花窟神社

三重県熊野市に所在する神社

花窟神社(花の窟神社、はなのいわやじんじゃ)は、三重県熊野市有馬町に所在する神社伊弉冉尊(伊弉冊尊[1]、いざなみのみこと)と軻遇突智尊(かぐつちのみこと)を祀る[1]

花窟神社
参道入口の鳥居
境内入口
所在地 三重県熊野市有馬町上地130番地
位置 北緯33度52分47.5秒
東経136度5分36秒
座標: 北緯33度52分47.5秒 東経136度5分36秒
主祭神 伊弉冉尊軻遇突智尊
神体 磐座「花の窟」
創建 不詳
例祭 2月2日(春季)
10月2日(秋季)
主な神事 御縄(お綱)掛け神事
地図
花窟神社の位置(三重県内)
花窟神社
花窟神社
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概要編集

日本書紀』(巻第1 神代 上)の一書(あるふみ)には、伊弉冉尊は火の神である軻遇突智の出産時にからだ(御陰、みほと〈『古事記』〉[2])を焼かれて死に[3]、「紀伊国熊野の有馬村」に葬られた[注 1]。以来近隣の住人たちは、季節の花を供えて伊弉冉尊を祭ると記されている[4]。花窟神社では、それが当地であると伝え、社名も「花を供えて祀った岩屋」ということによるものである[5]

神体である巨岩の麓にある「ほと穴」と呼ばれる[6][7]高さ6メートル、幅2.5メートル、深さ50センチメートルほどの[8]大きな窪みがある岩陰が伊弉冉尊の葬地であるとされ[6]七里御浜からの白石を敷き詰め[9]玉垣(瑞垣)で囲んだ拝所が設けられている[8][10]

一説に、火の神の軻遇突智を産み、伊弉冉尊が亡くなった場所は、およそ西1.3キロメートル先にある産田神社(うぶたじんじゃ)とされる[11]。花窟神社には、伊弉冉尊の子である軻遇突智の御陵もあり、伊弉冉尊の拝所の対面側にある高さ約12メートル[12]の岩塊が[13]、軻遇突智尊の墓所とされ[14]、「王子ノ窟」[15](王子の岩屋[13][16])または「聖ノ窟」と称され[12]、同様に拝所が設けられている。

延長5年(927年)の延喜式神名帳[17]「花窟神社」の名はなく、実際、神社の位格を与えられたのは明治時代のことである。伊弉冉尊が葬られた日本で最初の墓とされ[18]、神社というよりも墓所として認識されていたものとみられる。

今日に至るまで社殿はなく、熊野灘に面した高さ約45メートルの巨岩である磐座(いわくら)が神体である[5][10]。花の窟は、2000年(平成12年)11月2日、国の史跡として「熊野参詣道」の1つに指定され[19](敷地1万9707平方メートル[20])、2004年平成16年)7月7日には[21]世界遺産紀伊山地の霊場と参詣道」の一部(熊野参詣道 伊勢路)に登録された[22]

神体編集

 
七里御浜から見た神体の巨岩

神体である磐座は、1500-1400万年前(中期中新世[23])の火山活動により形成された熊野カルデラの縁にあたり、熊野酸性火成岩類(熊野酸性岩[23])の浸食により成立した神倉神社 の神体であるゴトビキ岩のほか、周囲には崇拝される巨岩などが数多く存在する[24][25]。「花の窟」は流紋岩質火砕岩凝灰岩[26])の風化・侵食により形成され[27]、磐座の下部にある海蝕洞の一種である岩陰は[28]、伊弉冉尊の女陰とも、黄泉の国常世の国)の入口ともいわれる。

この大きな窪みのある花の窟の巨岩は[29]「陰石」であり、球形に流紋岩が風化した和歌山県新宮市の神倉神社にあるゴトビキ岩は[30]「陽石」であるとして、一対をなすともいわれ[6][8]、ともに熊野における原始的な自然信仰(巨岩信仰・磐座信仰)の姿を今日に伝えている[31]

花の窟については、古代の太陽崇拝の場所であったとする説のほか[32]、死者の魂がよみがえる依り代とする説、岩の窪みを地母神に見立てたとする説などがあり[8]、花の窟の窪みは、豊産の祭儀場として「産立て(うぶたて)の窟」ともいわれる[33]。また、洞窟葬や[34]風葬[35][36]ないし水葬の基点であったともされるが[8][37]、証拠を示す痕跡はここでは認められていない[38]

花の窟の巨岩は、他界への入口として「端(はな)の窟[39](岩屋)」ともされ[8]、七里御浜の海岸が延びるなか突出し[40]、漁師の目印「山あて」[41](山たて)[42][43]にもされた。また、海岸より沖約1キロメートルには「海の花の窟」といわれる多くの洞窟により豊かな漁場をなす「だいはな」(「大般若」の転訛)と呼ばれる海床があり、かつては神聖な場所として、そこにを入れてはならないといわれた[44]

歴史編集

平安時代中期の僧増基の紀行『いほぬし』(「(いほ)の主(ぬし)」の意[45])によれば、長徳4年(998年[46]または10世紀末-11世紀初頭の「はなのいはや」(花の窟〈端の岩屋〉[40])には、岩山に開られた穴に「みろくぼとけ」(弥勒菩薩)の出現に備えた経典が納められており[47]、苔むした「そとば」(卒塔婆)があって、傍らには「わうじのいはや」(王子の岩屋)があり、まさに「神の山」のようであると記される[48][49]

海岸沿い(大辺路)には、祭祀場「王子」信仰が知られ、「花の窟」の王子が、やがて伊弉冉尊の子の軻遇突智に転化して「王子の岩屋(窟)」になったともいわれており[50][51]、熊野古道伊勢路の王子社の1つにも数えられる[26]

 
伊弉冉尊の拝所

中世に端を発するという熊野三山縁起集成『熊野山略記』のうち「新宮(熊野速玉大社)縁起」の一節には、伊弉冉尊について、「紀州有間(有馬)村の産田宮(うぶたのみや)で火神を産んだ時の火傷により隠れられ、霊魂は大涅槃岩屋(花の窟)にある」という意が記される[52]。近世の江戸時代初期、延宝8年(1680年)の紀行『巡礼通考』には、花の窟は「イザナキ、イザナミ両尊の御神所という」とある[53]。また、元禄2年(1689年)頃の『熊野独参記』には、「イザナミノミコトを葬り奉りし所か」とあり、宝永2年(1705年)の服部嵐雪による紀行『其浜ゆふ』には、「有馬の村にかかるに希異の霊窟あり。天人降りて常に供養せるところといふ」として『日本書紀』の叙述を記している。享保6年(1721年)の書を写したという案内書『熊野詣』には、「俗にイザナミノミコトを葬りし所なり」と記され[54]天保10年(1839年)に完成した『紀伊続風土記』において、花窟は「伊弉冉尊陵」と記されている[55]

『紀伊続風土記』には、「花(の)窟」は「般若の窟」とも称されたと記される[56]。花の窟の上方にある燈篭ヶ峰(標高121m)には、さらに岩座が3体あり、中世になると修験者がこもり火をともして大般若経を唱えていたといわれる[57]

一節によると、花の窟は『日本書紀』(巻第3)の神武東征において誅殺された女首長の丹敷戸畔(にしきとべ[58][59]、たしきとべ[60])が祭祀されていたが、景行天皇により祭神を伊弉冉尊に替えられたといわれる。景行天皇はまた、自然信仰の対象であったゴトビキ岩(天磐盾)より祭神を「新宮」(熊野速玉大社)に遷座したとされる[61]

祭事編集

 
花の窟に掛かる縄幡

延宝7年(1679年)の『熊野神廟記』にある例祭に、「4月8日、伊弉冉尊の御前にサカキを立て、花を供し、神酒を奉って祭る」、「11月15日子刻(ねのこく)、有馬村の産田社と大般若涅槃岩屋(花の窟)で、それぞれ伊弉冉尊を祭る」ことが記される[62]。また、宝永2年(1705年)の『熊野考異』には、『日本書紀』の伊弉冉尊の叙述に続き、毎年暮春(ぼしゅん〈陰暦3月〉)に、縄により花および幡旗を作り、歌舞が奉納されるなど昔の風俗が今に残るという意が記されている[63]

花窟神社は江戸時代、新宮(熊野速玉大社)の末社ともされており、嘉永7年(1854年)頃の「新宮末社之図」には、大馬山(大馬神社)、産田社、神之上(神上神社)、金ノ山(金山神社)とともに花ノ岩屋(花の窟)があり、「お綱」に3本の縄幡(なわばた[64])が描かれている[65]。『紀伊続風土記』には、歌舞はないとするが[66]、今日の御綱掛け神事と同様である2月2日と10月2日の神事について記され[67]、嘉永元年(1848年)の『西国三十三所名所図会』には、加えて「神官はじめ村中の男女花を備ふること恰(あたか)も岳(をか〈丘[68]〉)のごとし」と記される[69]。この神事に関連するものとして、有馬の「花窟」より伊弉冉尊(熊野牟須美神、くまのむすみのかみ[70])の神霊を迎えたという熊野本宮大社例大祭において[71]、男児の「大和舞」に歌われる「有馬窟(有馬の窟)の歌」と「花の窟の歌」があり[72]熊野那智大社の例大祭の「沙庭舞」(さにわのまい)の際にも、同様のものが歌われる[73][注 2]

有馬窟の歌

有馬や祭は 花の幡立て 笛に鼓に うたひ舞ひ うたひ舞ひ — 熊野本宮大社例大祭

花の窟の歌

花のや岩屋は 神の岩屋ぞ 祝へや子供 祝へ子等 祝へ子等 — 熊野本宮大社例大祭

境内編集

花窟神社入口に向かう一角にある道標「右 くまのさん(熊野山)ゅんれい(巡礼)道」は、熊野三山の巡礼には右に折れて安全な有馬村本街道に向かうよう示したもので、「口有馬道標」として市指定民族文化財に指定されている(1979年〈昭和54年〉4月1日指定)[74]。また、参道の入口には、享保8年(1723年)に紀州藩主徳川宗直が建立した「花の岩屋」碑が認められ、同じく境内の軻遇突智の拝所に「王子岩屋」碑が今に残る[75]。境内地は神社本庁に属する[76]宗教法人花窟神社が所有する[77]

花窟の境内は、『紀伊続風土記』に「東西65 、南北110間」と記される[78]。社叢は「花の窟神社社叢」として市の天然記念物に指定されており(1964年〈昭和39年〉4月28日指定[79])、広葉樹林[80]、南方系の植物が繁茂する暖地性天然林(亜熱帯樹叢[81])をなし、ツバキ(ヤブツバキ)・タブノキカゴノキヤブニッケイスダジイウバメガシホルトノキナギカクレミノ(ミツナガシワ)・バクチノキイヌビワトベラ・クマタケラン[82]フウランなどが認められる[26]

手水鉢(ちょうずばち)の傍らにある大きな丸石(玉石)は、神体である磐座から落ちてきたとの伝承があり[83]、霊力が宿るといわれる[84]。参道先にある社務所を備える「参籠殿」(さんろうでん)より祭神を祀る拝所に通じており[83]、祭祀場は「花の窟神社祭祀遺跡」として市の史跡に指定されている(1964年〈昭和39年〉4月28日指定[79])。

稲荷神社・龍神神社
参道の端より並ぶ赤い鳥居の先に2社が祀られる[85]

例大祭編集

 
神体の巨岩から渡された綱
御縄掛け神事
2月2日(春季大祭)、10月2日(秋季大祭)。「花の窟のお綱かけ神事」県指定無形民俗文化財[8]1969年〈昭和44年〉3月28日指定[79])。
2月は豊作を願う予祝神事であり、10月は収穫を祝う感謝の神事とも捉えられる[37][86]。また、綱は神と人をつなぎ恵みを授けるものとされるとともに[87]、常世の国、黄泉の国と現世を分ける結界ともいわれる[88]
2月と10月に、伊弉冉尊を弔う『日本書紀』の記述を再現し、大綱に縄の幡(幡旗)を吊して[89]、先端に季節の花を飾り、鼓や笛を奏で、巫女が(浦安の舞・豊栄〈とよさか〉の舞)を奉納する[90][91]。「浦安の舞」は、1940年(昭和15年)の「皇紀二千六百年」の際に作曲・作舞されたもので、また「豊栄の舞」の楽曲は、1950年(昭和25年)になされている[92]
特別な田(御田[注 3])で作られたもち米縄7本を束ねた長さおよそ170メートル[6][93]から180メートル(110)の大綱に、季節の花(2月はスイセンツバキ、10月はキクケイトウなど)を結びつけた[94]長さおよそ10メートルの[93]3本の縄幡[7]およびを吊して[8]、磐座の頂上の木(ウバメガシ[6])に結ばれ[93]、境内、七里御浜の海岸へと大綱が引かれて[95]、境内の南隅にある柱(かつてはマツの神木)の先端へと引き渡される[93]。大綱が掛かるとその先端は地面の支柱に結びつけられる[91]
大綱として束ねられる7本の細い藁縄は、伊弉冉尊の子で自然神である級長戸辺命(しなとべのみこと〈風の神〉)、少童命(わたつみのみこと〈海の神〉)、句句迺馳(くくのち〈木の神〉)、草野姫(かやのひめ〈草の神〉)、軻遇突智尊(火の神)、埴安神(はにやすのかみ〈土の神〉)、罔象女(みつなのめ〈水の神〉)を意味する[96]。また3本の縄幡は、三流の幡(みながれのはた〈三流れの幡旗[90]〉)とも呼ばれ[96]、岩側より、伊弉冉尊の黄泉の穢れをはらった際に生まれた三貴子天照大神(あまてらすおおみかみ〈太陽神〉)、月読尊(つくよみのみこと〈月神〉)、素戔嗚尊(すさのおのみこと〈暗黒神〉)を表している[6][7]。この3本の縄幡は、朝廷より毎年奉献されていた「錦の幡」(幡旗)が運ばれる際、舟が熊野川の増水により転覆したため、変わりに「縄の幡」が作られたものであるといわれる[6][8][97]。綱は掛け替えることなく自然に切れるまで残されるため、新たな綱と2本見られることもあり、縁起がよいものとされる[6]
  • お白洲引き - 10月2日(秋季大祭)[96]。有馬の旧道より地元園児および婦人会によって行なわれ、小人が白石を奉納する[91]

他の文化財編集

市指定文化財(有形民俗文化財
  • 花の窟神社の版木 - 1999年(平成11年)1月28日指定[79]
    版木原画、菱川廣隆(文化5年〈1808年〉-明治10年〈1877年〉)。天保15年(1844年[98]甲辰3月と記され[99]、「樛屋」(つがや)は、宮司を代々務めた森家の屋号であると伝えられる[100]。版木の花の窟図には、御綱掛け神事による綱が神体に掛けられた景観が示されている[99]
    版画の漢文は、「日本書紀に曰く、伊奘冉尊が火の神を生む時、灼かれて神退去りましぬ。故(かれ)紀伊國熊野の有馬村に葬る。土俗(くにびと)此の神の魂(みたま)を祭るには、花の時には花を以て祭り、又、鼓(つづみ)吹(ふえ)幡旗(はた)を用いて歌い舞いて祭る」の意が記される[100]。次いで、江戸時代(天保年間)の御縄掛け神事の様子が記されており、旧暦ではあるが、2月および10月の2日に祭事が行われていたことが認められる[100][101]
日本書紀曰
伊弉冉尊生火神時被
灼而神退去矣故葬於
紀伊國熊野之有馬村
焉土俗祭此神之魂者
花時亦以花祭又用鼓
吹幡旗歌舞而祭矣
花の岩屋の御祭はしも二月 十月の
二日の日 縄をもて旗をつくり千尋
のみしめな ゆひそえ いかめしき巖
の上より濱松のこずゑに引延ばし神
主をはじめ縣の奴祢男女等種々
の花横山の如く備え奉れるなむ 神代
よりの風俗にはありける 是れより
十丁ばかり西の方に産田の社とて
二神の鎮り座す社あり すべては此
地のさま 万の書にみえたればもらしける
よみ人しらず
春風に梢さきゆく紀の国や有馬の村に神祭せよ
西行上人
みくまのの御浜によする白浪は花の巌屋のこれぞ白木綿

— (表面〈版画の文〉)[99]

天保十五年甲辰三月成
筆者 若山 自寛斉
画工 平安 菱川廣隆
彫刻 若山 加市堂
各画料 金百匹
彫刻料 銀壱枚
樛屋蔵版

— (裏面)[99]

  • 花の窟の湯立釜 - 1999年(平成11年)1月28日指定[79]
    湯立釜は、湯立の神事(湯立神楽)において神前で湯を煮えたぎらせる釜である。この安永5年(1776年)の銘がある花窟神社のものなど江戸時代の湯立釜が周囲にもいくつか認められ、鉄製鋳物でありいずれも三脚で形状は類似している[100]

主な詩歌編集

  • 「心あるありまの浦のうら風はわきて木の葉も残すありけり」 増基
    - 『いほぬし』[102](平安時代中期、長徳4年〈998年〉)
  • 「紀の国や有馬の村にます神に手向くる花は散らじとそ思ふ」 徳大寺公能[5](大炊御門右大臣[8]
    - 『久安百首』(平安時代後期、久安6年〈1150年[103]
  • 「神まつる花の時にやなりぬらん有馬の村にかかるしらゆふ」 光俊朝臣[5][8][104]
    - 『夫木和歌抄[103]鎌倉時代後期、延慶3年〈1310年〉頃[105][28]
  • 「春風に木すゑ(こずえ)さきゆく紀の国やありまのむらにかみまつりせよ」 よみ人しらず[5]
    - 『夫木和歌抄』[103]
  • 「木の国や花のいは屋に引(ひく)縄の長くたえせぬ里の神わさ」 本居宣長[5]
    - 『石上稿』寛政6年甲寅詠草[106]寛政6年〈1794年〉)[107]
  • 「みくまのの御浜によする白浪は花の岩屋のこれぞしらゆふ」 西行[5]
    - 『西国三十三所名所図会』[69][104]
  • 「神無月春ごこちにもなれるかな花のいはやに花まつりして」 加納諸平
    - 『柿園詠草』(嘉永7年〈1854年〉)[108]
  • 「神まつる有馬の浦による波の音やつづみのなごりなるらむ」 加納諸平
    - 『柿園詠草』[108]
  • 「波風のかはらぬ音を有馬人笛につづみにいつかあはせむ」 加納諸平
    - 『柿園詠草』[108]
  • 「有馬の海浪のゆふ花折りかけて神をまつらぬ時も日もなし」 加納諸平[109]
  • 「あなにやし愛衰登古(たをとこ)きたる狭丹塗(さにぬり)の船して来(きた)る花の岩屋に」 与謝野寛
    - 1906年(明治39年)11月[110]。『相聞』(1910年〈明治43年〉)[111]
  • 「夕月夜(ゆふづくよ)山はしづくすひと夜来て濡れぬ名ぐはし花の岩屋に」 与謝野寛
    - 1906年(明治39年)11月。『相聞』[111]

交通編集

周辺編集

脚注編集

注釈編集

  1. ^ 古事記』には、伊邪那美は「出雲国伯耆国との堺なる比婆の山」に葬られたとある。花の窟とならんで陵墓とされる比婆山の比定地は、広島県庄原市島根県仁多郡奥出雲町にまたがる比婆山地より広域にあり、広島県庄原市の比婆山(比婆山御陵)の麓には遥拝所として熊野神社(比婆山熊野神社)、島根県安来市の比婆山には比婆山久米神社がある。
  2. ^ 1934年昭和9年)11月20日の「熊野新報」には、熊野坐神社(熊野本宮大社)で永年絶えていた大和舞の再興を計り、元那智神社(熊野那智大社禰宜であった現坐神社禰宜が師範となり稽古中であるといった記事が見られる。
  3. ^ 明治初年頃までは、熊野市有馬町池川に位置する「七束山把田」(しちそくさんわでん)という有馬村の最奥かつ最上部にあった清浄な御領田において収穫された稲藁が用いられていたとされる。

出典編集

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参考文献編集

関連項目編集

外部リンク編集