若瀬川 泰二(わかせがわ たいじ、1920年2月20日 - 1993年9月3日)は、兵庫県尼崎市出身で荒磯部屋(入門時は伊勢ヶ濱部屋)に所属大相撲力士。本名は服部 忠男(はっとり ただお)。最高位は西小結1950年9月場所)。身長176cm、体重110kg。得意手は右四つ、突っ張り、吊り、外掛け[1]

若瀬川 泰二
若瀬川 泰二(1958年頃)
基礎情報
四股名 若瀬川 忠雄 → 若瀬川 泰二
本名 服部 忠男
生年月日 1920年2月20日
没年月日 (1993-09-03) 1993年9月3日(73歳没)
出身 兵庫県尼崎市
身長 176cm
体重 110kg
BMI 35.51
所属部屋 荒磯部屋(入門時は伊勢ヶ濱部屋
得意技 右四つ、突っ張り、吊り、外掛け
成績
現在の番付 引退
最高位 西小結
生涯戦歴 414勝434敗19休(65場所)
幕内戦歴 352勝395敗19休(54場所)
優勝 幕下優勝1回
敢闘賞1回
技能賞3回
データ
初土俵 1935年1月場所
入幕 1942年1月場所
引退 1959年1月場所
引退後 年寄浅香山
備考
金星7個(羽黒山2個、千代の山1個、鏡里3個、栃錦1個)
2019年8月6日現在

引退後は年寄浅香山を襲名し、相撲解説者も務めた。

人物・来歴 編集

14歳の時に伊勢ヶ濱部屋へ入門し、1935年1月場所で初土俵。入門時より期待されており、当初から部屋の先輩幕内力士、若瀬川の四股名を譲られていた。1940年5月場所で新十両、1942年1月場所で新入幕、同時に入幕した輝昇神風とともに「新入幕三羽烏」と称され将来を嘱望された[1]

1944年11月に後楽園球場で10日間行われた本場所では終盤まで全勝、優勝も期待された。だが、三根山に敗れ、9勝1敗の優勝同点に終わった[1]。1946年11月場所11日目から途中休場を喫したことで5日目から休場した照國、7日目から途中休場した備州山を含めて同部屋の幕内力士が同一場所に於いて3人途中休場するという珍事に至った。[2]最高位は小結に留まったが、38歳までの間長く幕内上位に定着し、1959年1月場所限りで引退するまで、「年増ネコ」と呼ばれる人気力士であった[1]。ちなみに、双葉山と対戦した力士の中で、一番遅くまで現役を務めた。対戦成績は若瀬川の0勝3敗で、1950年9月場所後に風水害義援金募集大相撲で双葉山(当時は年寄・時津風)と再戦したが、左上手投げで敗れてしまった。引退後は年寄・浅香山を襲名し、後進の指導に当たった。

現役時代から能弁で知られ、1957年日本相撲協会の運営の在り方が国会で議論された際にも、衆議院文教委員会に参考人として答弁に立ち、力士の立場を訴えた[3]。そういうこともあって、引退後から当時の民放での相撲放送の解説者として活躍、民放撤退後はしばらく勝負審判など協会の仕事に専念していた。1985年の停年(定年)退職後はNHKの解説者・若瀬川忠男となり[1]1991年1月場所まで)、その能弁かつ人情味あふれる解説は佐渡ヶ嶽親方(元横綱琴櫻)とお茶の間の人気を二分し大相撲中継の印象がアップした。

1993年9月3日、膵臓癌のため東京都墨田区内の病院で逝去。73歳没。

取り口 編集

前捌きの名人として知られた相撲巧者であった[1]。若い頃は突っ張り、右四つからの吊りが得意だったが、次第に技巧派の取り口へと変わった[4]

主な成績・記録 編集

  • 通算成績:414勝434敗19休 勝率.488
  • 幕内成績:352勝395敗19休 勝率.471
  • 現役在位:65場所
  • 幕内在位:54場所[5]
  • 三役在位:1場所(小結1場所)
  • 三賞:4回
    • 敢闘賞:1回(1957年9月場所)
    • 技能賞:3回(1948年5月場所、1954年3月場所、1958年11月場所)
  • 雷電賞:1回(1957年9月場所)
  • 金星:7個(羽黒山2個、千代の山1個、鏡里3個、栃錦1個)
  • 各段優勝
    • 幕下優勝:1回(1940年1月場所)

場所別成績 編集

若瀬川 泰二
春場所 夏場所 秋場所
1935年
(昭和10年)
(前相撲) (前相撲) x
1936年
(昭和11年)
(前相撲) 東序ノ口12枚目
4–2 
x
1937年
(昭和12年)
西序二段24枚目
4–2 
東三段目34枚目
1–6 
x
1938年
(昭和13年)
東序二段8枚目
5–2 
東三段目21枚目
5–2 
x
1939年
(昭和14年)
西幕下35枚目
6–1 
東幕下7枚目
4–4 
x
1940年
(昭和15年)
東幕下6枚目
優勝
8–0
西十両6枚目
4–11 
x
1941年
(昭和16年)
西十両13枚目
12–3 
東十両2枚目
9–6 
x
1942年
(昭和17年)
東前頭21枚目
8–7 
西前頭11枚目
6–9 
x
1943年
(昭和18年)
西前頭12枚目
8–7 
西前頭9枚目
8–7 
x
1944年
(昭和19年)
東前頭7枚目
8–7 
西前頭3枚目
1–9 
西前頭14枚目
9–1 
1945年
(昭和20年)
x 東前頭4枚目
4–3 
東前頭3枚目
5–5 
1946年
(昭和21年)
x 国技館修理
のため中止
東前頭3枚目
4–6–3[6] 
1947年
(昭和22年)
x 西前頭6枚目
3–7 
西前頭9枚目
6–5 
1948年
(昭和23年)
x 西前頭7枚目
6–5
西前頭4枚目
8–3 
1949年
(昭和24年)
東前頭筆頭
7–6 
東前頭筆頭
4–11 
西前頭5枚目
8–7
1950年
(昭和25年)
西前頭筆頭
7–8 
西前頭2枚目
8–7 
西小結
7–8 
1951年
(昭和26年)
西前頭筆頭
6–9
西前頭5枚目
3–12 
東前頭9枚目
9–6 
1952年
(昭和27年)
東前頭4枚目
5–10 
西前頭9枚目
8–7 
東前頭5枚目
6–9 
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1953年
(昭和28年)
東前頭7枚目
8–7 
東前頭5枚目
9–6 
東前頭2枚目
5–10 
x 西前頭4枚目
4–11 
x
1954年
(昭和29年)
西前頭8枚目
8–7 
東前頭6枚目
9–6
西前頭2枚目
3–9–3[7] 
x 西前頭8枚目
9–6 
x
1955年
(昭和30年)
東前頭6枚目
9–6
西前頭3枚目
4–11
東前頭7枚目
5–10 
x 西前頭11枚目
9–6 
x
1956年
(昭和31年)
西前頭5枚目
8–7 
西前頭筆頭
2–13
東前頭11枚目
5–10 
x 西前頭17枚目
9–6 
x
1957年
(昭和32年)
西前頭14枚目
10–5 
西前頭6枚目
6–9 
西前頭9枚目
7–8 
x 西前頭10枚目
12–3
西前頭筆頭
4–11 
1958年
(昭和33年)
西前頭6枚目
9–6 
西前頭3枚目
3–12 
西前頭10枚目
7–8 
西前頭11枚目
8–7 
東前頭10枚目
9–6 
東前頭6枚目
9–6
1959年
(昭和34年)
東前頭3枚目
引退
0–2–13[8]
x x x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

改名歴 編集

  • 若瀬川 忠雄(わかせがわ ただお)1936年5月場所 - 1940年1月場所
  • 若瀬川 泰二(わかせがわ たいじ)1940年5月場所 - 1959年1月場所

年寄変遷 編集

  • 浅香山 泰範(あさかやま やすのり)1959年1月 - 1985年2月

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(4) 立浪部屋』p31
  2. ^ それから67年後となる2013年11月場所では2日目に琴奨菊、3日目に琴欧洲、6日目に琴勇輝が途中休場を喫したことで3人が所属する佐渡ヶ嶽部屋が同様の珍事を記録した格好となった。
    『大相撲ジャーナル』2014年2月号107頁
  3. ^ 第26回国会衆議院文教委員会第15号昭和32年4月3日
  4. ^ ベースボール・マガジン社刊『国技館100周年/協会機関誌・相撲60周年記念 蘇れ!大相撲』「60年を彩った名力士、個性派力士100人」
  5. ^ これは引退当時の最高記録。
  6. ^ 左背部打撲により10日目から途中休場
  7. ^ 右肩関節脱臼・右肘関節及び右手首関節負傷により6日目から途中休場、10日目から再出場
  8. ^ 右足首関節捻挫により2日目から途中休場

関連項目 編集

外部リンク 編集