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荒木 政公(あらき まさきみ、1919年 - 没年不詳)は長崎県出身のプロ野球選手投手)。

荒木 政公
基本情報
出身地 日本の旗 日本 長崎県
生年月日 1919年[1]
没年月日 不詳
身長
体重
169[1] cm
63[1] kg
選手情報
投球・打席[1]投右[1]
ポジション 投手
プロ入り 1939年
初出場 1939年3月19日[2]
最終出場 1939年11月2日[3]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

来歴・人物編集

海星中学(現・海星中学校・高等学校)、社会人野球門司鉄道管理局を経て、1939年阪急軍に入団。海星中学時代は甲子園出場がなく、社会人野球でも九州地区決勝大会で八幡製鉄に敗れ、都市対抗野球には出場できなかったものの「九州の好投手」として知られていた[4]1938年秋のスカウトでは、逸材として各球団が殺到。巨人も獲得を狙っていた(翌1939年に入団した吉原正喜を抑えて、獲得候補№1選手だったのが荒木だったといわれている[4])。しかし、阪急村上実球団代表が荒木家を訪ねた際に壁に貼られた各球団提示の契約金額を目撃し、他球団よりも高額の契約金を提示したため、阪急への入団を決意したと伝わっている[5][6]

鳴り物入りで入団しただけあって、1939年のシーズンが開幕するとすぐに活躍した。プロ入り2戦目の3月30日イーグルス戦で初先発すると、3安打4四球4三振の好投で初勝利完封で飾った[5]。安定した投球で2試合連続無四球勝利も記録[7]。シーズン全体では、規定投球回不足ながら9勝2敗(うち完封3)、防御率1.72の好成績を残した。打撃面でも打率.289をマークし、弱小球団だった阪急をこの年3位に食い込ませる原動力となった。

しかし、シーズン中に徴兵検査を受けて甲種合格になった(6月3日に行われた新人東西対抗野球戦では西軍の先発が予定されていたが、徴兵検査を受けて長崎から戻ってきて間もなかったため、登板を回避した。代わりに平野正太郎南海〕が登板している[8])ことが原因で、わずか1年しか在籍することができず、同年シーズン終了後に応召。その後国境で、戦病死した[4](詳細な没年月日は不明)。20代前半~中盤の短い生涯だった。

東京ドーム敷地内にある、鎮魂の碑には彼の名が刻まれている。

詳細情報編集

年度別投手成績編集





















































W
H
I
P
1939 阪急 17 15 9 3 2 9 2 -- -- .818 461 114.2 88 2 33 -- 1 36 1 0 29 22 1.72 1.06
通算:1年 17 15 9 3 2 9 2 -- -- .818 461 114.2 88 2 33 -- 1 36 1 0 29 22 1.72 1.06

年度別打撃成績編集

















































O
P
S
1939 阪急 18 49 45 5 13 1 0 0 14 6 0 -- 0 1 3 -- 0 2 -- .289 .327 .311 .638
通算:1年 18 49 45 5 13 1 0 0 14 6 0 -- 0 1 3 -- 0 2 -- .289 .327 .311 .638

背番号編集

脚注編集

関連項目編集

外部リンク編集