芳賀高益

室町時代後期の武将。下野宇都宮氏家老。 芳賀成高の次子。

芳賀 高益(はが たかます)は、室町時代後期の武将下野宇都宮氏家老で紀清両党芳賀氏出身。

 
芳賀高益
時代 室町時代後期
生誕 不明
死没 長享2年(1488年
改名 次郎三郎(幼名)→高益
諡号 忠翁道賢(法名)
官位 左兵衛尉
主君 宇都宮正綱成綱
氏族 芳賀氏
父母 父:芳賀成高
兄弟 宇都宮正綱[1]高益
景高袋方景秀
養子:高孝(袋方景秀子)
盛昌院殿般空妙栄(壬生綱重正室)、
女子(中村行長[2]
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宇都宮明綱寛正4年(1463年)に早逝したため、宇都宮氏の外孫である兄・太郎丸宇都宮氏本家の当主となる。そのため、兄に替わって芳賀氏の家督を継いだ。

宇都宮氏は享徳3年(1455年)からの享徳の乱以降、古河公方足利成氏寄りだったが、文明2年(1470年)頃には、関東管領上杉氏寄りに寝返った。これらの動きは、高益の献策であるといわれている。兄・正綱が文明9年(1477年)に上野国で陣没した後は、その嫡男・成綱の叔父として後見人となり、支えていくことになる。成綱が宇都宮氏の家督を継いで間もない頃に、武茂氏の重臣らが不満を抱き、武茂六郎を中心として叛乱を起こすが、高益が成綱と共に鎮圧している。その後も筆頭家老として、成綱を補佐するが、長享2年(1488年)に没する。

子・景高の頃になると、家中における権力が一層増大し、武茂氏に代わる勢力として台頭する。その後、主君である成綱と芳賀氏の関係は悪化し、永正9年(1512年)には、宇都宮錯乱という内紛が起きることとなる。

脚注 編集

  1. ^ 但し、兄・正綱は系図によっては、宇都宮等綱の次男、明綱の同母弟とし、始めは武茂六郎と名乗ったとしている。
  2. ^ 野州中村神社縁起 P27(中村神社文書編纂委員會、中村神社顕彰會、ISBN-4815031096)