若林作兵衛(わかばやし さくべい)は江戸時代末期の米沢藩 最長老(65歳)の重鎮。 慶応4年戊辰戦争当時、米沢藩の藩論決定に中老[1]として関わった。  会津藩新発田藩仙台藩との交渉にも出向いた。 米沢藩が戦いに巻き込まれるのを避けたいという姿勢に終始したため、越後に出兵した前線部隊と対立した。

 
若林作兵衛
時代 江戸時代後期 - 末期
死没 慶応4年8月19日
改名 幼名 熊吉
別名 秀秋
主君 上杉斉憲
出羽米沢藩中老
父母 父;若林政友
テンプレートを表示

経歴 編集

文政8年(1825年)11月17日 作兵衛に改め家督秩80石御馬廻り

文政12年(1829年)4月6日 世子御小姓

天保10年(1839年)3月28日 斉憲公御手水番

天保11年(1840年)1月6日 加増20石

弘化元年(1844年)1月5日 加増20石

弘化3年(1846年)1月5日 御使番 加増200石

弘化4年(1847年)12月25日 五日町奉行

安政元年(1854年)9月16日 御中之間年寄 加増250石

安政4年(1857年)11月1日 御徒組支配兼郡奉行

文久2年(1862年)10月15日 大目付 加増25石

文久3年(1863年) 御上洛供奉慶応元年(1865年)4月21日 加増25石

慶応2年(1866年)8月25日 屋代郷御拝領 年来職務に深く心を尽御感悦に思し召し子孫永永加秩30石

慶応2年(1866年)11月14日 中老職 加秩170石計500石[2]

慶応4(1868年)年2月26日  仙台藩からの使者( 安田竹之助・ 玉虫左太夫)と面会(会津藩救済の協議)[3]

慶応4(1868年)年4月20日  会津藩に最後の説得に向かう[4]

慶応4(1868年)年5月12日 越後に出陣[5]

慶応4(1868年)年5月15日~17日  新発田藩へ出兵要請に向かう[6]

慶応4(1868年)年5月24日 越後から急遽、帰国[7]

慶応4(1868年)年7月17日  仙台藩に奮発興起を促すため出向く[8]

慶応4(1868年)年7月29日 仙台から帰国[9]

慶応4(1868年)年8月19日 死亡 65歳[10]

概要 編集

米沢藩では鳥羽・伏見の戦い以降の対応は、それぞれの局面で重臣たちが徹宵の議論を行なったうえで決定していた。 更に慶応4年4月以降は藩政執行部である「本政府」とは別に軍事に関する権限と機能を集中化した「軍政府」[11](若手[12]を主体にした軍政府執行部)を設けた。 いわば、軍事に関することは軍政府に一任する体制にした。 若林作兵衛はそのなかで、年功をかさに終始、軍事作戦に干渉し[13]、戦地で前線部隊と激しい対立になった。

長岡城が陥落(5月19日)し、新政府軍のさらなる侵攻が確実となり、米沢藩が戦いに巻き込まれる事態が切迫した頃(慶応4年5月21日~24日)の軍政府参謀甘糟継成の日記に越後で若林が前線部隊に後退・撤退を要求して対立した様子が記されている。

甘糟継成「北越日記」 編集

・【甘糟継成「北越日記」5月21日】 若林と勘定頭頭取小林五兵衛が本陣に来て、この先(加茂)への前進に同意せず。若林は逆に本陣を更に後退させることを主張。 [14]

・【甘糟継成「北越日記」5月22日】 若林と小林の行方知れず。そのまま国に逃げ帰ったとの説あり。[15]

・【甘糟継成「北越日記」5月24日】 若林は深く戦いを恐れ、総督色部長門に早く引き返すようにと勧めたが、色部がゆえなく退くことは諸藩の嘲りを受けると承知しなかったため、若林は大いに激し、米沢に走り帰り、帰路途中(関)に保管している鉄砲・弾薬を米沢に戻すよう命じたうえ、関まで出陣していた上杉主水を米沢に戻るよう勧めた。[16]

・【甘糟継成「北越日記」5月24日】(若林に)後続部隊の救援も、弾薬の補給も止められては、とても戦いは出来ない。 すみやかに米沢に使者をたて「若林は総督の命を守らず、ほしいままに逃げ軍機を誤り、先勢を棄殺しようとしている」と報告。[17]

もともと米沢藩の越後出兵は越後の住民が会津藩に対しての反感が強く、米沢藩に救いを求めて来たので、その人心を収攬するためで[18]新政府軍と戦うためではないという大義名分があったが、現実に前線に立っている兵の感情や同盟軍他藩との関係から、若林の主張が受け入れられる状況ではなかった。[19]

若林側からの記録「上杉家御年譜18」 編集

一方、「上杉家御年譜18」5月24日には急遽、米沢に戻った若林が重臣を召集し、会議を開いたことが記載されている。 若林は藩主の越後出陣中止と軍を後方に退かすべきと主張し、軍が自分の言う事を聞かず、おまけに軍の連中は自分に対して「老怯(ろうきょう)軍気を撓(たゆ)ますものとなし謗議(ぼうぎ:悪口)すこぶる粉興す」と批判したと述べた。[7]

結局、若林の意見が入れられたのは、藩主上杉斉憲の越後出陣をしばらく様子見とすることだけで、6月1日に現地の色部・千坂総督から越後戦線の戦況報告と藩侯の親征を懇請する手紙が届き、6月3日に出陣した[20]ので、若林の影響力は限界があった。

藩に戻った後 編集

藩に戻った若林はその後、7月17日に仙台藩に「奮発興起」を促すための役割を命じられ出張。 7月29日に帰藩[21]するが、8月19日に病気で死去。[10]

上杉家御年譜には「8月19日 中老若林作兵衛秀秋大病の由、御心許なく思し召し金五十枚を賜い薬用せしめられる ただし作兵衛この日死去す」と記載されている。[10]

脚注 編集

  1. ^ 『米沢市史編集資料第1号(寛政5年分限帳)』<解説>「米沢藩の職制について」 渡部恵吉 米沢市編さん委員会編1980.6 P12 中老「藩の重要案件の審議に加わり、布告文については奉行につづいて連署し、裁許の申し渡しの節には奉行につづいて列座した。」
  2. ^ 『上杉家御年譜24』上杉温故会 P340
  3. ^ 「米沢市史第3巻(近世編2)」米沢市史編さん委員会 1993.3 P592
  4. ^ 「米沢市史第3巻(近世編2)」米沢市史編さん委員会 1993.3 P594
  5. ^ 『甘糟備後継成遺文』甘糟勇雄編1960.6「戊辰役参謀甘糟備後継成 北越日記5月13日」P193
  6. ^ 『甘糟備後継成遺文』甘糟勇雄編1960.6「戊辰役参謀甘糟備後継成 北越日記5月15日」P196
  7. ^ a b 『上杉家御年譜18』上杉温故会1960.6 P6
  8. ^ 『上杉家御年譜18』上杉温故会1960.6 P27
  9. ^ 『上杉家御年譜18』上杉温故会1960.6 P28
  10. ^ a b c 『上杉家御年譜18』上杉温故会1960.6 P38
  11. ^ 「歴史評論631号」奥羽越列藩同盟の成立と米沢藩P21 上松俊弘 歴史科学協議会 2002.11
  12. ^ 「歴史評論631号」奥羽越列藩同盟の成立と米沢藩P26(注35) 「総督・千坂高雅、参謀・甘糟継成、軍艦・倉崎清典長秀方原正祐高山政康森長義松本高明」 上松俊弘 歴史科学協議会 2002.11
  13. ^ 『米沢市史第3巻(近世編2)』米沢市史編さん委員会 1993.3 P617
  14. ^ 『甘糟備後継成遺文』甘糟勇雄編1960.6「戊辰役参謀甘糟備後継成 北越日記5月21日」P205
  15. ^ 『甘糟備後継成遺文』甘糟勇雄編1960.6「戊辰役参謀甘糟備後継成 北越日記5月22日」P207
  16. ^ 『甘糟備後継成遺文』甘糟勇雄編1960.6「戊辰役参謀甘糟備後継成 北越日記5月24日」P210
  17. ^ 『甘糟備後継成遺文』甘糟勇雄編1960.6「戊辰役参謀甘糟備後継成 北越日記5月24日」P210-211
  18. ^ 『上杉家御年譜18』上杉温故会1960.6 P3
  19. ^ 『史談会速記録 複製版 合本19(千坂高雅談話 明治35.36)』原書房 1971-76 P172「若林や小林は戦いに出たものではないから早く引けというので、ドンドン引き上げた、ところが若い者は私学校の生徒が西郷の命令を聞かぬようなもので、兵隊は遂に衝突した以上は引くに引かれぬ結果を来した」
  20. ^ 『米沢市史第3巻(近世編2)』米沢市史編さん委員会 1993.3 P626
  21. ^ 『上杉家御年譜18』上杉温故会1960.6 P27-28

出典 編集

  • 『甘糟備後継成遺文』甘糟勇雄編1960.6「戊辰役参謀甘糟備後継成 北越日記」
  • 『上杉家御年譜18』上杉温故会1960.6
  • 『上杉家御年譜24』上杉温故会
  • 『米沢市史第3巻(近世編2)』米沢市史編さん委員会 1993.3
  • 『史談会速記録 複製版 合本19(千坂高雅談話 明治35.36)』原書房 1971-76