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角鯱 ≪ツノシャチ≫ 能代ねぶながし 第六回大銀座祭1973.10.12.
雲鯱 ≪クモシャチ≫

 能代役七夕(のしろやくたなばた)は、秋田県能代市8月6日および8月7日に開催される伝統の七夕祭りである。田楽、お囃子、太鼓とともに城郭型の燈籠を引いて旧市内を運行し、翌日には灯篭上部にあるシャチ()に火をつけて米代川に流す。地元ではただ役七夕、やくたなとも呼ばれ、また能代七夕、能代ねぶながしとも呼ばれている。

目次

概要編集

 能代七夕は 冠位大錦上越国守・ 後将軍大宰帥阿部比羅夫の蝦夷征伐があった斉明紀(655~661年)や征夷大将軍坂上田村麻呂の蝦夷征討の延暦紀(782年~806年)が発祥の由来とされ、能代の役七夕は江戸時代中期享保(1720年代)の頃{推測}より五丁組により執り行われており、8月6日に田楽、太鼓、横笛などに続いて城郭型の灯篭を曳いて各町内を巡る。翌7日には灯篭上部のシャチに火をつけて米代川に流す。役七夕燈籠曳きだし中は、その他有志の七夕等は繰り出せない仕来りがある。

役七夕に先立って、8月3日には「こども七夕」が開催されてきた。町内ごとにキャラクターなどをかたどった灯篭を作り、役七夕のようにお囃子を奏でながら子供たちが町内を練り歩き、畠町通りに集まる。また、2013年平成25年)にはこども七夕が8月2日)にずらされ、8月3日()および8月4日)に『能代七夕「天空の不夜城」』が初開催された[1]

毎年9月第2土曜に開催され、秋田県内の夏祭りのしめくくりイベントともいえる能代市の「おなごりフェスティバル」において、能代第一中学校、能代第二中学校により七夕が披露されるのも恒例となっている。

燈籠編集

 燈籠は杉や松の角材を組み、それに竹を三分、五分等に割り格子や袋状に編み取付細工作り上げたものに、七夕紙(障子紙)を貼って書きに染料を塗り書き混んだものである、又燈籠の明かりは電球を使用している、昭和初期まではロウソクで明かりを灯していた。  燈籠の構成は~~担木(台車)の四つ角に大丁名もしくは加勢と記した大田楽を飾し、担木の後方中央の組支柱へ、 下から富を表す牡丹を描いた<台燈篭>、郭のを描いた<幕燈篭>、堀を表す池のを描いた<波燈篭>又は船形で海の波を描いた<船燈篭>、を描いた<花燈篭>、を描いた<松燈篭>、高さを表すを描いた<雲燈篭>、上部には石垣を描いた<岩燈篭>、で構成され組み上げられる、花燈篭、松燈篭の中央には産土神社、美人画武者絵なども描かれた額絵がある。岩燈篭上部には四ッ角に小さなシャチを乗せた<隅御殿>、前方に<前御殿>、後方に<奥御殿>があり、更に最上部中央には<本丸御殿>に一対の大きな<鯱鉾>が取り付けられている、<最上部の鯱は電線を避ける為に本御殿の継ぎ目から後ろへ倒れる様に細工されている>また、現代は鯱の上部真ん中に、ひよし産土神社より祈祷戴いた御幣とその下にキバ提灯を掲げている。以上を担木(タギ)に乗せ曳きだす。シャチの目を描く際には人々の健康や安全などを祈願して入魂式を行う。大丁のシャチは常に空を向く尖った、尾ひれ<通称:角鯱~ツノシャチ>だが、加勢の町内のシャチの形は、雲龍<通称:雲鯱~クモシャチ>である。《※担木<タギ>とは曳きだす台座のことで、大昔に燈籠を御神輿の様に担いでいた、なごりの通称で 正確には木車の山車のことである、昭和31年よりほとんどの場合、ゴム輪の馬車、台車が使われている、最近では畠新若、萬若が大丁の時に木車の山車を使用した。》※他に台車に燈籠を取り付ける為に台車の後部真ん中に四本柱の組支柱がある、この支柱のことも担木<タギ>とも呼ぶが、山車のことを担木と呼ぶもともとの語源の由来ともなっている。

●≪いろいろな文献や絵、画等々を紐解くと城郭型の燈籠が登場したのは天保紀(1830~1844年)頃亦は以降で、当番年を受け持つ町内が城郭型の燈籠を曳き出した様である。明治後期までは加勢町内はさまざまな趣向を凝らした灯篭(酒樽に鯛や大亀に猩々を乗せたものや、五重塔、凱旋門、地球儀にトンボ、等々)を製作していた。現在の大丁が角鯱型で加勢丁が雲鯱型に形式確立固定化されたのは明治後期以降になってからである。当然ながら今の鯱流しでは無く、以前は多種多様な形の燈籠の上部を川に浮かべ燃やして弔っていた≫

江戸末期明治時代には高さ五丈(16m)の城郭型灯籠が作られたという記録がある[2]。が、近代以降電線等により、現在は高さを制限せざるを得なくなり、シャチを倒して5.5M内、上部のシャチ部分を電線の前で倒しながらくぐり通っている。シャチを起こして<約8.5m~9m>又横の太さは松燈籠あたりで<最大約4.5m前後>になる。

シャチ流し編集

役七夕鯱流しは当番組による《道中》~各町内回丁~6日運行の翌日7日に、灯篭上部にあるシャチの部分を米代川河口まで運び、筏に乗せて川の中で火をつけて流す。このとき囃子の曲調も<流しばやし>と呼ばれる哀愁を帯びたものに変わる。

制度編集

 現在旧市内中心部で割り振りされている五丁組によって毎年(旧暦)7月7日頃に 『時折、何かしらの障害がある時新暦8/6・7の日に限らず運行される年もある。又中止になる時もある』 行われ、五丁組の輪番制で当番を交代しており、当番を受け持つ大丁とそれを応援する加勢丁として参加運行される。これは各町内の名によって○○若と呼ばれる。運行直前には手木(拍子木)の号令の元<音頭上げ>を行い出発する、運行中は<道中ばやし>のお囃子に合わせて「わっしょい わっしょい」~「ちょーれー ちょーれー ちょごれごれごれん、ちょごれごれんれんれん」 などと声を掛ける。

 大方の隊列は順番に先頭に高張提灯を掲げ~田楽{半纏を着た子供がサンダラボッチを使って担ぐ}、太鼓{晒を巻いて白短パン、足袋姿で3人一組で叩く}、{半纏、雪駄の恰好で横笛を吹く}、若長{浴衣に雪駄を履いてブラ提灯を掲げて歩く}、の順に続いて若者.引き手50人以上で、シャチ(鯱)の乗った城郭型の大若燈籠の山車を綱で引っぱる(山車には担木若長の人が乗車する)燈籠上部には鯱を挟んで前後に鯱倒し各3名が載っている。燈籠横前には竹で細工した約4.5mの差し又四本を2本一組で入れ替わりながら電線を挙げている。差し又の人員は1本につき基本2名である。 山車が馬車や台車に変わると共に台車の方向転換する為の舵を操作する役目の舵取り 2.3名が操作してついている。その後は総務相談役顧問後見をそれぞれ乗せた車が列をなして旧市内を練り歩く。《昭和初期までは、大若とは役七夕における役付けがしっかり執り行われている町の七夕組織を大若と称していた、若者だけもしくは若長だけで規模が小さく組織されたものを中若もしくは小若と称されていた、また役七夕の当番組以外、役七夕運営期間外に引き出す灯篭を○○小若と称していた。(注:大町が七夕等で使用する大若とは意味合いが異なる)》 [昔は《親しみ丁》と言って当番組以外の丁内と物の貸し借りや人の往来をした親しみ町制度が有りその当番組の町内を手助けをした、他の町内が入り込めない暗黙の取り決めが存在していた 又、清若と柳若は昭和初期から昭和30年まで親しみ丁でそれぞれの当番組の時も組自体での参加交流もあった。]

現在は人の交流が複雑化して、正確には親しみ町制度は廃されているが、それに似た町内間の交流が存在している] 若者は縦長の筒状型のキバ(騎馬)提灯、若長等は持ち手の棒にぶら下げられた丸型のブラ提灯を持つ。それぞれの提燈にはその町内の紋様印が描かれている、清若だけは無地である、また提燈の持ち手の役付名が施されている物もある。

 五丁組による輪番制は、五年に一度当番が回ってきてその時仕切る組を当番組と言う、またその時運行をしきる町を大丁(おおちょう)、又は当番町、もしくは当番親丁、と呼ばれその他の丁内は加勢応援することから加勢丁内(かせいちょうない)と言う。また大若、柳若はその時々で”大丁”と称されることもある。 五丁組にはそれぞれ組を仕切る五つの 親丁(おやちょう) <<大若、上若、萬若、清若、柳若>>がありその組みを統制している(それぞれの組には覚書等があり町の序順列が決められている)又その親丁の元、支配下にある町内を枝丁(えだちょう)と呼んでいる。又、相互関係の間では<親しみ丁>と呼ぶ時もある。運行時の隊列は大丁が最高尾を務めその手前からは序順列に従った親丁、加勢丁内が連なる。親丁が大丁を務める場合も序順列に従った加勢丁内が次に連なる。 (大昔は大丁のつぎ元手前に並ぶ所を「担木元」と言われ並び順は基本的に自由で次回の大丁を務めることから、争い喧嘩が耐えなかったと言われている)(昭和年代初期頃までは、当番丁内の許しがあれば、当番年の違う町内からの加勢参加を受けた場合もあった。)( 昭和40年代初期まで、太鼓入れと言って、町内の七夕祭に協力しない事や対面を損ずる事の様な事等をした者の家や店舗へ、丁内の自治制裁として太鼓を叩き鳴らし入れる習慣があった又、常連の飲食店等のおもてなしがなかった場合も同様太鼓入れが行われた)

 運営は役七夕の所以ともなっている役付が組まれ基本的な構成は、若衆のそれぞれの部所を任せられる<十人頭>、若者を代表し取り仕切る《若者頭》、若頭を補佐する<副若頭>または<主立>、七夕を仕切る<若長>、山車に乗車して見守る<担木若長>、町内間を交渉する<応接>、若長等の代表で運行運営の最高責任者である《筆頭若長》、もしくは《筆頭総務》、以後山車の後方に車に乗車する<総務>、長老である<相談役><顧問>、元老で町内の顔役として任につく<後見>、から成り、それぞれの役割分担がなされている。 基本的に筆頭若長と共に町内を代表し責任者につくのが《筆頭後見》である。若者の姿は晒、白短パン、半纏にキバ提灯を持っている、若長は浴衣にブラ提灯を掲げている、若長を引退した総務、後見等は浴衣の上に黒羽織を着ている。又当番である大丁は道中の運行の際、各加勢若の先頭に基本2名の応接を派遣同行させ、計画通り行くように導いてゆく、何か交渉事等問題があれば応接を通して対処する、又道中にある各若の会所には、その若の応接等を連れ建て必ず敷居を跨いで会所の神棚のお礼参り祝盃する。 役付けに関してはそれぞれの各若町内独自の役柄役名、シキタリや取り決めがなされてることが多い。この5年に一度に回ってくる当番年の役目を担うこともまた役七夕の由来でもある。  運営方式は、若長の個人による寄付を主に行われ若長を主体に行われる《若長七夕》と 主に町内会全員の寄付により行われ自治会、自治会長などが主となった運営で総務の方が主体とする《総務七夕》とあるが、最近は財源が厳しくいろいろな方法手段で賄っている。

◎◎◎年間の運営運行◎◎◎~当番年の前年師走暮から年頭までに当番組の親丁が各若を招集し、覚書等により運行を仕切る大丁を務める町内を確認し合う。その後初春までに大丁より各若に参加願いをする加勢要請の準備を行う。その後加勢要請の準備に答えた町内で運行等の細かい事柄を取り決める。

基本的に

 八月一日にまず先に山王日吉神社に行き御幣を祈祷し戴く、<以前は二区画にわけて八幡住吉神社からも御幣を頂いていたと言い伝えがある> 御幣を挿頭して会所開き、鯱の入魂式{通称眼入式}を行う。会所開きに伴い正式に大丁による応接を派遣した加勢要請のお願いを持ち、大丁~加勢丁の応接による会所間の行き来により正式な返答を確認し合い運行当日を迎える。

 八月六日 当日は先に自町内を御幣を掲げた灯篭を引き出し丁内迴丁をし、

(以前は触れ太鼓と言って、燈籠を曳きだす前に子供達によって2.3柄の太鼓を叩いて祭の始まりをお触れしながら町内を回った)

その後大丁に所定の時間(夕刻前)に各若が序列に集合し、出発式を大丁会所で行いその後その組の序順列に従い、取り決められた《道中》~【当番組のそれぞれの町内を巡り〔道中のはじめや途中で市庁舎に立ち寄り音頭上げをして祈願する〕、途中で大休止をとり、最後はまた大丁に集まり終える】を 道中囃しの元、出発回丁される、六日の日の終わり方は、六日の解散式を行ったり、流れ解散したりとそれぞれの組で違う。

 八月七日 《鯱流し》は台車へ本丸御殿に御幣を掲げたシャチを乗せて丁内回丁をした後に、夕刻に大丁へ向けて出発し大丁会所に集合の後、当番組の丁内𢌞丁⁽8/6前日より短めの道順₎した後、米代川(現在総合体育館裏手の土手)に向けて出発、ドラム缶を利用した筏に鯱を載せて川に浮かべて所定の時刻(20:00~21:00頃)に鯱に点火し、流し囃しにより弔う、その後大丁に集まり解散式{通称手打ち式}を行う。{組全体の解散式の後に双町内だけで町内の境目において別れの儀式を行う所もある}~その後それぞれの町内に帰り自丁の手打ち式を行う、当日もしくは後日にそれぞれの丁内にて 直会 <なおらい(お開きの宴会)>{通称太鼓納め}を行い、その年の役七夕行事は終了する。 尚、それぞれの組で毎年親丁のもと新年会、タンポ会、忘年会等を行い交流を深め合っている。

シャチ流しの場所は2014年度清助町組は米代川の増水の為、能代港の川反・下浜埠頭で行われた。又2015年度の柳町組は米代川の鯱流し場所が浅瀬になり昨年に続き、下浜埠頭で行われた。2018年度萬町組も川が浅瀬になり下浜埠頭で行われた

五丁組制度編集

丁山~五丁山組、役七夕~五町組)

丁山一番丁-大丁組- ○大町、富町、下川反町、富新町 ~丁山に乗せる祭神は<三番叟>
役七夕-大町組- ○大若、冨若、下川若、冨新若 -4若運行

丁山二番丁-上丁組- ○上町、畠町、畠新町、東町、 鍛冶町、盤若町 ~丁山に乗せる祭神は<鍾馗>

役七夕-上町組- ○上若、畠若、畠新若、東若   ※鍛盤若   -4若運行
丁山三番丁-萬丁組- ○万町、中町、上川反町、羽立町、幸町 ~丁山に乗せる祭神は<猩猩>
役七夕-萬町組- ○萬若、中若、上川若、羽立若、幸若 <中若、上川若、羽立若、幸若=4若による合同若> -2若運行
丁山四番丁-清助丁組- ○清助町、馬喰町、 ※御指南町 ~丁山に乗せる祭神は<恵比寿>
役七夕-清助町組- ○清若、馬若、御若 <馬若、御若~2若による合同若> -2若運行
丁山五番丁-後丁組- ○後町、新町、柳町、※出戸町、本町、新柳町、柳町新道、住吉町、栄町 ~丁山に乗せる祭神は<大黒天>
役七夕-柳町組- ○柳若、新若、*出若、本若、新柳若、柳新若、☆住若、榮若、後若 -7若運行

※印は以前参加していた町内

○印は親丁

*印は現在の所、七夕町内として参加してない所

☆印は当該年度参加辞退した所

毎年7月25~27日に行われる山王日吉神社山王例大祭(寛文五年1665年頃、祭典として組織される)の時も丁山による五丁組が組織され、山車を引っ張り運営している。 祭時は町名に若をつけて名乗る。八幡住吉神社の鹿嶋祭の際にも五丁組が組織されていた、昭和の戦後まもなく廃止にいたった。

ちなみに役七夕の2000年度は柳町組が当番年で以後大町組、上町組、萬町組、清助町組の順番で役七夕は輪番制で行われている。 丁山の当番組は役七夕当番年の翌年になる。

江戸幕藩体制前の天正年代前には親丁である、專助町、大町、上町、後町、荒町、他に下川端町、中町の七町が町建てされていた。

現在の五町組が形作られたのは、明治32年に後町組の親丁だった後若が、柳若との間に争い事が生じ、当番年大丁を後若が放棄さられた事により、それ以降役七夕から除外されていた。それ以後柳若が後町組を実質親丁として実効支配統制していた、昭和35年に正式に柳若が後若の参加を認め、他の七丁を加えて覚書を交し柳町組として成立した。現在の五町組組織に成っている。

五丁組が七夕や祭典にて組織に生かされたのは正確には解からないが、行政組織が江戸初期には五人組肝煎制であったものが享保六年1721年に組織替えが行われ庄屋二制五宿老制度が組織されこの時の五丁組組織が現在のものと組み合わせがほぼ変わらない、享保以降から七夕、祭典に五丁組制度が恐らく変遷されながら活用されたものと推測される。

文化年代(1804~1818年)以前までは役七夕における五町組制度はまだ形式慣例化されていなかった模様で、さきに住吉社の鹿島祭では年番制で五町組の町全体で子供から若者が担う祭へと変わっていった。能代役七夕、山王社祭典もまた同じように形式等試行錯誤しながら運営されていったと推定される。

鹿島祭:(八幡住吉神社内鹿嶋堂の祭典~宝永期1704~1711に勧請され四月七・八日に於いて五町組の町々から一町が年番の当番丁となって、九メートル程の舟と三体の人形を作った、当番を務めない町ではそれぞれの人形を一体作って町内各屋に順送りして回し、それを最後に当番丁に持って行って舟に飾り、町々の若者が一緒になって太鼓を打ち鳴らしながら、町の端から端まで舟を運んで練り歩き最後に海へ流した。舟を造ること、源義経・武蔵坊弁慶・樋口次郎兼光の三体の人形を作ること、人形を舟に乗せ海に流すことが、当番丁の役目であった。)

山王社祭典の際の行列の内容が解る著書伊頭園茶話第三巻(安政三年1856年)には長山~壱番大町、弐番上町、三番万町、四番淸助町、五番後町と記されて五丁組が形成されている事が分かる。これ以前の淸街筆記(寛政元年1789年著)には山王祭隊列に猩々、ゑびす、ほてい、せゝき、三番叟,と記載があることからこの頃当たりから五丁山組が形成されたと推測される。

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文化13年1816年の船遊亭扇橋著『奥のしおり

【七月朔日より七夕祭と申して大猟万作と名附ケ、燈籠をこしらへ五日まては町々を子供持歩行、六日之夜毎年年番町有之五ッつヽ高サ五丈八尺位有之、大サ三間四方、神功皇后三韓退治とか加藤清正朝鮮征伐其外さまさまの形こしらへ、ろうそく一トばんに五六百丁も入り申候由、かね太鼓螺の貝なそ吹き立、太鼓の大サ丸サ五六尺曲り長サ六七尺の大たいこをたヽき立テ、

町々を曳歩行夜明ケ迄おとりさわき申候、眞事めつらしき事に御座候。津軽弘前黒石より靑盛辺にも有之よしに御座候。年番に無之町内よりも加勢と申燈籠をこしらへ右之燈籠を途り申候。

十五六日以前より若イ衆寄り合右之の燈籠細工いたし、是を下より段々組ミ上ケ地車にのせて曳出し申候。是をねむたなかしと申候。

○ミな人のねむたなかしと申せとも初て見てハ目かさむるなり】

七夕祭が年番制で行われている事が書かれている。

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明治六年(1873)の高橋彦治(初代郵便取扱方)の日記

によると「旧七月六日雨天ニテ七夕延引、七日、七夕祭礼 大町、新町、畠町、羽立町、 馬喰町、五ッ灯篭差出シ…」とあり、

七夕灯篭が五町組からそれぞれ一台ごと<大町は大町組、新町は後町組、畠町は上町組、羽立町は万町組、馬喰町は清助町組>町組毎に一台ずつ

計五基が年番制で出していることを示している。

その後、明治二十五年頃から、現在の五年ごとの五町組当番制になって、各町組毎の輪番制で実施されるようになった。

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   大正15年 五丁山組

  • 一、上町、畠町、鍛冶町       (近年町幅膨張の結果 畠町新丁を加ふ)
  • 二、大町、冨町、下川反町      (同上にて冨町新丁を加ふ、大町新道亦同じ)
  • 三、萬町、幸町、中町、上川反町、羽立町
  • 四、清助町、馬喰町、御指南町    (近時清助町新道を加ふ)
  • 五、後町、新町、本町、出戸町、南中町(同上にて新柳町、柳町新道、住吉后を加ふ)
  • 柳町

小林天風著『能代港史々』に記されている

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能代<七夕町内>の町建て編集

  ◎「昔米代村と唱えし時、人屋五十軒、辨才山の東北の麓に住せしが、年経て川岸缺流れ土砂に吹埋められ、住居成り難く所々に離す、大永(元年1521)享禄(元年1538)の頃に至り、日和山の北麓姥懐に村を成す」~~ 大日本地名辭書 下巻 ∼ 能代(野代營址)○野代山王社由來記 ~ 明治13年(1880年)~吉田東伍著

 
 大日本地名辭書 下巻~野代山王社由來記

国立国会図書館デジタルコレクション大日本地名辞書«コマ番号746/820 P4610»

・米代村(辨才山の東北麓)より姥懷(日和山の北麓)へ移住その後、川筋變地し~ ⁽八幡社は愛宕山へ山王社は小館墫(川向北の野中∼落合村田中)へ移す⁾、弘治年中に東の野中を開き移住(今の大町上町なり)………

  


 ◎淸助町(永禄年(1558~1570年)、川向旧野代より移る。淸助と云肝煎相謹に付町名とす)~~ 六郡々邑記~能代町より ⦅六郡郡邑記は一に享保郡邑記とも称し、青龍堂 岡見知愛の享保15年(1730)に編纂したものである⦆

 
六郡々邑記~能代町

«国立国会図書館デジタルコレクション六郡々邑記«コマ番号91/274 P155»

<旧野代~≪小楯鼻{こたてはな}附近今の落合地区≫より姥ケ懐{うばがうところ}≪今の下浜附近にある日和山下、 般若山≫へ移住大永享禄年中)><江戸時代の肝煎のことで世話役であった淸助の名が後に町名永禄年中)になった。清助は、清水政吉と共に今の日吉神社建立由来に関わる人>

※ 元禄年中川向舊野代より移る➡印刷校正ミスで元禄年中と記載されてるが、正解は永禄年中である。

  


 ◎初代清水治郎兵衛 往古当処姥ケ懐と申処に住居、其後 弘治二丙辰年(1556)米代を見立住居定り、此時は在家少し且秋田太郎近季公より知行井給代給り諸材木支配惣町支配仕、永祿甲子年(1564)今之長慶寺を建其後天正年中居地之鎮守当処今の山王権現社建立、当処大光院栄長を別当とす。同年中処処今の徳善寺建立仕候」 ~(寛政元酉年1789、御下代歴代帳 清水政應寫)渟城家文書

  • 弘治2年(1556年) 清水政吉が秋田愛季からの知行により姥ケ懐より現在地の大町、上町付近に住居を移住した。まだ【渟代(ぬしろ) のしろ(農志路)(野代湊)】と言われていたころに集落ではなく町として形成し、能代の町づくりはじまる。



 
若松鉄四郎氏写 文化九年作成 能代町絵図


  • 大町~弘治年中までに建立(1556~1558年)
  • 上町~弘治年中(1556~1558)
  • 後町{上後町、下後町}~永禄年中までに建立(1558~1569年)
  • 專助町~永禄年中までに建立(1558~1569)
  • 荒町~永禄年中(1558~1569)
  • 下川端町~永禄年中(1558~1569)
  • 中町~永禄年中(1558~1569)
  • 博労町~寛永年中までに建立(1624~1645)
  • 上川端町~承應年中までに建立(1652~1654年)
  • 七郎右衛門町~寛文年中までに建立(1661~1672年)
  • 新町~寛文年中(1661~1672)
  • 鍛冶町~寛文年中(1661~1672)
  • ※稲荷町~寛文年中(1661~1672)
  • 畑町~延宝年中までに建立(1673~1681年)
  • 出戸町~延宝年中(1673~1681)
  • 初立町~延宝年中<七郎右衛門町を改名>(1673~1681)
  • 柳町~貞享年中までに建立(1684~1687年)
  • ※御足軽町~元禄年中までに建立(1668~1704年)
  • 幸町~元禄年中(1668~1704)
  • 冨町~元禄年中(1668~1704)
  • 朝日町~元禄年中(1668~1704)<所在地不明>
  • 萬町~宝永元年(1704年)<荒町改名>
  • 赤舘町~宝永年中(1704~1710年)
  • 立林町~正徳年中までに建立(1711~1715年)<後の本町>
  • 中冨町~享保年頃までに建立(1716~1735年)<後の横町>
  • ※般若町~寛政十年に建立(1798年)
  • ※御指南町~文化年中<御足軽町を改名>~(1804~1818年)
  • ※門前町~文化年頃?までに建立(1804~1818年)
  • ※長根町~文化年頃?(1804~1818)<後の冨町、上町>
  • ※住吉町«住吉小路»~文化年頃?(1804~1818)<後の柳町、住吉町>
  • ※横町~文化年頃?(1804~1818)<以前中冨町>
  • ※寺町~文化年頃?(1804~1818)<後の横町、冨町>
  • ※新屋敷本町~文化年頃?(1804~1818)<後の本町>
  • ※新屋敷中町~文化年頃?(1804~1818)<後の南仲町>
  • ※本町~天保年中までに建立(1830~1844年)
  • ※南仲町~天保年中(1830~1844)
  • 新柳町~明治24年頃(1891年)までに建立
  • 柳町新道~明治25年頃(1892年)に建立
  • 畠町新町<三吉・追分・樽子山>~明治41年以降(1908年)に建立
  • 冨町新町<駅前・旭町・明治町>~明治41年以降(1908年)に建立
  • 住吉後~大正13年(1924年)以前までに建立<後の住吉町、榮町、東町>
  • ※八幡町~昭和7年以前(1932年)までに建立 <後の住吉町>
  • 榮町~昭和7年以前(1932)
  • 東住吉町~昭和7年以前(1932)<後の東町>

※町割りに於いて門前町、長根町、新屋敷町等々が当ったが、寺院、神社、武家などの屋舎の町で微税対象外で一部地域を除いて五町組には加わらなかった。             ★ 参考文献 参照:〈能代市史稿、能代市史年表、能代市史~資料編 享保十三年、文化八年能代町絵図、郷土史の窓~能代湊・桧山周辺史話 、 秋田縣能代港市街明細繪図 等〉

補足:名称:斉明紀(594~661)~渟代(ヌシロ) 宝亀紀(770~781)~野代湊  宝永元年(1704)~野代⁽農志路⁾から能代へと改称

能代港町は明治22年4月1日町村制の施行により発足  能代港町は昭和15年に市制を施行し能代市となる   昭和33年2月に能代市の一部を編入し現在の住所へ町名等を改名

由来編集

   由来は複数説あり、阿部比羅夫の<男鹿山中に棲む海賊アケト丸兄弟を降伏せしむるための手段として燈籠や筏に火を灯しておびき寄せた>~斉明4年(658年)頃や   坂上田村麻呂~延暦年間(797~805年)に蝦夷との戦いの際、灯籠を使用したことがはじまりという説や、豊作祈願のため、夏の眠気や疫病を払うとして米代川に灯籠を流したという説がある。「ねぶながし」の語源は、子供たちが旧暦の七夕の晩に「ねふねふ流れ、豆の葉にとまれ」と囃して歩き、眠気を覚ましたことに由来すると言われている。天保1830~1844年の頃から城郭型の燈籠が作られるようになった。城郭型燈籠の起源は清助町出身の宮腰屋嘉六 (天保.文化.1830年頃). が名古屋城を模した5尺のネプタを作ったと言われており、京都の東本願寺の木材運搬に口クロや滑車を工夫したり、金沢の兼六園に水揚げをした事でも知られている。

役七夕の記録で最も古いのは「代邑聞見録」{宇野親員著、寛保元年=1741} この中に「七月六日の夜、童部共五人、十人組合、灯篭をつけ『ねぶねぶ流れ、豆の葉にとまれ、とまれ』と太鼓、鉦箱にてはやし、町中を廻る。是を「ねぶ流し」といふ、牛女祭る夜といふにより、眠り流しといふ事にや、一夜眠らず、朝になりて川へ出て、垢離をかく」と記されている。

※垢離(こり~水を浴びて、心身を清める)※阿倍仲麻呂阿部比羅夫の孫に当たる。

ねぶながし会館編集

能代火力発電所エナジアムパーク内にある施設。能代役七夕について紹介されており、灯篭が展示されているほかお囃子を聴くことなどができる。

脚注編集

関連項目編集

外部リンク編集