英子セオドラ尾崎

翻訳家

英子 セオドラ 尾崎(えいこ セオドラ おざき、: Yei Theodora Ozaki1870年12月14日[1] - 1932年12月28日)は、イギリス生まれの日系翻訳家。『日本昔話』(Japanese Fairy Tales[2]) を英訳し、これは没後も再刊されている。尾崎行雄の後妻で、娘に「難民を助ける会」の設立者の相馬雪香がいる。参議院議員の尾崎行輝は義理の息子。姪の夫は俳優のラルフ・リチャードソン

英子セオドラ尾崎
1910年
誕生 1870年12月14日
イギリスの旗 イギリスロンドン
死没 (1932-12-28) 1932年12月28日(62歳没)
イギリスの旗 イギリスロンドン
職業 翻訳家
国籍 日本の旗 日本
代表作 『日本昔話』(Japanese Fairy Tales
パートナー 尾崎行雄
子供 相馬雪香
親族 尾崎三良(父)
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来歴 編集

父親は男爵尾崎三良で、三良がロンドン留学中に語学教師を務めたウイリアム・モリソンの娘バサイアと結婚し(明治初の国際結婚)、生まれた娘のひとりである。両親は5年間の結婚の後に離婚して、三良は妻子を置いて帰国し、セオドラは16歳までイギリスで育てられた。離婚同意書に母バサイアが子供の養育に困った際は子供を日本に送ることができるという条項があったことから、1885年に祖父のウィリアム死去により生活に困窮したバサイアは英子の日本行きをロンドン総領事の園田孝吉に相談、もともと引き取ることに賛成だった尾崎はすぐ了承し旅費を送った[3]

バサイアは英子を手放すことをためらったが、尾崎の再三の催促により、1887年に16歳で来日し、頌栄女学校のアメリカ人女性宣教師や式部権頭の桜井能監に半年ほど預けられたのち、聖アンデレ教会ショウ牧師夫妻に引き取られ、香蘭女学校の助教師となった[3]。18歳から縁談が4回持ち込まれたが、いずれも拒否[3]。20歳で父親から独立して教師で身を立て、1891年に駐日英国公使のヒュー・フレイザーの妻メアリーの個人秘書となり英国大使館に住み込んだ[3]。フレイザー公使の急死によりイタリアに転居したメアリーを追って1895年に渡欧し、2年間メアリーとともにイタリアに滞在したのち、ロンドンの母のもとに戻った[3]

ロンドンでの母子の生活は楽ではなく、1898年に母子宅に下宿していた門野幾之進から窮状を聞いた福沢諭吉が同情し、慶應義塾幼稚舎の英語教師の職を紹介、1899年に再来日[3]。1903年に教師を辞め、巖谷小波のお伽噺をもとに、日本の有名な昔話22編を収録した『Japanese Fairy Tales』を出版[3]

 
『Japanese Fairy Book』表紙(藤山覚三 画)

好評を得たため刊行が続き、西洋社会で誤解されがちな日本の女性についての物語なども執筆した[3]。日本の社交界でも人気を集め、日露戦争の取材に来たタイムズ特派員と韓国を訪れるなど活躍した[3]。同姓ゆえの郵便配達の誤配がきっかけで尾崎行雄と親しくなり、1905年に結婚[3]

 
尾崎行雄とセオドラ(1910年)

夫婦の間では全ての会話に英語が用いられ、家庭生活は大体洋式に改められた[4]。幸せな結婚生活を送っていたが肉腫を患いアメリカで手術をしたが、1932年に行雄らと滞在中のロンドンで死去した[3]。行雄との間に品江、雪香があり、雪香は相馬恵胤に嫁いだ。

著書 編集

  • Japanese Fairy Tales または The Japanese Fairy Book
  • Warriors of old Japan, and other stories
  • Romances of old Japan
  • Buddha's crystal and other fairy stories

『日本昔話』の挿絵 編集

脚注 編集

  1. ^ 小山騰「明治前期国際結婚の研究 : 国籍事項を中心に」『近代日本研究』第11巻、慶應義塾福澤研究センター、1994年、121-173頁、ISSN 0911-4181CRID 10500013389497863682023年8月10日閲覧 
  2. ^ 巌谷小波著、藤山覚三画 英子セオドラ尾崎訳
  3. ^ a b c d e f g h i j k 長岡祥三「尾崎行雄夫人セオドーラの半生」『英学史研究』第1996巻第28号、日本英学史学会、1995年、57-71頁、doi:10.5024/jeigakushi.1996.57ISSN 03869490CRID 1390282680094390400 
  4. ^ 伊佐秀雄『尾崎行雄』吉川弘文館、1960年。 

関連項目 編集

外部リンク 編集