苗木遠山氏
苗木遠山氏(なえぎとおやまし)は、利仁流加藤氏一門美濃遠山氏の一派。
広恵寺城(現在の岐阜県中津川市福岡町の植苗木)を本拠地として遠山荘の木曽川以北と、蘇原荘を支配していた遠山昌利が(1532年)に美濃国恵那郡高森(現在の岐阜県中津川市苗木)に館を移した。しかし昌利の子である遠山景徳に世継ぎが居なかったため、本家の岩村遠山氏から遠山直廉を養子として迎えた。遠山直廉は苗木城を築き活躍するが、飛騨の三木氏と大威徳寺の戦いを行った際に受けた矢傷がもとで没した。その後は飯羽間遠山氏から遠山友勝を養子に迎えて織田信長・徳川家康側に付いて戦った。その孫の遠山友政は江戸幕府が成立すると初代苗木藩主となり、子孫は明治維新後に子爵となる。
歴史編集
- 元弘年間(1331~1334年)遠山一雲入道、遠山景長親子が、高森山(現在の中津川市苗木町)に砦を築く[1]。
- 元弘~建武年間(1334~1336)の頃、遠山景利が恵那郡福岡村植苗木に広恵寺城を築き宗良親王を迎える[2]。
- 文明5年(1473年)10月、小笠原家長と木曾家豊が伊那谷と木曽谷から東濃に侵攻する[3]。
- 永正7年(1510年)8月21日、遠山景正が所領の争いにより飛騨国にて姉小路済継と戦い流矢により討死した。
- 大永4年(1524年)3月、小笠原定基の家臣高柴景長が神明神社(苗木字日比野)の造営を行なう[4]。
- 大永6年(1526年)に遠山一雲入道昌利が植苗木から高森山に館を移す[5]。
- 天文3年(1534年)、松尾小笠原氏の本拠松尾城が陥落、小笠原定基が甲斐の武田氏のもとに逃れ遠山氏は旧領を回復する。
- 天文11年(1542年)11月、遠山景安が笠木社に梵鐘を寄進する[6]。
- 天文年間(1532年~1555年)に遠山正廉(直廉同一人物説有り)が高森に苗木城を築く[7]。
- 天文24年(1555年)、木曾氏が甲斐の武田氏に降る。
- 永禄3年(1560年)5月、苗木勘太郎(直廉同一人物説有り)が桶狭間の戦いに出陣する[8]。
- 永禄8年(1565年)苗木勘太郎の娘の龍勝院が織田信長の養女となった後に武田勝頼(武田信玄二男)に嫁ぐ[9]。
- 永禄10年11月1日(1567年)12月11日、苗木勘太郎の娘の龍勝院が武田氏最後の当主武田信勝を出産する。
- 永禄12年(1569年)遠山直廉が武田信玄からの命により駿河侵攻に参加した。その後再び信玄の命により飛騨国益田郡竹原へ侵攻し三木氏と戦い大威徳寺が兵火で焼失する。(大威徳寺の戦い)。その後、遠山直廉は廣恵寺からの求めに応じて禁制を下す[10]。
- 永禄13年(1570年)、遠山直廉が、大威徳寺の戦いで受けた矢傷が元で死去する[11]。信長の命令で遠山直廉の死去により飯羽間遠山氏の遠山友勝が苗木遠山氏を相続する[12]。
- 元亀元年(1570年)12月28日、上村合戦にて遠山友勝(苗木勘太郎)、明知遠山景行、串原右馬介経景、小里内記らが、武田家臣秋山虎繁と戦い敗れる[13]。
- 元亀3年(1572年)10月3日、武田氏が岩村遠山氏の岩村城を包囲し開城させる。(岩村城の戦い)その後遠山氏の領内の寺院を悉く焼討した。
- 天正元年(1573年)8月、木曾義昌が河折籠屋を攻め落とし、苗木を攻める[14]。
- 天正2年(1574年)2月、武田勝頼が東美濃に侵攻し、先ず高山城、苗木城を落とし、更に支城16箇所を全て落とした[15]。
- 天正3年(1575年)、織田信忠が岩村城を落とし、東濃諸城を奪還する[16]。
- 天正10年(1582年)可児郡の兼山城主であった森長可に苗木を攻められる。
- 天正11年(1583年)兼山城主の森長可再び苗木地方を攻め苗木城が落城。遠山友忠・遠山友政父子は徳川家康を頼り浜松に走る。
- 慶長4年(1599年)森氏 信濃川中島に移封される。川尻直次が苗木城主となり、城代・関治兵衛が城を守る。
- 慶長5年(1600年)遠山友政は徳川家康の命を受け苗木城を攻略奪回し、徳川家康から苗木領を安堵され、後に苗木藩が成立する。
- 明治2年(1869年)苗木藩主の遠山友詳(友禄)が版籍奉還により藩知事となる。
- 明治4年(1871年)廃藩置県により苗木藩は廃藩となり、苗木県となる。
- 明治17年(1884年)7月7日華族授爵ノ詔勅により、遠山友詳(友禄)は子爵となる。
中世編集
近世・近代編集
- 苗木藩の藩祖は、遠山友政である。友政は父の遠山友忠とともに織田信長に従っていたが、信長死後の東美濃騒動、さらに徳川家康に与したために所領を失い、苗木は河尻秀長の所領となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで河尻秀長は西軍に与したため、戦後に所領を没収され、代わって東軍に与して武功を挙げた友政に10,500石が与えられてここに、苗木藩が立藩したのである。友政は、大坂冬の陣では桑名城の守備、大坂夏の陣では松平忠明に属して武功を挙げ、元和5年(1619年)12月19日、苗木で死去した。豊臣秀吉の家臣の森氏に苗木城を奪われた遠山友政は、関ヶ原の戦いに際し西軍方の苗木城主の川尻直次と岩村城主の田丸具忠を攻め開城させた。これにより東濃地方は徳川方の勢力下に入った。友政のこの働きが認められ、徳川家康から恵那郡と加茂郡の46村、10,521石余りを安堵された。その後、2代秀友、3代友貞は土地開発に力を尽くし、家臣団の編成も進め、苗木領の基礎が確立した。
- 苗木藩成立当時の苗木領の石高は10,521石だったが、享保17年(1732年)に、この内の500石を幕府に返上することになり、下野村などが天領になった。
- 藩政においては幕府の相次ぐ手伝い普請や軍役などにより財政窮乏が早くから始まる。このため新田開発を行なって4286石の新田を開発したが、第5代藩主・遠山友由の大坂加番による出費などもあって財政の改善には至らなかった。歴代藩主は藩政維持のため、厳しい倹約令を出し、天保年間には給米全額の借り上げを行なうなどした。
- 最後の藩主・遠山友禄は文久元年(1861年)に若年寄となり、さらに大坂警備も任されたが、そのため出費がさらに重なって財政は火の車となる。友禄は五種類の藩札発行による改革を図ったが、元治元年(1865年)に2度目の若年寄就任、慶応元年(1865年)に第2次長州征伐にも参加したことによる軍費から、遂に財政は破綻した。明治維新後、14万両あった藩の借金は、苗木城破却に伴う建材や武具などの売却、藩士全員を強制的に帰農、家禄を返還させ、帰農法に基づいて政府から支給される扶持米を3年間返上させること、藩知事遠山友禄の家禄の全額を窮民救済と藩の経費とすることにより、明治4年(1871年)には5万2600両までに縮小した。
苗木藩の領地編集
- 恵那郡--6,318石4斗餘
日比野村・上地村・瀬戸村・坂下村・上野村・田瀬村・下野村の一部・福岡村・高山村・蛭川村・中野方村・毛呂窪村・姫栗村
- 加茂郡--3,703石3斗2升3合
河合村・飯地村・峯村・下立村・福地村・赤河村・切井村・犬地村・上田村・広野村・若松村・名倉村・油井村・宇都尾村・田島村・中屋村・須崎村・柏本村・久須見村・宮代村・大沢村・下野村・神土村・越原村・有本村・室原村・久田島村・成山村・徳田村・黒川村
家紋編集
- 主紋:丸に二引き
一族編集
- 館林遠山氏 - 苗木遠山氏の弥右衛門景利を祖とする。榊原康政に仕えて500石を得る。