攻城軍の隙をついて兵糧米300俵を城内に運び込み、隆信を喜ばせた。鍋島直茂が今山で大友親貞を討ち取ると、石井蔵人忠清隊が納富信景隊に合流し、大友勢の敗残部隊の殲滅にあたった。

龍造寺隆信全盛期編集

以降、龍造寺隆信の副将・鍋島直茂が登場してきたこともあり、隆信は肥前国の平定を進めた。隆信の版図は肥前国の他、筑後国肥後国筑前国豊前国対馬国壱岐国まで及び、「五州二島の太守」を自称した。その一方で、龍造寺軍の中核部隊を担っていた石井氏からは、多くの戦死者を出した。隆信は、石井氏の忠節と犠牲に報い、石井氏に知行地の加増をたびたび行い、天正期には、1,180町歩(おおよそ11,800石)の広大な所領を有することとなった。この知行規模は、龍造寺一族、外様家臣を除き、家中第三位(一位は鍋島氏、二位は納富氏)の大身であった。

この頃、石井氏と鍋島氏の連携が一層強化される。元亀2年(1571年)、石井和泉守忠清の嫡男・兵部少輔常延の次女彦鶴姫(後の陽泰院)が鍋島直茂の正室に迎えられた他、天正7年(1579年)には、直茂の長女・伊勢龍姫(後の月窓院、母は前室高木氏)の婿養子として、石井安芸守信忠の嫡男で、彦鶴姫の大甥にあたる石井太郎五郎(後の鍋島茂里)が迎えられた。また、石井壱岐守茂利が直茂の実兄・鍋島信房の養女を娶るなど、石井氏と鍋島氏は一族化していった。

鍋島氏の台頭と石井氏編集

天正12年3月24日龍造寺隆信沖田畷の戦いで横死し、石井氏からも嫡男家当主・石井大膳亮信易以下14名の武将が戦死した。隆信の戦死は外様の諸将や分国に動揺をきたして、龍造寺氏は一転して厳しい局面におかれることとなる。そのような中、龍造寺氏の血縁であり、なおかつ筆頭家老の地位にあった鍋島直茂が隆信の嫡男・龍造寺政家を補佐して、劣勢の挽回につとめた。

当時、直茂の采配を支えたのが外戚家門・石井氏で、一族の中核的人材を沖田畷の戦いで失ってはいたものの、石井壱岐守茂利縫殿助茂清父子や、石井修理亮茂成鍋島主水佑茂里(石井太郎五郎)・鍋島安芸守茂賢(石井孫六)兄弟、石井生札ら有為な人材が出て、直茂の与党となり活躍した。豊臣秀吉によって、直茂が龍造寺氏に代わって国政を担う頃である。

文禄・慶長の役では、直茂に従って、鍋島主水佑茂里鍋島安芸守茂賢石井縫殿助茂清石井修理亮茂成らが出陣し、石井生札石井六郎兵衛忠種が後方支援部隊を指揮した。一方、石井壱岐守茂利ら一門の18将が佐賀城留守居役として、直茂の留守を預かった。役後の領内の統治体制の改編においては、石井氏が積年にわたって労苦を惜しまず功績があったとの理由から、筑後方面からの侵略に対する防衛拠点として重視していた蓮池城を与えら、城代・城番に任ぜられ、石井壱岐守茂利のほか、石井孫左衛門尉重次石井五郎右衛門尉正国石井修理亮茂成が同城を守護した。

その後、政家の嫡男・龍造寺高房が、龍造寺氏の家督を相続すると、石井氏の鍋島主水佑茂里の長女瑞祥院が直茂の養女となって高房の正室に迎えられ、石井氏はさらに発展する。

藩政期編集

関ヶ原の戦いでは、鍋島勝茂龍造寺高房は西軍に与し、伏見城安濃津城攻めに加わったが、西軍敗北により、国許の直茂は、徳川家康に謝罪のうえ、勝茂とともに西軍の立花宗茂を攻めた。そのとき、軍略を思案し、先陣をつとめたのは、鍋島主水佑茂里・同安芸守茂賢兄弟であり、海路柳川に侵攻した水軍の将は、石井壱岐守茂利と石井生札がつとめた。

江戸幕府の成立以降、龍造寺政家・高房が相次いで没し、鍋島勝茂を初代藩主とする鍋島佐賀藩が誕生する。ときに石井氏からは、沖田畷の戦い以降、直茂体制を支えてきた、鍋島主水佑茂里・同安芸守茂賢兄弟(石井二男家)、石井壱岐守茂利・同縫殿助茂清父子(石井二男家)、石井修理亮茂成(石井嫡男家)、石井生札(石井三男家)が、藩政の中枢に進出した。

こうして、石井氏は、鍋島氏の外戚家門として隆盛を誇ったが、初代藩主勝茂は、石井氏に対し、石井の名字は一門限り名乗らせること、継嗣がいない場合は同族のうちから養子をとること、他家から養子をとる場合は、人物を吟味し、教育を徹底すること。軍団編成は従来どおり同族のみで一隊(組)(石井寄合衆)を編成すること等を通達している。

島原の乱では、石井弥七左衛門正之石井伝右衛門正能が、敵陣一番槍の快挙を成し、佐賀藩の名誉を高めた。

第3代藩主鍋島光茂以降、家臣団序列が確定し、直茂・勝茂父子の近親者や側近衆による側近政治は終焉し、石井氏の藩内における政治的地位は相対的に低下するが、鍋島主水佑茂里は横岳鍋島家、鍋島安芸守茂賢は深堀鍋島家として、家老職を世襲した。石井壱岐守茂利・同縫殿助茂清父子は、石井縫殿家として着座の家格に定着し、石井修理亮茂成は石井又左衛門家として、支藩蓮池藩家老職を世襲した。

第8代藩主鍋島治茂のときには、漢学者石井鶴山が政策顧問に抜擢され、古賀精里とともに治茂の藩政改革を主導した。

元禄年間、藩主直参として58家が存在し、同族で2万石にも及ぶ知行を有した。その他にも、支藩や多久家等大配分(自治領)に仕えた家も多数あった。

幕末・明治編集

幕末佐賀藩は西南雄藩の一角を占め、明治維新に主導的な役割を担ったが、戊辰戦争では、官軍海軍副参謀となった石井富之助、海軍陽春丸艦長石井忠亮が軍功を挙げ、明治天皇よりその功を賞される栄誉を得ている。また、蓮池藩第8代藩主鍋島直与の三男石井忠躬は、蓮池藩兵を率いて出羽国に出陣し、武功を挙げている。

明治政府では、石井忠亮が初代逓信省電信局長をつとめ、電話事業の創設に尽力し、後に元老院議官和歌山県知事をつとめた他、石井忠恭大審院判事、貴族院議員に、石井常英横浜地方裁判所長、台湾総督府覆審法院長官をつとめた。軍人も多く輩出し、石井義太郎海軍少将)、石井虎雄陸軍少将)の2名の提督将軍を輩出。また、民間では、石井亮一が日本初の知的障害者福祉・教育施設滝乃川学園を創立するなどの活躍をみせている。

主要家系編集

石井嫡男家/石井和泉守家(家祖:石井忠清

  • 石井藤左衛門家(知行250
  • 石井又左衛門家蓮池藩家老、知行900石)
  • 石井清左衛門家(独礼、知行375石)
  • 石井四郎左衛門家(知行260石)
  • 石井六郎左衛門家(知行250石)
  • 石井新五左衛門家(知行375石)

石井二男家/石井石見守家(家祖:石井忠繁

石井三男家/石井三河守家(家祖:石井義昌

  • 石井生札家(知行300石)
  • 石井小右衛門家(知行375石)

石井四男家/石井駿河守家(家祖:石井忠本

  • 石井蔵人家(知行100石)
  • 石井又右衛門家(着座、知行187石5斗)
  • 石井新右衛門家(知行130石)

石井五男家/石井尾張守家(家祖:石井兼清

  • 石井藤兵衛家(知行52石5斗)
  • 石井三郎太夫家(知行183石)
その他
  • 太田鍋島家(家老、知行4250石)

太田鍋島家は、初代太田茂連太田道灌の後裔)が陽泰院の娘瑞光院(実父は前夫納富信澄石井常延の孫)を娶って、初代藩主鍋島勝茂の義兄となって一族化した。

  • 成富家(着座、知行1500石)

成富家は、成富茂安の養子長利が太田茂連と陽泰院の娘瑞光院との間に生まれた子であり、長利は石井常延の曾孫にあたる。なお、茂安のもう一人の養子安利の妻も陽泰院の親戚石井七郎兵衛の娘である。

その他、龍造寺氏の後裔である小柳石井家鍋島賢秀の末裔である石井内蔵允家三岳寺の寺家である三岳寺石井家などの系統があった。

石井氏出身の著名な人物編集

石井氏の主な姻戚編集

菩提寺編集

系譜編集

実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。
藤原兼通
 
 
 
(5代略)
石井忠光1
 
 
 
忠俊2
 
 
 
忠正3
 
 
 
忠成4
 
 
 
忠元(千葉介の外孫)5
 
 
 
忠家6
 
 
 
忠国7
 
 
 
忠保8
 
 
 
忠義9
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠清10忠繁義昌忠本兼清
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
嫡男家二男家三男家四男家五男家

嫡男家編集

忠清10
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
常延11忠家忠信
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
常忠12賢次陽泰院清左衛門家
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
常胤13信忠常永忠明百武茂兼松瀬孫八茂成
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠易14清次賢顕七郎右衛門沢辺常寿
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
藤左衛門家清房清信(略)
 
 
 
 
 
清信探玄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(4代略)作一成富庄吉
 
 
 
 
 
清慎利雄
 
 
 
 
 
忠躬[1]七郎右衛門家
 
 
 
忠世
 
 
 
忠夫
 
 
 
又左衛門家

二男家編集

忠繁
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠高忠次忠尊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠俊忠修信忠正国
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
鍋島茂里鍋島茂賢正則
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
茂宗犬塚三四郎茂里正證
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
武興宗貞信宗武明茂春
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
直朗[2]織部家伝兵衛家清兵衛家茂久
 
 
 
 
 
茂和茂厚
 
 
 
 
 
茂親茂陳
 
 
 
 
 
茂延[3]茂雅
 
 
 
 
 
茂明茂矩
 
 
 
 
 
横岳鍋島家茂長
 
 
 
茂勲
 
 
 
深堀鍋島家

三男家・四男家・五男家編集

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
義昌忠本兼清
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
忠晴彦十郎茂忠(略)
 
 
 
 
 
 
 
生札忠貫
 
 
 
 
 
 
 
如自式猷
 
 
 
 
 
 
 
正能(略)文橘
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
氏之氏利忠驍藤兵衛家
 
 
 
 
 
 
 
氏久(略)忠泰
 
 
 
 
 
 
 
(略)広氏亮一
 
 
 
 
 
 
 
英勝成徳[4]又右衛門家
 
 
 
富之助
 
 
 
生札家
  1. ^ 肥前蓮池藩主鍋島直与の四男。
  2. ^ 肥前小城藩主鍋島元茂の次男。
  3. ^ 倉町鍋島家・鍋島敬文の子。
  4. ^ 佐賀藩士・北島政長の次男。