荘内藩ハママシケ陣屋跡

北海道石狩市にある本陣屋跡

荘内藩ハママシケ陣屋跡(しょうないはんはまましけじんやあと)は、北海道石狩市浜益区川下にある、蝦夷地警備を行った庄内藩(荘内藩)の本陣屋跡である。1988年5月17日、国史跡に指定された。

荘内藩 ハママシケ 陣屋跡の位置(北海道内)
荘内藩 ハママシケ 陣屋跡
荘内藩
ハママシケ
陣屋跡
位置

概要編集

安政元年(1854)、長年の鎖国を破って日米和親条約を結び下田とともに箱館を開港した江戸幕府は、翌安政2年(1855年)、東西蝦夷地を幕府直轄にするとともに、松前藩のほか仙台・南部・津軽・秋田の四藩に東西蝦夷地・北蝦夷地(樺太)の分担警備を命じた。安政6年(1859年)にはさらに会津・荘内(鶴岡)両藩を警備に加え、奥羽六藩に蝦夷地の開墾守衛を行わせて北方の備えとすることにした[1]

出羽荘内鶴岡の荘内藩主酒井忠発は、同年9月に幕府から西蝦夷地のハママシケ(浜増毛、浜益)領、ルルモッペ(留萌)領からテシホ(天塩)領まで、テウレ(天売)・ヤンゲシリ(焼尻)島を下賜され、ヲタスツ(歌棄)領からアツタ(厚田)領までの地の警備を命じられた。藩では早速蝦夷地総奉行・用掛・元締役・箱館留守居役を任命し、翌万延元年(1860)5~6月には現地において幕府箱館奉行から新領地引渡しを受け、その後新領地諸役人や警備開墾の派遣人数を定めている[1]。本陣屋を置くハママシケには副奉行以下物頭1人、足軽40人、元締及兼郡奉行・目付役・兵糧方金受払方兼普請方・代官各1人、平士20人、医師2人、徒目付・足軽目付・大工棟梁各1人、開墾并ニ諸職人郷夫等40人ほか従者合計193人、脇陣屋を置くルルモッペには計57人、トママイ(苫米)には計161人、テシホには計29人が配置されている。翌文久元年(1861)3月には蝦夷地総奉行から新領地赴任の士民に現地での心構えの諭告があり、藩士・農民の移入が行われた[1]

ハママシケ陣屋は浜益川川口平野北岸の地に構築され、建築資材は酒田より運漕し、土台石も荘内鶴岡から運搬された花崗岩を用いたといわれる。これら資材の運搬に際し浜益川から陣屋まで掘られた運河は、多額の費用を要したため「千両堀」と呼ばれている。主要な建物は万延元年(1860)中に出来、翌文久元年(1861)には移民による開墾もはじめられた[1]。蝦夷地警備の諸藩の中でも、荘内藩は特に入植移民による農耕に一応成功したことで知られており、本陣屋はそうした蝦夷地経営の中心拠点であったが、慶応4年(1868)に戊辰戦争が起こると、藩士・農民の総引揚げが行われ陣屋は10年を経ずして放棄されることになったのである[1]

現在陣屋跡は日本海近くの浜益川北岸丘陵南斜面に所在し、畑地・草地・山林等となっている。伝えられた陣屋の絵図等によると、日本海に面する丘陵尾根上に西面して土塁とその中央に大手門の桝形を配し、南面・東面には丘陵部に木柵・低地部に堀を配して防備の構えとしている[1]。そしてその内側に長屋・土蔵・米蔵・湯屋などの建物群が営まれ、東北谷筋の奥に奉行所・八幡社が位置し、東方背部の丘陵上に火薬庫があったことが知られる。これらの土塁・堀や建物跡の造成地は、今日でも地形にその痕跡をきわめて明瞭に遺しており、陣屋絵図の示す往時の様相を髣髴させるものがある[1]

また、陣屋からの日本海の見通しは限られているが、陣屋西北方の日本海に直接面した山陵上に吹流しを描いた絵図があり、愛冠岬から雄冬岬までの日本海の展望が開けたその地が見張台として機能していたことが知られる。この山陵頂部には北海道でも日本海側に稀少なチャシ(川下チャシ)も存在し、その地形は良好に保存されている[1]

このように、荘内藩ハママシケ陣屋跡はきわめてよくその遺構をとどめており、これまでに史跡指定した南部・松前・仙台諸藩の陣屋跡ともあいまって幕末における国際情勢をうかがう遺跡として歴史的・学術的に高い価値を有している[1]

脚注編集

  1. ^ a b c d e f g h i 文化庁

座標: 北緯43度35分20.7秒 東経141度23分29.4秒 / 北緯43.589083度 東経141.391500度 / 43.589083; 141.391500