至福の教え(しふくのおしえ、英語: The Beatitudes)はイエス・キリストが「山上の教え」の冒頭で、真の幸福とは何かを語ったもの。

『至福の教え』(ジェームズ・ティソ画、ブルックリン美術館所蔵)
至福の教え教会イスラエルガリラヤ湖北西岸)

概要 編集

「至福の教え」は彼とその弟子たちの教えを記録した『新約聖書』の中の「マタイによる福音書」の「山上の垂訓」の冒頭(5章)にある。

5章1節 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
3 こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。
7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
10 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。12 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

— マタイ 5:1 - マタイ 5:12
マタイ 5:21 - マタイ 7:29も参照)

中国と日本のみでは、マタイによる福音書5章3節ー10節までに八つの項目があるので、「八福の教え[1]といったり、カトリックでは「真福八端」(しんぷくはったん)と呼ばれる。(11節の項目は、弟子たちだけに向けたものという解釈である。)日本正教会では11節も入れて「真福九端」としても知られている。[2]しかし、事柄が八つとか、九つというのは、あまり意味がない。

また、「ルカによる福音書」では「平地の教え」で6章20-22節に四つの幸い、6章24―26節で四つの災い(幸いの反対)として記述されている。

6章20節 そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、
あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。
21 あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。
あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。
22 人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。

23 その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである。

24 しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。
25 あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。
あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。
26 人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。
— ルカ 6:20 - ルカ 6:26
 (ルカ 6:20 - ルカ 6:26も参照)

礼拝における至福の教え 編集

聖書の中でもよく知られた箇所であるが、カトリックプロテスタントを含む西方教会では、例えば「改訂共通聖書日課」を使用する教会では3年に一度読まれるだけである(A/B/C年の内、A年公現日・顕現日後第4主日)。正教会を含む東方教会では、よく利用される「聖金口イオアン聖体礼儀」では、礼拝(奉神礼)の冒頭の第3のアンティフォンとして入っているので、ほぼ毎日曜日に聞く聖句で、より身近に感じることになる。

カトリック教会 編集

人間の人格の尊厳の根源は神の似姿として作られた為であり、人は霊的な不滅の霊魂と知性と自由な意思を備え、人が永遠の命において神を見るという「永遠の至福」へと秩序づけられていることにある。 真福八端(しんぷくはったん beatitiudini evangeliche)は、唯一の教会(カトリック教会)において、人の行為の究極目的たる「永遠の至福」を明らかにするイエスの宣教の中心、御顔の反映であるとされ、至福への召命において、どのようにして至福に達するかにおいて、重要な教えとされている。(カトリック教会のカテキズム1716-1717;1725-1726)。

日本正教会 編集

 
真福九端のイコン18世紀より前・ロシア正教会)。

真福九端(しんぷくきゅうたん、ロシア語: Заповеди блаженства)は、正教会において最も頻繁に用いられる祈りの1つであり、題は日本正教会による訳語である。マタイによる福音書5章3節から12節までから取られた句に由来する。全体的に謙遜を意味していることから「謙遜の祈り」とも呼ばれる。


日本正教会の祈り 編集

真福九端カトリック教会とは句の数え方が違うため数字が異なる)は、信者の精神性・生活態度のあるべき姿について、イイスス・ハリストス(イエス・キリストのギリシャ語読み)が山上の垂訓において教えたものであるとされる。聖体礼儀で頻繁に歌われ、特別な祭日ではない主日(日曜日)においては殆ど欠かさず歌われる。

聖体礼儀においては、冒頭に「主や、爾の国に来らんとき、我等を記憶ひ(おもい)給へ」という善智なる盗賊(ぜんちなるとうぞく…イイスス・ハリストスが十字架に架けられた際に、その右側にともに十字架に付けられた盗賊のこと:「右盗」とも)の言葉を置き、その後にマタイによる福音書5章3節から12節から引用された祈りが続く。

階梯者聖イオアンの、天国への階段の教えと絡めて理解される事が多い。一段一段、信徒が上っていくべき心の状態を示しているとされる。

日本正教会の祈祷文題名 編集

日本正教会では真福九端という呼び名が定着しているが、日本語以外の言語では"Во царствии Твоем"(『爾の國に』教会スラヴ語)、"In Thy kingdom"(『爾の國に』英語)のように、祈祷文の冒頭の句を題名として用いているものがある。正教会に限らず、キリスト教では祈祷文の題名に冒頭の句を用いること(インキピット)は一般的に行われる。

日本正教会においても祈祷文の冒頭の句を祈りの題名として用いるケースは数多くあるが(天の王など)、真福九端の場合、「主や爾の國に来らん時」などと表記することはまず無い。

聖体礼儀において第3アンティフォンロシア語: Антифон 3-й, 英語: Third Antiphon)として歌われる事が多いが、第3アンティフォンに用いられる祈祷文は真福九端に限定されず、日によって他の讃詞も用いられる。従って「真福九端=第3アンティフォン」といった理解は誤りである。

祈祷文本文 編集

以下は、日本正教会聖体礼儀に用いられている祈祷文である。日本正教会発行の『時課經』(時課経)に拠ったが、一部、旧字体を簡略化するなどしている。

主や なんじくにきたらんとき 我等を記憶おもたま

心の貧しき者はさいはひなり 天國てんごく彼等かれらのものなればなり

泣く者はさいはいなり 彼等は慰めをんとすればなり

温柔おんじゅうなる者はさいはいなり 彼等は地をがんとすればなり

かわく者はさいはいなり 彼等はくを得んとすればなり

矜恤あはれみある者はさいはいなり 彼等は矜恤あはれみを得んとすればなり

こころきよき者はさいはいなり 彼等はかみを見んとすればなり

和平わへいを行う者はさいはいなり 彼等は神の子となづけられんとすればなり

義のために窘逐きんちく[3]せらるる者はさいはいなり 天國てんごく彼等かれらのものなればなり

ひと ためなんじらをののしり汝等なんじら窘逐きんちく汝等なんじらの事をいつはりてもろもろしき言葉をいはん時 汝等なんじらさいはいなり

よろこたのしめよ 天には汝等なんじら報賞むくい 多ければなり — 時課經(日本正教会・明治17年7月初版、平成10年11月20日再版)

歌唱 編集

聖体礼儀において、単純な伝統的旋律にのせて歌われるほか、作曲されたものを歌うこともある。聖体礼儀に含まれる祈祷文であるため、聖体礼儀全曲を作曲した作曲家であれば、真福九端も殆どの場合において作曲している。

日本語訳 編集

「さいわいである」または「福である」という日本語訳に問題があると指摘する人もいる[4]。ギリシャ語原文も「ジェームズ王版聖書」以降の英語訳聖書も、各項目は「祝福されるのは...」(英語: Blessed are ...)で始まっており、「幸い」または「福」という言葉は使っていない。「神から見て祝福されるのは....」という意味であると解釈すべきとする。ただし、意訳して分かり易くするために「さいわいである」とするのは、『エルサレム聖書』や『共同訳聖書』などの最近のフランス語訳聖書でも「Heureux ceux qui ...」とおこなわれている。

脚注 編集

  1. ^ 八福の教え(キリスト教用語辞典)
  2. ^ もともとはラテン語の「ベアティチュード」(英語: the Beatitudes、至福の意味)からきた言葉で、それがいくつかはいってない。聖書が中国語に翻訳された時に八好きの中国人たちに「八福」といわれるようになり(中国語の「端」は「事柄」の意味)、それが日本へもそのまま影響して、奇数好きの日本人からは「九端」という言葉も生まれた。
  3. ^ 窘逐(きんちく)…迫害のこと。
  4. ^ マタイ伝5章の講話

参考文献 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集