荒井 郁之助(あらい いくのすけ、天保7年4月29日1836年6月12日) - 明治42年(1909年7月19日)は、江戸時代末期(幕末)の幕臣。明治期の官僚。初代中央気象台長幼名は幾之助。は顕徳(あきのり)、後に顕理(あきよし)とした。なお、明治5年(1872年)刊、開拓使版『英和対訳辞書』の序文署名では、自分の名前を郁之助ではなく、「郁」一文字で表わしている。

荒井 郁之助
荒井郁之助
生誕 1836年6月12日
江戸湯島
死没 (1909-07-19) 1909年7月19日(73歳没)
墓地 渋谷区祥雲寺多磨霊園
出身校 昌平坂学問所
職業 蝦夷共和国海軍奉行
中央気象台長
子供 荒井第二郎
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小惑星(5070) Araiは荒井郁之助に因んで命名された[1]

略歴 編集

出生から修養時代 編集

 
矢田堀景蔵
 
東京都渋谷区の祥雲寺に眠る荒井郁ノ助の墓
 
同寺にある荒井君碑。篆額は徳川家達が書した。

天保7年4月29日(1836年6月12日)、江戸・湯島天神下上手代町(現在の東京都文京区)の組屋敷に生まれる[2]。父は幕府御家人で後年に関東郡代付の代官を務めた荒井清兵衛(顕道)で、郁之助は長男[2][3]。幼名は「幾之助」で、祖父・荒井清兵衛(顕徳)の幼名にちなむ[2]。荒井家は幕府の御家人で、代々小普請方を務めている家柄[2]。郁之助出生時の荒井家には曾祖母・祖父母・2人の叔父(成瀬善四郎・矢田堀景蔵)、一人の叔母が同居する大家族であった[2]

7歳より隣家に住む六笠弘太郎や叔父の矢田堀景蔵(鴻)を師として漢学儒学を学び、素読を始める[4]。8歳で昌平坂学問所勤番組の内山孝太郎に入門し、内山の私宅で素読を行う[4]。郁之助は素読を嫌い、13歳で素読吟味を済ませたという[4]。14歳で湯島の昌平坂学問所に入学する[4]。15歳より六笠弘太郎の勧めで書家の関雪江に書道を学ぶ[5]。12歳より叔父の薦めで、下谷御徒町に道場を持つ直心影流の石川瀬平治に剣術を学び、日置流・伴道雪派と言われる鵜殿十郎左衛門から弓術を学び、神田橋の渡辺半十郎から高麗流八条家の馬術を学ぶ[6]。18歳より西洋砲術を学びはじめ、20歳で幕府出仕(100俵10人扶持)、箕作阮甫のもとで[7]蘭学を修めた後、軍艦操練所教授を命じられた。

幕府出仕から戊辰戦争 編集

航海術測量術および数学にも通じ、1857年から幕府軍艦操練所で軍艦操練、測量、洋算を学び始め、1860年から甲賀源吾と共に高等代数、高等幾何、微分積分学の研究を始める[7]文久2年(1862年)9月には軍艦操練所頭取に就任、松平春嶽徳川慶喜ら要人を船で大坂まで送るなど重役を果たしていたが、元治元年(1864年)4月に講武所頭取を命じられたため海軍職を一時離れ、慶応元年(1865年)には歩兵差図役頭取となり、横浜大鳥圭介と共にフランス式軍事伝習を受け、慶応3年(1867年)5月には歩兵頭並に進級した[8]

慶応4年(1868年)1月に軍艦頭を命じられて海軍職に復帰、海軍副総裁榎本武揚らと共に新政府軍支配下に置かれた江戸を脱出、箱館戦争に身を投じることとなる。

箱館政権(俗に蝦夷共和国)下では海軍奉行となり、宮古湾海戦および箱館湾海戦に奮闘する。

開拓使出仕から晩年 編集

降伏後は東京で2年半獄中生活を送り、「英和対訳辞書」を完成させる[7]。死刑を免れて榎本らと共に開拓使の役人として新政府に出仕。1872年開拓使仮学校校長心得を勤める[9]ワッソンらと北海道の三角測量を行う。

明治10年(1877年)、内務省地理局配属[10][11]。全国大三角測量計画を計画。

1877年東京数学会社の創立時の社員[7]

気象学・翻訳に励み、後に明治20年(1887年)に新潟県永明寺山(現在の三条市)において皆既日食の観測を行う観測隊を率い、観測隊に参加した杉山正治が日本で初めて太陽コロナの写真撮影を成功させている[12]。明治23年(1890年)8月には初代中央気象台長に就任。

明治42年(1909年)、糖尿病がもとで永眠。享年74。息子の荒井陸男画家となり、絵画館に収蔵されている『水師営の会見』などの作品をのこした[13]。荒井郁之助の墓石は祥雲寺にある。

栄典 編集

人柄 編集

海軍職に深く携わっていた荒井だが、水泳が不得手で、更に下戸だった。反面、甘い物が大好物で健啖家、箱館湾海戦時も大量の汁粉を作らせていたほどだったが、性格は身分・学歴をおごらず、温和でひどく謙遜家だったと言われている。

気象台長時代には、部下の報告書を見て決して訂正する事なく「至極結構」と言って許可したので、部下達からは『至極結構』というあだ名で呼ばれていた。一方、ある晩不意に入った強盗を槍で猛然と立ち向かっていって追い出したという武勇伝も残る。しかし宮古湾海戦などについて聞いても「あの時は夢中だった」と答えるのみだったと言う。

戸籍には士族華族などとは書かずに"平民"とした。その時質問を受けた荒井は、「敗軍の将、再び兵を語らず。牢獄から出てきた時に剣を捨てて、生まれ変わって再生をしたのであるから、平民となるのである」と答えたそうだ。

関係者 編集

荒井は箱館戦争戦死者の墓である碧血碑の写真を土方家に送ったと伝わる。
荒井宅に住み込んで、共に幾何学代数学を学んでいた。

作品 編集

TVゲーム 編集

出典 編集

  1. ^ (5070) Arai = 1951 TY = 1954 EN = 1970 AS = 1979 WQ5 = 1982 HA = 1990 UJ6 = 1990 VE7 = 1991 XT”. 2022年8月16日閲覧。
  2. ^ a b c d e 原田(1994)、p.1
  3. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 56頁。
  4. ^ a b c d 原田(1994)、p.13
  5. ^ 原田(1994)、p.17
  6. ^ 原田(1994)、p.18
  7. ^ a b c d 開拓使仮学校初代校長 荒井郁之助 : 数学教室の沿革”. 北海道大学大学院理学研究院数学部門/北海道大学大学院理学院数学専攻/北海道大学理学部数学科. 2020年12月5日閲覧。
  8. ^ 小川、132頁
  9. ^ 資料でたどる北海道大学の歴史”. 北海道大学150年史編集室. 2022年10月25日閲覧。
  10. ^ 加藤芳夫「明治初期の勇払基線と苫小牧の発展:わが国最初の系統的な基線測量と三角測量をめぐって」『地図』第16巻第4号、日本地図学会、1978年、11-16頁、doi:10.11212/jjca1963.16.4_11ISSN 0009-4897NAID 130003812982 
  11. ^ 堀内剛二. “初代中央気象台長荒井郁之助 その青年時代”. 日本気象学会. 2020年12月4日閲覧。
  12. ^ Arai, I.(1888): The Total Eclipse of the Sun 1887 Aug 19, Memoirs of the Royal Astronomical Society, 49:1, 271.
  13. ^ 久住忠男『海軍自分史 運命を変えた戦争と平和』光人社、1987年。ISBN 4-7698-0363-X 210頁-211頁
  14. ^ 『官報』第1650号「授爵叙任及辞令」1888年12月27日。
  15. ^ 『官報』第1935号「叙任及辞令」1889年12月9日。
  16. ^ 『官報』第3258号、明治27年5月12日。

参考文献 編集

学職
先代
正戸豹之助
東京気象学会会長
1883年 - 1888年
次代
山田顕義
大日本気象学会会頭