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華北交通株式会社(かほくこうつう)は、南満州鉄道のグループ会社で、ポツダム宣言の受諾に伴い閉鎖された日本国策会社中国華北地方の鉄道バスの運行を担っていた。

概要編集

  • 本社:中華民国北京市東長安街17号
  • 東京支社
  • 社員数:11万(うち7割は中国人社員で構成)
  • 総裁 宇佐美寛爾:1939年4月17日 - 敗戦
  • 資業局(局長、参与)-交通主管、商工主管、農竹林主管、鉄務主管、弘報主管、資料主管、統計主管、調査第一~第三主管、無任所局参与、法制、総務係長、資料室主事
  • 出先機関 各鉄路局、総務所、調査課、産業課
  • 中央鉄路農場
  • 中央鉄路昌黎分場
  • 社員会 天津地方会、済南地方会、張家口地方会、開封地方会
  • 社員会の機関紙『興亜』
 
北京飯店B棟(旧華北交通株式会社本社)

社歌と社訓編集

  1. 皇天の啓示かしこみ 善隣の義に勇むもの おほいなり華北交通 民族の提携かたく わきあがる興亜の希望 われら ねがわくば 建業の礎石とならむ
  2. 東方の秩序あらたに 昭明の日を来すもの おほいなり華北交通 生命の躍動ここに よみがへる大地の文化 われら さきがけて 奉公の至職に生きむ
  3. 開拓の使命あふぎて 交通の利を興すもの おほいなり華北交通 水陸の建設しるく ひかりあり天興の資源 われら こぞりたち 共栄の楽土を成さむ
社訓
華北交通精神とは断固不退転の意思であり大陸諸建設の基調である。

車両工場編集

路線編集

京古幹線(北京~古北口)
京山線(北京~山海関)
同蒲幹線(大同~蒲州)
京漢幹線(北京~漢口)
津浦幹線(天津~徐州)、なお徐州~浦口間は華中鉄道
石門幹線(石門~徳縣)
隴海幹線(連雲~開封)
石太幹線(石門~太原)
膠済幹線(青島~済南)
博山線(張店~博山)
黌山線(淄川~黌山)
京包幹線(北京~包頭)[1]

関連会社編集

  • 駱駝運輸 蒙古地方での運輸業務を行った。京包線開通後も主に4ルートで運輸業務を担った。

沿革編集

1938年(昭和13年) 日中戦争で占領した中国華北地域の鉄道・バスの管理を行うために会社設立。
1945年(昭和20年) 日本の敗戦によって事業の継続困難となり消滅。

優等列車編集

 
北京の中国鉄道博物館にある「大陸」用寝台展望車

華北交通では、日中戦争によって破壊された華北地域(北京天津など)の鉄道の復旧が進むと、朝鮮総督府鉄道・南満州鉄道から直通する優等列車、華中地域(南京上海など)の鉄道を運営する華中鉄道への優等列車も走らせた。前者を代表する列車としては、釜山~北京間を走った「大陸」・「興亜」号があげられる。

  • 「大陸」 1938年(昭和13年)10月に日中戦争によって往来が増した華北地域への便を図るべく運行を開始し、翌年「大陸」と名づけられた。最後尾には一等寝台展望車が連結され、これは南満州鉄道「あじあ」号の展望一等(座席)車と同様に完全密閉式であった。 朝鮮(日本国)・満州(満州国)・華北(中華民国)の3ヵ国2067.5kmを一昼夜半(1940年(昭和15年)10月当時は37時間半)で走破していたが、1944年(昭和19年)1月に戦況の悪化で廃止された。なお、この「大陸」に連結されていた寝台展望車は中国で保存され、現在では日本人の観光ツアー列車などに使われることもある。
  • 「興亜」 1939年(昭和14年)11月に「大陸」の姉妹列車(昼夜逆の時間帯)として設定。しかしながら寝台展望車は連結されなかった。1940年(昭和15年)当時は釜山北京間を39時間半で走破したが、戦況の悪化によって次第に速度は低下した。1945年(昭和20年)1月には同区間に49時間余りを要するまでになったが、それでも敗戦直前まで「興亜」は運行されていたといわれる。

関連項目編集

参考文献編集

  • 貴志俊彦・白山眞理編『京都大学人文科学研究所所蔵 華北交通写真資料集成』全2巻、国書刊行会、2016年11月。
  • 林 采成「日中戦争下の華北交通の設立と戦時輸送の展開」
政治経済学・経済史学会『歴史と経済』第193号 2006年10月 p1~p15

脚注編集

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  1. ^ 旅客営業を行っている路線のみ、昭和20年(1944年)1月25日改正時刻表 財団法人東亜交通公社(現日本交通公社) 昭和19年12月1日発行

外部リンク編集