菅正利
菅 正利(かん まさとし)は、戦国時代から江戸時代の武将、福岡藩士。黒田二十四騎の一人。通称は孫次、後に故あって六之助(ろくのすけ)と改めた。官途は和泉守。諱は忠利(ただとし)であったが、後年、将軍・徳川秀忠の諱を憚って正利と改めた。号は松隠宗泉。妻は手塚元直の娘。子に菅重利がいる。
![]() 菅和泉正利(福岡市博物館蔵) | |
時代 | 戦国時代 - 江戸時代 |
生誕 | 永禄10年9月19日(1567年10月21日) |
死没 | 寛永2年6月29日(1625年8月2日) |
改名 | 菅孫次→菅六之助→菅忠利→菅正利 |
別名 | 通称:孫次、六之助、初名:忠利、号:松隠宗泉 |
官位 | 和泉守 |
主君 | 黒田孝高→長政→忠之 |
藩 | 福岡藩 |
父母 |
父:菅七郎兵衛正元(一翁) 母:脇野和泉守の娘 |
兄弟 | 正利、正周(弥市右衛門)、正辰 |
妻 | 手塚元直の娘 |
子 | 重利 |
生涯編集
家系は菅原道真の末裔を称し、もとは美作国の人。南朝後醍醐天皇に仕えた菅四郎佐弘(有元佐弘)、五郎佐光、又三郎佐吉らを先祖に持つ美作菅氏(有元氏)の流れ[1]。菅正元の父の代に播磨国の越部邑に移り住んだ[1]。
永禄10年(1567年)9月19日、菅正元の子として播磨国越部で生まれる。母は脇野和泉守の娘。
天正9年(1581年)、黒田孝高に小姓として出仕する。孝高の命により、吉田長利(六郎太夫)の武運にあやかるように「六之助」を名乗った[2]。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いで17歳で初陣し、首を2つとって賞賛された。
天正12年(1584年)、第二次紀州征伐に黒田長政と共に従軍し、岸和田城攻めで一番槍の功を挙げた。
天正15年(1587年)の九州征伐に従軍し、日向耳川で島津氏と交戦。根白坂の戦いにて彼は敵の釣り野伏せ戦術を見破って友軍を危機から救った[3]。黒田家が豊前国を与えられた際には、転封に反対した城井鎮房とその家臣を排除した戦いでの功績で、長政より朱具足と貞宗の脇差を褒美として与えられ、豊前で200石を拝領した。
文禄・慶長の役でも勇猛果敢、獅子奮迅など数々の戦功を挙げ[4][5]、慶長3年(1598年)に300石を加増されて500石となった。朝鮮に虎を斬った逸話が伝わる[6]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、長政に従って島左近を討ち取るなど関ヶ原で戦功を挙げている[7]。他方、国許にあった正元は、如水に従って豊後攻略で活躍して、1300石を拝領した。この領地は正元の死後、弟の正周に受け継がれた[1]。
慶長6年(1601年)、3000石を拝領して大組頭に任命され、怡土郡・志摩郡の代官も務めた。慶長10年(1605年)、徳川秀忠が征夷大将軍になると、「忠」の字を避けるため「忠利」から「正利」に改名している。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では兵庫に出兵し、井上之房・小河之直とともに徳川家康・秀忠に拝謁した。大坂城外堀の埋め立て後、黒田忠之と共に福岡へ帰国する。元和4年(1618年)、長政の命により早良川河口の干拓工事や、糟屋郡新原村・志摩郡新田村の新田開発を行った。
元和7年(1621年)、嫡子・重利に家督を譲った後、隠居料1200石を与えられ、福岡城南二の丸城番に任ぜられる。元和9年(1623年)に長政が没すると出家して松隠宗泉と号した。寛永2年(1625年)6月29日死去。享年59。
人物編集
身の丈6尺2寸(約190センチ)の大男で、力も群を抜いていて、鼎を曲げるほどの剛力だった。天性勇猛なだけでなく、仁愛の心深く忠義の志浅からず、智恵才力も人に超えていたという。 新免無二に新当流、疋田景兼に新陰流を学び、二つの流儀に達して奥義を極め知っていて、剣豪としても知られた。また、茶人の一面も持つ。
脚注編集
参考文献編集
- 近藤瓶城編 国立国会図書館デジタルコレクション 『菅氏世譜』 第15巻 近藤出版部〈史籍集覧〉、1926年 。
- 本山一城『黒田官兵衛と二十四騎』宮帯出版社、2014年、219-230頁