芥川山城(あくたがわやまじょう/あくたがわさんじょう)は、大阪府高槻市の三好山にあった日本の城。国の史跡への指定が答申されている(指定名称は「芥川城」)[1]

logo
芥川山城
大阪府
芥川山城のあった三好山(奥)を南東から
芥川山城のあった三好山(奥)を南東から
別名 芥川城、原城、三好山城
城郭構造 連郭式山城
天守構造 なし
築城主 細川高国
築城年 永正12年(1515年)か
主な改修者 細川晴元三好長慶
主な城主 能勢氏、細川晴元、三好氏和田惟政高山氏
廃城年 元亀2年(1571年
遺構 曲輪、堀切、石垣、土塁、土橋、虎口
指定文化財 なし
再建造物 なし
位置 北緯34度52分51秒 東経135度35分17秒 / 北緯34.88083度 東経135.58806度 / 34.88083; 135.58806
地図
芥川山城の位置(大阪府内)
芥川山城
芥川山城
テンプレートを表示

当時の呼称は「芥川城」であるが、同じ高槻市殿町周辺にあった城も「芥川城」と呼称しており、高槻市史が便宜上、三好山にあった城を「芥川山城」と呼称したため、現在多くの文献でも「芥川山城」と呼称されている。2017年平成29年)4月6日、「続日本100名城」(159番)に選定された。

概要編集

 
芥川山城の石碑
 
芥川上流、摂津峡上の口

芥川山城は飯盛山城と共に大阪府下では最も規模が大きな城跡で、遺構の残存状態も良好で戦国時代の典型的な山城である。

芥川山城は標高182.6mの三好山に築城されている。東に隣接する帯仕山の方が192.3mと高いが、山頂部がなだらかであるため城郭には不向きで、摂津峡の切り立った断崖など、地形を重視して選地されたと推定される。戦国時代に山城を築く場合に、どのような山を選地したか、どのような考えで城郭を築いたかの参考となる城である。

高槻市北部に位置し、北・西・南の三方を芥川で囲まれて、急崖の上、天然の要害として築城された。

古文書に「芥川城」とだけ記載されている場合は、殿町周辺にあった芥川城のことなのか、三好山にあった芥川山城を指しているのか、はっきりしないことがある。これは芥川城の廃城時期が明確でないためである。また、芥川城および芥川山城を細川政元以来の細川政権、その後継と言える三好政権の本拠地(政庁の所在地)として捉え、芥川山城の築城もその流れの中で考える見方もある[2]

沿革編集

この城の文献における初見は、永正7年(1520年)10月に、「芥川ノ北二当リ可然大山ノ有ケルヲ城郭ニソ構ヘ」(『瓦林正頼記』)という記載があり、これが芥川山城の事を指している思われる。同書によると「築城にあたり昼夜兼行で300名~500名の人夫が動員された」とも記載されている。

能勢氏時代編集

初代城主能勢頼則であるが、永正13年(1516年)8月に没しており、2代目城主は息子の能勢頼明、更に大永3年(1523年)には能勢国頼が3代目城主になっていたと思われる。

大永6年(1526年)、細川高国による香西元盛謀殺に激怒した香西元盛の兄弟の波多野元清柳本賢治らが反乱を起こす。波多野元清らが丹波から京都へ向かう途中、芥川山城を含む摂津の城々を降伏開城させた。この際に能勢国頼は逃亡したと思われる。

細川晴元時代編集

 
三好長慶像
 
三好義興像

天文2年(1533年)4月、淡路に追われていた細川晴元が軍勢を引き連れて芥川山城に入城した。この時期、細川晴元は大きな権力を持っており、芥川山城も繁栄期を迎え、新しい曲輪が増設され、防御施設も拡充されていったと思われる。天文5年(1535年)に晴元は京都に移り管領に就いたが、度々芥川山城に戻り指揮をとっている。これは芥川山城が要害の地であったからである。

天文8年(1539年)8月、晴元は三好長慶によって京都を追われた。芥川山城には三好長慶が入城したが、両者の間に和議が成立し9月13日に退城。替わって晴元派の薬師寺与一が入城した。その後、晴元と同族の細川氏綱との間に確執が生じ、天文15年(1546年)に芥川山城は氏綱方に奪われたが、翌天文16年(1547年)に三好軍に包囲され、6月26日に芥川山城は無血開城し長慶の支配下となった。

三好氏時代編集

三好長慶は父・元長の従弟に当たる芥川孫十郎を城主につけた。しかし天文22年(1553年)7月、孫十郎に謀反の疑いありと判断した長慶は芥川山城を包囲、8月12日、孫十郎は篭城戦の末に兵糧がつきて降伏した。孫十郎が退去した後は長慶自身が入城し、摂津における拠点としてここから各地に出向いていった。この頃にも芥川山城は再び防御施設を拡張していったと思われる。永禄3年(1560年)に長慶は河内飯盛山城へ移り、息子の三好義興が城主となった。

しかし永禄6年(1563年)8月に義興は22歳で急死し、翌永禄7年(1564年)7月、息子の後を追うように長慶も飯盛山城で没した。

義興以後は三好長逸が城主になっていたようだが、永禄11年(1568年9月28日(または30日)に織田信長が摂津に侵攻、高槻の天神馬場に陣取り芥川山城を攻撃、その日のうちに落城し長逸は細川昭元を連れて阿波国へ逃れた。


和田・高山時代編集

織田信長は翌29日に芥川山城に入城し、「摂津三守護」であった和田惟政を城主に据えた。

翌永禄12年(1569年)1月5日、三好三人衆将軍足利義昭の住む屋敷を襲撃する事件(本圀寺の変)を起こした。これに対し和田惟政がいち早く駆けつけ、三人衆の撃退に大きな役割を果たし、この功により高槻城も与えられることになる。惟政は高槻城に入り、家臣の高山友照に芥川山城を預けた。

しかし、この頃より惟政は徐々に近隣諸国との間で確執を生じ、元亀2年(1571年)8月白井河原の戦い荒木村重中川清秀に討ち取られた。その後高槻城は息子の和田惟長が継いだが、これを好機と見た高山友照・重友父子は元亀4年(1573年)4月、惟長を追放し自らが高槻城主となった。

この時に芥川山城は廃城になり、60年に渡る歴史を閉じたと思われる。

城郭編集

芥川山城は大きく3つのブロックから構成されている。

東曲輪群編集

 
江戸時代末期の石垣

城内の山道は、東曲輪群の東側にある。土橋、竪土塁跡は、東曲輪群と中央曲輪群の境に位置する。

東曲輪群の入り口付近に石垣が見受けられるが、これは江戸時代末期もので、廃城後の石垣である。

中央曲輪群編集

  • 出丸
  • 虎口

現在は東曲輪群より山道が整っているが、芥川山城の大手通はこの中央曲輪群の虎口より進入する。またこの虎口跡には山城には珍しい石垣跡が存在している。この石垣は戦国時代の技術ではあり得ない組み方をしており、現在でも議論になっている。三好長慶のもう一つ居城飯盛山城にも同様な石垣があり、三好長慶時代に構築された可能性もある。また最後の城主であった、高山友照・重友親子時代に織田信長方の築城ノウハウを取り入れたという説もある。虎口という点から防御用の石垣ということも推察されるが、今後の詳しい調査が待たれている。また出丸跡の最先端部にはが構えられていた可能性がある。

西曲輪群編集

  • 本丸
  • 田の丸

本丸跡は三好山の山頂に位置する。この本丸跡で高槻市教育委員会によって発掘調査が行われ、礎石跡が検出され御殿的な施設が建設されていたのが確認できた。山城は通常、倉庫程度の簡単な施設が山頂に建設され、山麓に居館を建て生活の基盤としているのが常だが、住居空間も山頂に建設されているのは珍しい。また、この調査で1556年の火災跡も発見され、この施設は三好長慶時代には建設されていたことが判明している。

原村絵図編集

原村絵図は、芥川山城の付近にあった原村の村域を描いた絵図。作成年代未詳。原村は芥川の上流に位置し、江戸時代より寒天作りが盛んな場所であった。絵図は田地・池・山等が綺麗に色分けされている。この絵図の南西部に「三好長慶社」という記載が見受けられる。これは芥川山城の本丸にあたる部分で、現在でも長慶を祀っている。

山頂部からの眺望編集

南南東の眺望

アクセス編集

脚注編集

  1. ^ 文化審議会の答申(史跡等の指定等)について(文化庁報道発表、2022年6月17日)。
  2. ^ 天野忠幸 『増補版 戦国期三好政権の研究』清文堂、2015年。ISBN 978-4-7924-1039-1 

参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集