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般若野の戦い (平安時代)

般若野の戦い(はんにゃののたたかい)は、寿永2年5月9日1183年5月31日)に越中国富山県般若野で行われた平氏軍(平盛俊)と源氏および北陸蜂起勢力連合軍(今井兼平)との間の戦い。

般若野の戦い
Hannyano kosenjou.jpg
戦争治承・寿永の乱
年月日寿永2年(1183年)5月9日
場所越中国般若野富山県高岡市南部から砺波市東部)
結果:源氏軍の勝利
交戦勢力
Sasa Rindo.svg源氏
北陸在地豪族
Ageha-cho.svg平氏
指導者・指揮官
今井兼平 平盛俊
治承・寿永の乱

寿永2年(1183年)5月9日の明け方、加賀より軍を進め般若野の地で兵を休めていた平氏軍の先遣隊平盛俊の軍を、木曾義仲の先遣隊今井兼平の軍が奇襲し、平盛俊軍は戦況不利に陥り退却した。

目次

詳細編集

養和の大飢饉が一段落した寿永2年(1183年)、平家は各地で起きた反乱鎮圧に乗り出すこととした。その第一の目標は北陸の制圧に定められた[1]平維盛を総大将とした平氏軍は京より北上し越前・加賀を制して越中へ軍を進めようとした。

平維盛は越中、越後国境にある寒原の険(現在の親不知付近)を占領し木曾義仲軍が越中へ進軍してくるのを寒原の険で迎え撃つという作戦を立て、越中の地理に詳しい越中前司平盛俊に兵5,000を与えて先遣隊とし越中へ進軍させた。

その頃、越後の国府にいた木曾義仲は平氏軍が越前・加賀が手中に収め越中へ進軍するとの知らせを受け、平氏軍が越中を確保する前に平氏軍を撃破するため自ら軍を率いて越中へ兵を進めることにした。

まず今井兼平が木曾義仲軍の先遣隊として兵6,000にて越後国府を出発。平氏軍より先んじて越中に入り御服山(ごふくやま;現在の呉羽山)に布陣して平氏軍を迎え撃つ体勢を整えた。

平氏軍の先遣隊平盛俊軍は、5月8日に加賀より倶利伽羅峠を越えて越中へ入った。平盛俊が般若野にまで軍を進めたとき源氏軍先遣隊(今井兼平軍)が呉羽山を占領したことを知り、その日はあえてそれ以上の進軍を行わず般若野に留まることにした。

5月8日夕刻、平盛俊軍が般若野から前進しないことを察知した今井兼平軍は敵の意表をつく夜襲を決断。闇にまぎれて敵へ接近し5月9日明け方に攻撃を開始した。

平盛俊軍は善戦したが5月9日午後2時ごろに戦況不利に陥り退却。

越中浜街道を進軍し、5月9日には六動寺(現在の新湊市六渡寺)に宿営していた木曾義仲軍は5月10日に般若野の今井兼平軍に合流。5月11日朝、倶利伽羅峠へ向かって般若野を出発した。

戦場となった場所について編集

般若野とは現在の高岡市南部(北般若地区中田地区般若野地区)から砺波市東部(南般若地区、東般若地区、般若地区、栴檀野地区、栴檀山地区)にわたる広範囲な地域を指す。

般若野の戦いが起きた場所については正確な記録が残っていないため特定することはできない。しかし、平氏軍(平盛俊軍)が寒原の険(現在の親不知付近)を目指していたこと、また中田通(倶利伽羅峠-般若野-呉羽山)が当時北陸道の主道であったことなどを考えると、現在の高岡市般若野地区にある弓の清水(ゆみのしょうず)周辺が戦場となったのではないかとする説が有力である。現地には弓の清水古戦場般若野古戦場の案内板がある。

参考源平盛衰記では、木曾義仲が般若野御河端で軍議を練ったとされるが、御河端の所在地は不明である。

平家物語(長門本)では、木曾義仲軍は5万余騎を率い「池原の般若野」に布陣したとの記されているが、現在の栴檀野地区の池原(砺波市池原)に木曾義仲が布陣したとは考えられていない。

「般若野の池原」ではなく「池原の般若野」とあることから、古くから荘園経営されてきた「池原」の地名は平家の物語の中で知名度が高かったため、このように記されたのではないかと考えられている。

脚注編集

  1. ^ この出兵については『吾妻鏡』においては木曾義仲討伐のためと記されているが、『玉葉』における討伐の対象者は「源頼朝・源信義」となっており、追討の対象は「木曽義仲」ではなくあくまでも北陸の反乱軍であるという見解が強まりつつある。上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』(吉川弘文館)

参考文献編集

  • 中田町誌
  • 砺波市史
  • 上杉和彦『戦争の日本史6 源平の争乱』(吉川弘文館)