能登川昭和映画劇場
能登川昭和映画劇場(のとがわしょうわえいがげきじょう)は、かつて存在した日本の映画館である[1][2][3][4][5][6][7][8][9]。
能登川昭和映画劇場 Notogawa Shoei | |
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情報 | |
正式名称 | 能登川昭和映画劇場 |
旧名称 |
湖東館 能登川劇場 |
開館 | 1953年9月 |
閉館 | 1991年 |
収容人員 | 300人 |
用途 | 映画の興行 |
運営 | 協楽興業 |
所在地 |
〒521-1211 滋賀県神崎郡能登川町大字垣見26番地 |
最寄駅 | 能登川駅 |
特記事項 |
略歴 1930年代 湖東館開館 1947年 復興・能登川劇場と改称 1953年9月 能登川昭和映画劇場と改称 1968年前後 休館 1991年 閉館 |
正確な時期は不明であるが、昭和初年の1930年代には滋賀県神崎郡八幡村(現在の同県東近江市能登川地区)の能登川駅前に多目的娯楽施設湖東館(ことうかん)として開館した[9]。第二次世界大戦が本格的になると建物は工場化されたが、戦後、1947年(昭和22年)には有志の手により映画館として復興[9]、能登川劇場(のとがわげきじょう)と改称する[1][2]。1953年(昭和28年)9月、八日市市の協楽興業に経営権が移り、能登川昭和映画劇場と改称する[4][5][9]。1968年(昭和43年)前後には映画の常設上映は終了しているが[8][10]、閉館したのは1991年(平成3年)である[9][11]。能登川の歴史上、最初で最後の映画館であった[8][10]。略称は能登川昭映(のとがわしょうえい)、通称昭映(しょうえい)[9]。イラストレーター・グラフィックデザイナーの黒田征太郎の回想に登場する映画館としても知られる[12]。
沿革
編集データ
編集歴史
編集正確な時期は不明であるが、昭和初年の1930年代には滋賀県神崎郡八幡村大字垣見(現在の同県東近江市垣見町26番地)の能登川駅前に、映画を含めた多目的の娯楽施設湖東館として開館している[9]。能登川駅は、1889年(明治22年)7月1日、能登川村ではなく八幡村大字垣見と五峰村大字林(現在の東近江市林町)の境に開業しており[14]、同館は同駅の東側、駅前といえる場所に位置した[1][2][13]。東近江市能登川博物館によれば、1934年(昭和9年)に同館で行われた映画興行の際のチラシが現存しているという[13]。常設館ではなかったため、同時代の映画年鑑等には同館についての記載はない[15]。
同館が位置した八幡村は、1942年(昭和17年)2月11日、近隣の能登川村等と合併して能登川町になる。同年5月3日には、同館で能登川町誕生を祝う祝賀上映会が開催された[9]。第二次世界大戦が本格的になると、同館の客席等は撤去され、建物は栄養食株式会社[16]の工場に転用された[9]。
戦後、1947年(昭和22年)には地元の有志により、映画館として復興した[9]。能登川育ちの黒田征太郎(1939年 - )の回想によれば、この時期、松竹大船撮影所が製作し松竹が配給した、美空ひばり主演の映画『東京キッド』(監督斎藤寅次郎、1950年9月9日公開[17])が同館で公開されている[12]。少年時代の黒田にとっては、同館での映画上映と駅前の加藤書店(垣見町781番地に現存[18])の少年雑誌が支えであったという[12]。1951年(昭和26年)に発行された『映画年鑑 1951』には同館についての記載はなく[19]、翌1951年(昭和26年)に発行された『映画年鑑 1952』以降には、能登川劇場として同館の情報が掲載されている[1][2]。当時の同館の経営は能登川興業、支配人は寺井一雄であり、興行系統は日本映画各社の混映館であった[1][2][3]。
1953年(昭和28年)9月、八日市市(現在の東近江市八日市本町)で協楽興業に経営権が移り、能登川昭和映画劇場と改称している[3][4][5][9]。協楽興業(代表・堀井昭典)は、1940年(昭和15年)に火災で焼失した八日市延命新地のバンザイ館を復興し、昭和映画劇場(八日市昭映)として設立した会社であり[20][21][22]、翌1955年(昭和30年)には協楽映画劇場(八日市協映)を新設し、能登川昭映を含めて3館を経営した[20][22]。当時の同館の支配人は堀井昭秀、観客定員数は400名、興行系統は日本映画・外国映画のいずれも上映する邦洋混映館であった[4][5]。
1968年(昭和43年)前後には、映画の常設上映の事業を終了し、事実上の休館に入る[8][10]。同館の建物自体は1991年(平成3年)まで存続したあと、公式に閉館した[9][11]。1996年(平成8年)には、協楽興業が経営した八日市の協映・昭映も閉館した[23]。同館が名を冠した能登川町は2006年(平成18年)1月1日、東近江市に編入されている。同館の跡地の現況は、2013年(平成25年)1月現在は駐車場である[13]。
脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j k 年鑑[1952], p.530.
- ^ a b c d e f g h i j k 総覧[1953], p.113.
- ^ a b c d e f 総覧[1954], p.121.
- ^ a b c d e f g h i j 総覧[1955], p.133.
- ^ a b c d e f g h i 便覧[1956], p.134.
- ^ 昭和32年の映画館 滋賀県 38館、中原行夫の部屋(原典『キネマ旬報』1957年1月1日号)、2014年6月12日閲覧。
- ^ a b c d e 便覧[1961], p.205.
- ^ a b c d e f g h i 便覧[1967], p.135.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q “能登川昭和映画劇場”. 「カチンコとメガホン 沢島忠&東近江の映画文化」. 東近江市能登川博物館 (2012年5月10日). 2014年6月12日閲覧。
- ^ a b c d 便覧[1969], p.145.
- ^ a b c 能登川昭和映画劇場、1991年10月14日撮影、能登川昭和映画劇場、2014年6月12日閲覧。
- ^ a b c 本田[1987], p.189-191.
- ^ a b c d 滋賀県東近江市垣見町26番地、Google マップ・Google ストリートビュー、2013年1月撮影、2014年6月12日閲覧。
- ^ 町の玄関口・能登川駅の歩み、東近江市能登川博物館、2014年6月12日閲覧。
- ^ 年鑑[1942], p.10/66-67.
- ^ eiyo.co.jp, 栄養食、2014年6月12日閲覧。
- ^ 東京キッド、日本映画データベース、2014年6月12日閲覧。
- ^ 有限会社加藤書店、東近江市商工会能登川支部、2014年6月12日閲覧。
- ^ 年鑑[1951], p.401.
- ^ a b 年鑑[1958], p.711.
- ^ 聖徳中[1952], p.106, 129, 178, 214.
- ^ a b 八日市市[1987], p.232, 271, 470, 481, 706.
- ^ 名簿[1996], p.103.
参考文献
編集- 『映画年鑑 昭和十七年版』、日本映画協会、1942年発行
- 『映画年鑑 1951』、時事通信社、1951年発行
- 『映画年鑑 1952』、時事通信社、1952年発行
- 『滋賀縣八日市町史の研究 近代篇』、八日市町立聖徳中学校郷土研究会、滋賀県神崎郡八日市町、1952年発行
- 『映画年鑑 1953 別冊 全国映画館総覧』、時事通信社、1953年発行
- 『映画年鑑 1954 別冊 全国映画館総覧』、時事通信社、1954年発行
- 『映画年鑑 1955 別冊 全国映画館総覧』、時事通信社、1955年発行
- 『映画年鑑 1956 別冊 映画便覧』、時事通信社、1956年発行
- 『映画年鑑 1958』、時事通信社、1958年発行
- 『映画年鑑 1961 別冊 映画便覧』、時事通信社、1961年発行
- 『映画年鑑 1967 別冊 映画便覧』、時事通信社、1967年発行
- 『映画年鑑 1969 別冊 映画便覧』、時事通信社、1969年発行
- 『八日市市史 第4巻 近現代』、八日市市役所、1987年発行
- 『「戦後」 美空ひばりとその時代』、本田靖春、講談社、1987年11月 ISBN 4062035545
- 『映画年鑑 1996 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1996年発行
関連項目
編集外部リンク
編集画像外部リンク | |
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能登川昭和映画劇場 1991年10月14日撮影(能登川昭和映画劇場) |
- 滋賀県東近江市垣見町26番地 - 2013年1月時点の同館跡地 (Google マップ・Google ストリートビュー)