興雲院

織田信長の側室
総見院にある興雲院の墓

興雲院(きょううんいん、? - 慶長17年6月25日1612年7月23日))は、織田信長側室の一人。近江国野洲郡北里村の土豪・高畑源十郎の四女[1]。通称はお鍋の方(おなべのかた)。しかしながら、お鍋宛の書状の宛先は「小倉」「小椋」などとなっており、系譜類では「小倉三河守女」との記録も残り、当時の女性は実家の姓を名乗る事から、高畑氏であると言う説には疑問が残る。また、本能寺の変後、お鍋が実家の小倉氏の元に戻っていたとする文献もある。

俗説では、はじめ近江国の八尾山城主である小倉実房(実澄)に嫁いで[1]、この間に二人の男児(小倉甚五郎小倉松寿)をもうけた。実房が蒲生定秀に攻められ戦死した後は信長の側室となり、織田信高織田信吉於振水野忠胤佐治一成室)をもうけている。

天正10年(1582年)に本能寺の変で信長が死去した後は、6月6日に美濃国長良の崇福寺を信長の位牌所と定め、いかなる者の違乱を許さないとお鍋が自筆で、この寺の住職に命じている[2]。信長の位牌を安置し、菩提を弔うという行為を側室のお鍋が行っており、織田家中における地位の高さが推測できる[2]。ただし、崇福寺に残る位牌所設置の書状の署名が「なへ」であるため、興雲院の書状であろうとされているが、「なへ」は当時の一般的な女性名であるため、興雲院ではない可能性もある。なお、次男・松千代は本能寺で信長に殉じた。

こうした経緯を経て羽柴秀吉の庇護下に置かれ、化粧領化粧料とも)として近江国神埼郡高野村で500石を与えられた[1]。秀吉の正室・おねに仕えて孝蔵主東殿大谷吉継の母)と共に側近の筆頭であったという。長男・甚五郎が天正11年(1583年)に加賀松任城主に任じられたという記録もあり、豊臣政権の奥向きにあって重きをなしたことは確かなようである。お鍋が秀吉の側室・松の丸殿の侍女であった可能性も指摘されている[3][4]

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで子の信吉が西軍について改易されたため連座して500石の化粧領を取り上げられる。そこで困窮したお鍋に豊臣秀頼(実質は淀殿)から50石の知行、北政所からは30石の知行が与えられ、共同でお鍋の晩年を支えた[5]。京都で晩年を過ごしている。慶長17年(1612年)6月25日、死去した[1]。墓所は京都の大徳寺塔頭総見院[1]。文学に造詣が深く公家との交流があったという。

登場作品編集

参考論文編集

  • 松田亮「信長の側室、おなべの方」(『歴史研究』1969年12月号)
  • 桑田忠親『太閤秀吉の手紙』(角川文庫、1965年)
  • 桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)
  • 宮本義己「戦国「名将夫婦」を語る10通の手紙」(『歴史読本』42巻10号、1997年)
  • 跡部信「高台院と豊臣家」(『大阪城天守閣紀要』第34号、2006年)

脚注編集

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  1. ^ a b c d e 松田亮「信長の側室、おなべの方」(『歴史研究』1969年12月号)
  2. ^ a b 宮本義己「戦国「名将夫婦」を語る10通の手紙」(『歴史読本』42巻10号、1997年)
  3. ^ 桑田忠親『太閤秀吉の手紙』(角川文庫、1965年)
  4. ^ 桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)140-141頁
  5. ^ 跡部信「高台院と豊臣家」(『大阪城天守閣紀要』第34号、2006年)