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自剛天真流(じごうてんしんりゅう)は、福岡藩伝来の武術の一つ。別名、為勢自得天真流。盛岡藩にも伝えられている。

自剛天真流
じごうてんしんりゅう
別名 為勢自得天真流
発生国 日本の旗 日本
創始者 藤田長助麓憲貞
源流 笠原流良移心當流楊心流
伝承地 福岡県
  
明道館柔道之碑
崇福寺

概要編集

創流時は全てのものを武器として使用する綜合武術であったが、現在では主に柔術が相伝されている。古式の技法が数多く残されており、逆手を中心とした関節技、居取、拳法、逮捕術、活法など多彩な技を今に伝えている。また2005年に福岡市の無形文化財に指定された。

歴史編集

流祖は福岡藩士の藤田長助麓憲貞(1844年(天保15年)没)。藤田は始めに笠原流(開祖 笠原三郎右衛門雪近)、久保貞治に良移心當流(笠原四郎左衛門)、海賀藤蔵直方に楊心流を習い、これら三流派の皆伝を得た後、自ら工夫を重ね、麓天真流として一派を開いた。後に為勢自得天真流と改称し、晩年は大坂町奉行所師範となった。また盛岡藩にも自得天真流として伝承された。

藤田の没後、娘婿の庄林藤原道一は流名を自剛天真流とする。まだこの当時は、為勢自得天真流・良移心当流の2流並記の流名を称していた。

庄林藤橘の没後、玄洋社の附属道場明道館が伝承の中心的な役割を担った。また、玄洋社から分かれた黒龍会の創始者内田良平天真館を設立し、自剛天真流の普及につとめた。

自剛天真流は他の柔術流派のように、講道館柔道と対立せず、天真館では自剛天真流と講道館柔道を指導したため、天真館は九州における講道館柔道の拠点のひとつになった。

太平洋戦争によって、明道館に保存されていた伝書は戦災で焼失した。戦後、連合国軍最高司令官総司令部から、玄洋社、黒龍会の解散を命じられた時に明道館・天真館も解体され、その際に天真館に保存されていた伝書も焼却された。

明道館で学んだ横田正米1894年 - 1972年)の門弟・財部一雄1927年 - )は、明道館出身の旧門弟宅を訪ね、伝書類を収集した。横田は他に双水執流の浜崎市五郎にも師事して技の研鑽を重ね免許を得る。さらに自らも新たに技を編み出し、その技は500あまりに達したと言われている。明道館は1949年(昭和24年)に再興され、現在でも高段者に対しては古式の型として自剛天真流の型が伝えられている。

天真館の系統でも、天真館で指導していた複数の師範に学んだ赤司智治[1]1940年 - )が、財部と同様に天真館出身の旧門弟宅を訪ね、伝書類を収集した。天真館では自剛天真流と講道館柔道を指導していたのは前述の通りだが、天真館出身で講道館柔道の師範も務めた西文雄が1940年(昭和15年)に著した『自剛天真流畧解』は、伝書が消失した状況下において貴重な資料となった。

現在、明道館、天真館と、横田の弟子であった三舟統一郎1949年 - )の為勢自得天真流本部が、自剛天真流を指導している。

なお、他に「自剛天真流抜刀術」を名乗る流派がある。自剛天真流はかつて右田道場で稽古をしていたことがあり、ここで稽古していた福岡伝柳生新影流十三代宗家の蒲池則と、柔術と剣術の技術交流を行っていたことがあった。このことから、「自剛天真流抜刀術」とは、その頃稽古していた門人が伝えているものと思われるが、「自剛天真流」とは直接には関係がない。

和術自剛天真流
天真館では、昭和の初めころから不文律として、柔道五段以上で人格者のみ自剛天真流を相伝し、西文雄(八段)、富永専三郎(八段)、前田実(八段)、藤川恒夫(七段)、前田勝(六段)、野田清美(七段)、富田漠(六段)※いずれも没 等が継承したが、昭和46年以降相伝継承者はなく、現在では正当な継承は明道館と昭和義塾のみである。

脚注編集

  1. ^ 赤司智治(1940年 - ) 誕生 佐賀鍋島本藩藩士の子孫として生まれる。 15歳 柔道道場天真館に入門する。 30歳 教師として天眞館に居を構え門弟を指導し、自らも柔道と同館に伝承された和術自剛天真流を修業。特に、師範西文雄氏の最後の弟子として薫陶を受ける。 43歳 同館の師範となる。 45歳 退館し、昭和義塾を昭和61年6月に創立。 公職である福岡県警察官は、昭和35年6月拝命後、西・捜査一課・東・筑紫野・博多臨港・福岡中央警察署と、主に刑事警察に従事、この間柔道指導員として奉職。

外部リンク編集