英国海外航空機空中分解事故

英国海外航空機空中分解事故(えいこくかいがいこうくうきくうちゅうぶんかいじこ)は、1966年昭和41年)3月5日英国海外航空(BOAC-British Overseas Airways Corporation、現ブリティッシュ・エアウェイズ)のボーイング707型機が富士山付近の上空で乱気流に巻き込まれ空中分解し墜落した航空事故である。

英国海外航空 911便
Boeing 707-436, British Overseas Airways Corporation (BOAC) JP5996892.jpg
事故機のG-APFE(1962年撮影)
事故の概要
日付 1966年3月5日 (1966-03-05)
概要 山岳波による空中分解
現場 日本の旗 日本 富士山付近
乗客数 113
乗員数 11
負傷者数 0
死者数 124 (全員)
生存者数 0
機種 ボーイング707-436
運用者 イギリスの旗 英国海外航空 (BOAC)
機体記号 G-APFE
出発地 アメリカ合衆国の旗 サンフランシスコ国際空港
第1経由地 アメリカ合衆国の旗 ホノルル国際空港
第2経由地 日本の旗 福岡空港
最終経由地 日本の旗 東京国際空港
目的地 香港の旗 啓徳国際空港
テンプレートを表示

事故機に関する情報編集

911便に使用されたボーイング707-436型(機体記号:G-APFE、製造番号:17706)は、1960年に製造された。総飛行時間は19,523時間33分で、総飛行回数は6,774回であった[1]

運航乗務員編集

機長は45歳の男性で、1946年3月6日にBOACに入社した。総飛行時間は14,724時間で、そのうち2,155時間がボーイング707の飛行である。ボーイング707の機長の操縦資格は1960年12月3日に取得した[2]

第一操縦士は33歳の男性で、1957年9月29日にBOACに入社した。総飛行時間は3,663時間で、そのうち2,073時間がボーイング707の飛行である。ボーイング707の副操縦士の操縦資格は1962年6月26日に取得した[2]

別の第一操縦士は33歳の男性で、1957年9月23日にBOACに入社した。総飛行時間は3,906時間で、そのうち2,538時間がボーイング707の飛行である。ボーイング707の副操縦士の操縦資格は1962年7月8日に取得した[2]

航空機関士は31歳の男性で、1957年7月8日にBOACに入社した。総飛行時間は4,748時間で、そのうち1,773時間がボーイング707の飛行である。ボーイング707の航空機関士の飛行資格は1963年4月17日に取得した[2]

事故の経過編集

羽田到着から離陸まで編集

英国海外航空 (BOAC)911便はサンフランシスコを起点とし、ホノルル羽田空港を経由して香港に向かう計画であった。羽田空港には1966年(昭和41年)3月4日16時45分に到着予定であったが、羽田が濃霧で閉鎖されたため、板付飛行場(現在の福岡空港)へダイバート[3]、1日遅れの3月5日12時43分に羽田に到着した[4][5]

 
羽田空港(1967年)
 
富士山麓・太郎坊付近

911便は13時58分に羽田空港から香港啓徳空港に向けて20時間以上の遅れで離陸した[6]。滑走路脇には前日に濃霧のなか着陸に失敗して大破・炎上したカナダ太平洋航空ダグラス DC-8の残骸が散乱していた(カナダ太平洋航空402便着陸失敗事故)。

機長は離陸前のタクシングを始める寸前に、提出済みの羽田空港から伊豆大島経由で香港に向かう計器飛行方式 (IFR)によるコースではなく、富士山上空へ直行する有視界飛行方式 (VFR)を要求し受理されていた[7]。離陸完了後、機長から管制塔への無線通信による「ごきげんよう (Good day)」が当該機からの最後の言葉となった[8]

空中分解編集

羽田空港を離陸し巡航高度に上昇中の14時15分ごろ、静岡県御殿場市上空付近15,000フィート (4,600 m)を飛行中、乱気流に遭遇して右翼が分断されるなどして機体は空中分解、御殿場市の富士山麓・太郎坊付近に落下した。

空中分解してから墜落するまでの様子を目撃していた自衛隊員らによると、空中分解した後に両翼から燃料を吹き出しながら機体中心部が地面に衝突し、爆発音とともに黒煙が上がったという。その後操縦席を含む機首部分が焼失した。機首付近は本来燃料タンクがないので炎上しないはずであったが、911便は乱気流遭遇時に主翼付近のタンク隔壁を燃料が突き破り機首付近に溜まっていたことが火災の原因となった。翌朝になっても機首を含めた機体の一部はまだ燃え続けており、ジェット燃料の白い煙と臭いが絶えない状況であった。

毎日ニュースの事故の解説によると、空中分解した機体の破片は墜落地点から20キロメートルも離れた所にも飛び散っていたという。また乗客の手荷物や日本の土産物等の遺品も墜落現場からかなり離れた場所から発見され、乱気流に巻き込まれた際に機体が破損し、空中分解する途中広範囲に渡って機体の破片や遺品が飛散したものとみられている。

事故の発生から間もなく事故の瞬間を目撃していた自衛隊員や警察官などが現場に駆け付けたが生存者はおらず、乗員11名、乗客113名の合計124名全員が犠牲となった。なお山林地帯への墜落であったこともあり、地上の犠牲者及び負傷者はなかった。

事故調査編集

墜落の瞬間は、富士山測候所職員や陸上自衛隊東富士演習場自衛隊員路線バス運転手など多くの目撃者がおり、その多くが地元の静岡県警察に通報した上に、住宅地や自衛隊駐屯地からもそれほど遠くなかったために、早いタイミングで警察官や消防隊員が墜落現場に駆けつけ現場の保存や捜索にあたった。なお目撃していた陸上自衛隊員も直後に事故現場に向かい、現場保存及び捜索にあたった。

当初は小型機の墜落との情報が寄せられた他、白い煙と部品をまき散らしながら墜落していくのを「パラシュートで乗員が脱出していった」と勘違いしたため、自衛隊機が墜落したとの誤った情報も伝えられたが、墜落現場に駆けつけた警察官や消防隊員、自衛官らが、「BOAC」や「Boeing 707」と書かれた残骸を発見し、英国海外航空のボーイング707型機の墜落と判断。直ちに世界各国に英国海外航空機の遭難が報じられた。

前述の自衛隊員が、事故機の墜落時刻に前後してこの日平和台野球場福岡市)で行われたプロ野球オープン戦西鉄ライオンズ読売ジャイアンツの試合のラジオ中継NHKラジオ第1放送で生中継されていた)を偶然聴いていたとされ、その自衛隊員が「(1回表の)巨人の攻撃で長嶋(茂雄)森(祇晶)が出て(6番打者の)吉田の打席のとき、飛行機の主翼の両端あたりから白く尾を引き始めました」と証言したことを基に、本件事故捜査本部がNHKの当該試合中継の録音テープを分析した結果、正確な墜落時刻が判明した[9]

富士山測候所の『カンテラ日誌』には、「14時15分、南東方の上空500メートルくらいのところに上昇姿勢で右翼の3分の2を残し、火と煙を噴いて落ちる飛行機を発見。」と記録された[10]

これらの目撃証言に加えて、乗客の1人が持っていた8ミリカメラ(アメリカ・キイストン社製)が回収され、この内容(事故直前の機内から山中湖周辺の光景が撮影されており、画面が一瞬(2コマ)飛んで機内と思われる流れた映像(ひっくり返った客席と引きちぎられたカーペット)が映ったところで終わっていた)が事故原因究明に大きく寄与した[8]

事故機に搭載されていたフライトデータレコーダー(FDR)は、発見から間もなく回収されたものの、墜落時の火災で破壊されていた為、分析調査は断念せざるを得なかった。しかし墜落までの光景については、前述のように自衛隊員をはじめ多くの目撃者がおり、さらに富士スピードウェイで行われていた自動車レースを取材中の平凡パンチのカメラマンらによって、空中分解し墜落する機体の写真も撮影されていた。

山岳波編集

当日の天候は快晴。それまでも富士山の周囲では「山岳波」という特殊な乱気流の発生が知られていた[注釈 1]

しかしヘリコプターなどでの頂上部への接近は危険であるが、旅客機による上空通過は問題視されていなかった。ところが後の天気図や気象衛星画像、風洞実験等による分析で、この日中国大陸からの強い季節風のため従来の予想を大幅に上回る強い山岳波が発生していたことが判明した。

この強い乱気流により、ボーイング707の設計荷重を大幅に超える応力(事故分析では7.5G 以上、この数値の推定に上記の8ミリカメラ映像が役立った)が各部にかかった。これにより同機は垂直安定板および右水平安定板が破損、次いで右主翼端やエンジンが脱落、主翼全体から漏れ出した燃料が白煙のように尾を曳きながらきりもみ状態で墜落に至った。

なお、山岳波は富士山のような孤立した高い山の風下が特に強くなるとされている。またその影響は標高の5割増しの高度まで及ぶといわれている。そのため当日の富士山の場合、南側かつ高度5800m以下の飛行は特に危険であり、事故機の飛行ルートはまさにその範囲に該当していた。

事故の原因が、山岳波の中でも特殊な「剥離(はくり)現象」であると気象庁気象研究所が発表したのは、事故から4年たった1970年4月である。事故当時は山岳波の研究が進んでいるロンドン大学のスコーラー教授らが発表していた「山体のかなり上部を波状に流れる気流」が原因と見られていたが、この気流は数十秒から数分の長い周期で流れる方向が変わるのに対し、目撃者の証言や事故の写真撮影などから、気象研究所は「もっと短い周期で方向が変わる未知の空気の流れがあるはず」と研究を進めた結果、「山体表面近くの気流が地表から剥がれる時に渦を巻き、それが山体から遠くまで続くこと」を発見、これが事故原因である事を突き止め、「剥離現象」と名付けて発表した。

飛行経路編集

 
北側を飛行する旅客機から見た富士山
(2007年2月撮影)

機長がなぜ通常よりも数千メートルも低い高度で、しかも有視界方式により富士山近傍を飛行しようとしたのかは未だに判然としていない。なお、ホノルルから羽田へのフライトは濃霧(前日のカナダ太平洋航空機事故の一因となった)によるダイバートにより福岡空港へ着陸後、当日朝に羽田に再度向かったため、出発が20時間以上遅れていたことが判明している。

そうした点から下記の要因が推定されている。

  • 当初の羽田の到着予定より大幅に遅れていた為、飛行距離を短縮させて早く次の目的地の香港に到着したかった。
  • アメリカ人の団体観光客が多く搭乗していた為、観光サービスも兼ねて乗客に日本の象徴である富士山を近くで見学してもらいたいと思った。

また運航航空会社は911便の直前に離陸した伊豆大島経由で鹿児島に向かう全日空機の存在が判断に影響したと指摘したが、この機はターボプロップ機のフォッカー F27で、巡航高度も巡航速度も911便よりも低かったため、無関係とされた[11]

事故原因調査の過程では、本事故以前に同じ911便(別の機長)が何度か富士山上空を経由して飛行したことが確認されている。このことは柳田邦男の「マッハの恐怖」に触れられており、2月5日の911便の飛行は乗客が撮影した富士山頂の写真もあったが、この時の飛行は富士山の北側からであった。事故調査報告書によれば、「富士経由の有視界飛行は、もし、それが航空機の進行を促進するために行われたものであるならば、機長の裁量に属することである。ただ、この場合における有視界上昇を要求した理由については、旅客に富士山をよりよく見せようとすることと関連があったかも知れないが、これを明らかにすることはできなかった」のだという[11][12]

事故調査委員会はこの事にも注目し検証を行うも、事故機機長が富士山周辺経由、しかも高度を低くして飛行を決断した理由を明確化できておらず、さらにはイギリス側調査団より東京航空地方気象台の乱気流警報発令が事故後2時間半後であるのに、事故機機長が予知可能かとの反論等もあり、結局航空会社は事故に対して不可抗力であったと表明している。

なお現在も富士山上空を飛行する民間航空ルートは存在するが、必ず計器飛行方式で飛行し、なおかつ富士山より数千メートル高い充分な高度をとっているため山岳波の影響を受けにくく、それにより墜落する危険性は低い。それでも、富士山周辺での乱気流の発生が報告される際には富士山が見えないくらい大きく迂回するコースを取る。特に航路が異なる羽田空港進入時に富士山の南側を飛行する際には八丈島付近まで南下することがある。

乗客編集

乗客のうち75名がアメリカ人団体客で、ミネソタ州の冷凍機器会社であるサーモキング社の成績優秀な販売代理店へのボーナスとして日本・東南アジア旅行に招待された、当時の同社の副社長ラルフ・ポーターを始めとする会社重役とその家族であった。このうち夫婦で参加していたのが26組で、両親を失った子供は63人にも上った。この旅行団は京都を訪問した後に事故に見舞われたので、新聞には京都・祇園料亭「左阿弥」で開かれたすき焼きパーティーの際の記念写真が掲載された。

また、当時の国際線の運賃は高額であることから、当機にも外国人や日本人ビジネスマン、富裕層が多く乗っていた。映画『007は二度死ぬ』の撮影のために来日していた後述以外のスタッフや、ビルマ(現・ミャンマー)赴任中の夫の許へ向かっていたバリトン歌手立川清登の姉とその家族、第3次日本公演からの帰途にあったフランスの著名キャバレー「カルーゼル」所属の性転換ないし女装のダンサー[13]一行などが犠牲となった。

一方で、映画『007は二度死ぬ』の監督のルイス・ギルバート、制作者のハリー・サルツマンアルバート・R・ブロッコリフレディ・ヤング、プロダクションデザインのケン・アダムも搭乗する予定だった上に当該機の機長と前夜夕食を共にしていたが、出発2時間前に急遽忍者の実演が見ることができることになったため予定変更により搭乗をキャンセルし難を逃れた。数時間後に遭難の知らせを受けた一行は青ざめ、「これが二度目の命だ」と胸を撫で下ろしたという。

慰霊碑編集

英国旅客機遭難者慰霊碑
 
所在地 静岡県御殿場市

墜落現場の静岡県御殿場市の富士山麓・太郎坊付近の駐車場わきに、同機の墜落犠牲者のための慰霊碑が建てられた。


1966年(昭和41年)の五連続事故編集

日本では1966年(昭和41年)に5件の航空事故が発生した。本事故は3件目であった。

脚注編集

[脚注の使い方]

注釈編集

  1. ^ 1962年3月には、築城基地から入間基地に向かって飛行中の、航空自衛隊F-86戦闘機4機編隊がやはり山岳波に見舞われ、うち2機が墜落した。

出典編集

  1. ^ 報告書 1968, p. 56.
  2. ^ a b c d 報告書 1968, pp. 55-56.
  3. ^ 柳田 1986, p. 216.
  4. ^ 報告書 1968, p. 53.
  5. ^ 柳田 1986, p. 104.
  6. ^ 柳田 1986, p. 183.
  7. ^ 柳田 1986, p. 111.
  8. ^ a b ビーティ 2002.
  9. ^ 柳田 1986, pp. 182-183.
  10. ^ “富士山測候所 日誌を廃棄 68年間つづった貴重な40冊”. 毎日新聞. (2018年8月10日). https://mainichi.jp/articles/20180810/k00/00m/040/187000c 
  11. ^ a b 報告書 1968, pp. 62-63.
  12. ^ 柳田 1986, p. 203.
  13. ^ 当時の日本では「ブルーボーイ」と呼ばれていた。

参考文献編集

事故調査報告書編集

  • BOAC所属ボーイング707(G-APFE)事故調査報告書」『日本航空学会誌』第16巻第169号、日本航空学会、1968年2月5日、 53-63頁、 NAID 130004966311

書籍編集

  • 柳田邦男『マッハの恐怖』新潮社〈新潮文庫〉、1986年5月。ISBN 9784101249056
  • デイビット・ゲロー『航空事故―人類は航空事故から何を学んできたか?』清水保俊訳、イカロス出版、1997年5月1日。ISBN 9784871490993
  • デヴィッド・ビーティ『機長の真実―墜落の責任はどこにあるのか』小西進訳、講談社、2002年1月24日。ISBN 9784062111195

関連項目編集

外部リンク編集

オンライン資料編集

マスメディア編集