花札渡世』(はなふだとせい)は、1967年に公開された日本映画梅宮辰夫主演・成澤昌茂監督[1][2]東映東京撮影所製作・東映配給[3]。白黒映画[3]

花札渡世
監督 成澤昌茂
脚本 成沢昌茂
出演者
音楽 渡辺岳夫
撮影 飯村雅彦
編集 祖田富美夫
制作会社 東映東京撮影所
製作会社 東映
公開 日本の旗 1967年3月10日
上映時間 92分
製作国 日本の旗 日本
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1966年5月の『遊侠三代』から[4]、1970年1月の『血染の代紋』まで、単発的に数本製作された梅宮辰夫主演による任侠映画の一作[5]

梅宮が「不良番長シリーズ」や「仁義なき戦いシリーズ」等を差し置いて、自身、最も好きな映画として挙げている[1][6][7][8][9]

花札賭博に命を賭ける任侠の世界を舞台に、さまざまな人間情熱の姿を通して人の世のカラクリを抉りだし、人間諸相の愛憎葛藤を描く[10]

キャスト 編集

スタッフ 編集

製作 編集

岡田茂が1964年2月に東映京都撮影所(以下、東映京都)所長に就任以降、東映は西の両撮影所とも[11][12]、仁侠映画を主体とする映画製作に切り換え[2][13]俊藤浩滋を統括プロデューサーに任命し拡大した[14]

特に1965年4月公開の『冷飯とおさんとちゃん』が大コケすると[15]、文芸路線は廃止され[15]、完全に鶴田浩二高倉健を二枚看板とする任侠路線に入れ替わった[16][17]。しかしあまりに二人が出過ぎで[18]、1965年から1966年にかけては、二人で東映の製作本数の半分近くを占めるようになった[16]。鶴田は1965年の一年間で14本に出演した[18]。これは大手映画会社の主演数としてはトップで[18]、当時の映画は基本二本立てが二週間づつの興行だったから[18]、14本だと東映の映画館に行けば必ず鶴田が出るという月があったということになる[18]。岡田はいつまでも鶴田・高倉では早晩お客も飽きるだろう危惧し[19][20]、鶴田・高倉に次ぐ、任侠スター3人目の男として任侠路線に加えたのが梅宮辰夫だった[20]。外部から招聘したのが北島三郎村田英雄[16][20]。梅宮は東映東京撮影所で「夜の青春シリーズ」等の"東京夜の風俗路線"で東映の主演スターになり[21][22]、既にA面と併映されるB面のエース格ではあったが[7][22]、東映の生え抜きスターでもあり、A面でも主役を張って欲しいと考えた[20]

タイトル 編集

最初のタイトルはそのものズバリの『花札賭博』だったが[23]映倫からクレームが来て[23]、『花札渡世』に変更させられた[23]花札が乱れ飛び、"梅にウグイス"の花札が出て画面がになるオープニング[23]

キャスティング 編集

1965年4月公開の『ウナ・セラ・ディ東京』出演後[24]松竹を退社した撮影当時21歳の鰐淵晴子が東映映画に初出演[23]。松竹時代の鰐淵は、"永遠の処女・原節子の二代目"などと称され[25]、純情可憐の代名詞だったため、東映のヤクザ映画出演は注目を浴びた[23]。今日いうステージママだった母親のベルダから、20歳になって秋から解放されるや[25]、その反動から、銀座バーボーイフレンド同伴で現れたりするようになった[25]。本作の役柄は伴淳三郎扮するイカサマ賭博師を助ける謎の女の役で[23]マユを剃り落とし、半円形にまゆずみで描く昭和初期の化粧や、声を低くしたセリフ回しなど、梅宮とのベッドシーンもあり苦心の汚れ役に挑んだ[23]。ベッドシーンの感想を聞かれた梅宮は「演技とはいえ、手足の絡み方、息づかい、その表情とか、あまりに上手いんで驚きましたなァ」と、東映きってのプレイボーイを唸らせた[25]。さらにベッドシーンの合間に洋モクをおいしそうにプカプカ吸い[25]、「私ももう大人よ」などと話し、スタッフに「ねえ、どこか面白いところない?連れてって」などとおねだりし周囲を驚かせた[25]。東映東京のヤクザ映画といえば、何といっても女学生役専門だった佐久間良子が初の汚れ役『人生劇場 飛車角』で娼婦を演じ[23]、演技開眼したことで有名だったが[23]ストイックさがほとんどない鰐淵が同じように脱皮出来るのかが映画関係者の間で注目を浴びた[23]。それまでキスシーンさえお断りと頑強に可憐さを売物にしてきた鰐淵をここまで思い切らせたのは、母親のベルダが「いつまでも"晴子ちゃん"イメージでは、苛酷なヒロインレースを乗り切れないと覚悟したから」と言われた[23]。本作の後、大映眠狂四郎無頼控 魔性の肌』でも市川雷蔵と濡れ場を演じたが[24]、美貌がかえって禍いし[24]、花を咲かすことが出来ぬまま[24]、1968年、服部時計店御曹司・服部歊(のぼる)と結婚し[24]、芸能界を引退した[24]

梅宮は遺著の中で、一番思い出深い作品として本作を挙げているが[1][6][8]、その理由として鰐淵との共演をその理由として挙げ[6]、「この俺をときめかせた数少ない女優」などと話していた[6]。梅宮はグラマーな女性が好みだったから、鰐淵は当時の女優では大柄でプロポーション抜群で正に梅宮好み[6]。しかし鰐淵はステージママが娘にベッタリ付き、過度に介入して来て手が出せなかったと話しているが、製作当時の文献には先述のように、鰐淵はステージママから解放され、自由を満喫していたと書かれている[25]。 

撮影 編集

撮影は東映東京で1967年2月に行われた[26]。梅宮は本作『花札渡世』と『決着』(おとしまえ、梅宮主演・石井輝男監督)[注 1]を掛け持ち[26]。東映東京では同時期に『組織暴力』(丹波哲郎主演・佐藤純彌監督)、『続 浪曲子守唄』(千葉真一主演・鷹森立一監督)と4本のヤクザ映画が撮影された[26]。当時は、撮影所内の見学が比較的容易に行われていたが[26]、所内は強面の刺青をしたヤクザがいっぱい[26]。見学の善男善女は「とても見学するような雰囲気ではありません」と憧れの俳優を見るどころか逃げ出す始末[26]。対抗するヤクザ映画の本尊・東映京都でも『男の勝負 仁王の刺青』(村田英雄北島三郎主演・鈴木則文監督)、『懲役十八年』(安藤昇主演・加藤泰監督)が撮影中で[26]、東西揃ってヤクザがいっぱいだった[26]

キャッチコピー 編集

"女の指を落とそうか 爺の腕を曲げようか"

首一つ賭けて坐った鉄火場で

仁義無作法いかさま花札[1]

フィルム状況 編集

永らく上映プリントは無かったとされ、2018年『キネマ旬報』の連載「成澤昌茂、生涯を語る 映画と芝居のはなし」に呼応する形で、東京渋谷シネマヴェーラの尽力により、プリントの修正がなされ、数十年ぶりに劇場公開された[7]。シネマヴェーラは、「画面構成にアートとノワールの香り漂う成澤昌茂監督&梅宮辰夫の最高傑作」等と評している[27]

同時上映 編集

男の勝負 仁王の刺青

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 最初のタイトルは『命知らずの殴り込み』[26]

出典 編集

  1. ^ a b c d 花札渡世【5/1~7】成澤昌茂監督追悼上映/特別興行作品”. 上田映劇 (2021年). 2021年5月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月10日閲覧。
  2. ^ a b 滅びの美学 任侠映画の世界 - シネマヴェーラ渋谷
  3. ^ a b 花札渡世”. 日本映画製作者連盟. 2021年5月10日閲覧。
  4. ^ 「試写室 遊侠三代(東映)」『週刊明星』1966年5月12日号、集英社、49頁。 
  5. ^ 俳優・梅宮辰夫の軌跡~少年ヒーロー、番長、ヤクザ、板前、そしてオネエの警視正まで 文・植地毅、53–54頁。
  6. ^ a b c d e 俺の代表作は『不良番長』でも『仁義なき戦い』でもない、50–56頁。
  7. ^ a b c 伊藤彰彦 (2020年3月10日). “追悼、映画俳優 梅宮辰夫 ある夏の日の梅宮さんと坪内さん”. キネマ旬報WEB. オリジナルの2020年3月11日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200311052648/https://www.kinejun.com/2020/03/10/post-2556/ 2021年5月10日閲覧。 
  8. ^ a b 【追悼特別企画 俳優・梅宮辰夫】東映チャンネルにて、3か月連続で代表作や貴重なインタビュー番組を特集放送!
  9. ^ 俎板橋だより(53)梅宮辰夫と村山新治
  10. ^ 「内外映画封切興信録 『花札渡世』」『映画時報』1967年4月号、映画時報社、47頁。 
  11. ^ 1968年6月 岡田茂と今田智憲が対決するとき 東映映画部門これからの運命は…、326–334頁。
  12. ^ 岡田茂(東映京都撮影所長)・今田智憲(東映東京撮影所長)、聞く人・北浦馨「東映路線の今后の課題 『企画は流行性、スターは不良性感度 岡田・今田東西両所長がさぐる要素』」『映画時報』1965年11月号、映画時報社、29-33頁。 
  13. ^ 任侠映画 にんきょうえいが- コトバンク”. 朝日新聞社. 2021年5月10日閲覧。歴史|東映株式会社〔任侠・実録〕(Internet Archive)、“岡田茂・東映名誉会長が死去”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2011–05–09). オリジナルの2015年9月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150927124006/https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG09011_Z00C11A5CC0000/ 2021年5月10日閲覧。 コラム|東映京撮・盟友対談(2) | 合同通信オンライン早見俊 (2021年1月23日). “「ヤクザ映画」抜きに東映の成功は語れない理由「仁義なき戦い」を世に出した岡田茂の慧眼”. 東洋経済オンライン. 東洋経済新報社. 2021年1月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年5月10日閲覧。佐藤忠男 編『日本の映画人 日本映画の創造者たち』日外アソシエーツ、2007年、122頁。ISBN 978-4-8169-2035-6 北浦寛之『テレビ成長期の日本映画』名古屋大学出版会、2018年、142-153頁。ISBN 978-4-8158-0905-8 
  14. ^ 俊藤浩滋山根貞男『任侠映画伝』講談社、1999年、66-70頁。ISBN 4-06-209594-7 楊紅雲「任侠映画路線における東映の成功 : テレビに対抗した映画製作 (1963-1972年) を中心に」『多元文化』第4号、名古屋大学国際言語文化研究科国際多元文化専攻、2004年3月、191-202頁、doi:10.18999/muls.4.191ISSN 13463462NAID 1200009748642021年12月10日閲覧 笠原和夫『映画はやくざなり』新潮社、2003年、14-15頁。ISBN 978-4104609017 森功『高倉健 七つの顔を隠し続けた男』講談社、2017年、200頁。ISBN 978-4-06-220551-1 嶋崎信房『小説 高倉健 孤高の生涯(上・任侠編)』音羽出版、2015年、228-231頁。ISBN 978-4-901007-61-0 隔週刊 東映任侠映画傑作DVDコレクション 特設ページU–NEXT 東映昭和映画傑作選血湧き肉躍る任侠映画 | 国書刊行会
  15. ^ a b 井沢淳・高橋英一・日高真也・白井隆三・三堤有樹・小倉友昭「TOPIC JOURNAL 東映・文芸路線廃止のあと」『キネマ旬報』1965年7月上旬号、キネマ旬報社、42-43頁。 
  16. ^ a b c 「総説東映、新路線確立に終始/製作・配給界 東映」『映画年鑑 1967年版』1967年1月1日発行、時事通信社、221-222頁。 
  17. ^ 池田静雄東映宣伝部部長 (1967年1月1日). “強力鶴田・高倉路線 橋蔵久々平次で登場”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 7 
  18. ^ a b c d e 河上英一「芸能ジャーナル 俳優の過密スケジュール」『週刊読売』1966年1月7日号、読売新聞社、67頁。 
  19. ^ “〔娯楽〕 正月作品の製作急ピッチ 東映大映の京都撮影所 錦之助主演で『花と竜』―当分任侠路線の東映― 大映は勝と雷蔵が活躍”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 8. (1965年11月3日) 
  20. ^ a b c d 「製作ニュースコーナー外貨を狙った怪獣映画ブーム」『映画時報』1967年1月号、映画時報社、26頁。 
  21. ^ 「北条きく子をあきらめた"軟派の梅宮"」『週刊明星』1966年3月13日号、集英社、86頁。 
  22. ^ a b 黒田邦雄「ドロンばかりがスターじゃない(4) 梅宮辰夫」『ムービーマガジン』1976年12月1日発行 Vol.9、ムービーマガジン社、25頁。 
  23. ^ a b c d e f g h i j k l 「テレビ・スクリーン・ステージ 純情可憐をあきらめた鰐淵晴子」『週刊朝日』1967年3月17日号、朝日新聞社、101頁。 
  24. ^ a b c d e f 鰐淵晴子 文・斎藤修+編集部、763–764頁。
  25. ^ a b c d e f g 「タイム 映画&演劇 みごとなこのベッドシーン "清純"の名をすてた鰐淵晴子のこのごろ」『週刊平凡』1967年2月23日号、平凡出版、41頁。 
  26. ^ a b c d e f g h i 「タイム 映画&演劇 撮影所は"ヤクザ"がいっぱい」『週刊平凡』1967年2月23日号、平凡出版、49頁。 
  27. ^ 追悼特集 成澤昌茂 映画渡世”. シネマヴェーラ渋谷. 2022年2月27日閲覧。

参考文献 編集

外部リンク 編集