華頂宮
華頂宮(かちょうのみや)は、慶応4年(1868年)に伏見宮邦家親王の第12王子、博経親王によって創設された宮家。
華頂宮家 | |
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家祖 |
華頂宮博経親王 (伏見宮邦家親王の第12王子) |
種別 | 皇族(宮家) |
出身地 | 山城国 |
主な根拠地 |
山城国 東京府東京市芝区三田台町 (現:東京都港区三田) 神奈川県鎌倉郡鎌倉町 (現:神奈川県鎌倉市浄明寺) |
凡例 / Category:日本の氏族 |
概要編集
3度にわたって断絶の危機に瀕したが、当初は皇族の数が少ないことから特旨をもっての存続が繰り返された。さらにこのことが、当初一代限りとされた4世襲親王家以外の新設宮家の世襲化を進めていくきっかけともなった。しかし皇族の数が安定し、逆に増加しすぎることへの懸念が産まれた結果、養子や兄弟間継承が禁止、さらに傍系の次男以下の皇族への臣籍降下を半ば強制する皇室典範準則の適用などにより、1924年(大正13年)に断絶し、華頂侯爵家が祭祀を承継した。屋敷は現在の東京都港区三田四丁目16番20号に所在した。現在は屋敷跡は児童公園(亀塚公園)となり、一般に開放されている。また、鎌倉市には1929年(昭和4年)に建設された華頂博信侯爵邸がある。1996年(平成8年)に鎌倉市が土地と建物を取得し、通称旧華頂宮邸[1]として庭園部分が一般に公開されている。
歴代当主編集
華頂宮博経親王編集
博経親王は、嘉永4年(1851年)に誕生。孝明天皇の猶子となり親王宣下。知恩院に入寺して落飾し、尊秀入道親王と称した。明治維新後還俗して、知恩院のある山および山号華頂山にちなんで華頂宮の宮号を賜り一家を創設した。議定に任命された事を初めとし、和学校御用掛、弾正尹を歴任する。その後、海軍軍人の道を進路に選び、明治3年(1870年)にアメリカ合衆国のアナポリス海軍兵学校(海軍アカデミー)に留学した。明治6年(1873年)に帰国。明治9年(1876年)海軍少将に任命されるが、26歳の若さで薨去した。
華頂宮博厚親王編集
第2代博厚親王は、明治8年(1875年)誕生。当初の身位は「王」であった。明治元年制定の皇族の範囲を定めた皇族賜姓の成規によれば本来、華頂宮は皇族としては博経親王一代限りで臣籍降下するはずであったが、父・博経親王の皇族としての働きや、博厚王が当時わずか6歳で臣籍降下されることの悲観もあり、他の皇族たちによる存続嘆願もあり、明治天皇の特旨をもって皇族の身分に留まることとなり、さらに明治天皇の猶子として親王宣下を受けた。しかし博厚親王は短命であり、明治16年(1883年)に8歳で薨去した。
華頂宮博恭王編集
第3代博恭王は、伏見宮貞愛親王の第1王子。初名は愛賢(なるかた)。貞愛親王の庶子であり、伏見宮宗家は嫡子がいる場合そちらの継承を優先させたために、当初は宮家の継嗣とならなかった。しかし、博厚親王の夭折と、再度の華頂宮存続願もあり、多くの新設宮家の宗家に当たる伏見宮家から継承者を出すこととなり、華頂宮継承が決定した。しかしその後、伏見宮家を相続する予定だった弟宮邦芳(くにか)王が病弱のため、明治37年(1904年)、第1王子・博義王と共に伏見宮に復帰した。以後、1923年に父・貞愛親王が薨去し、第23代伏見宮となる。その後昭和21年(1946年)に70歳で薨去。
華頂宮博忠王編集
博恭王が伏見宮に復籍し、第1王子・博義王もその継嗣として同時に伏見宮に復籍したことから、明治37年に勅命により華頂宮家には博恭王の第2王子博忠王が入った。博忠王は、海軍兵学校を卒業後、海軍中尉に進んだが、大正13年(1924年)薨去した。博忠王には王子女がなく、華頂宮家は断絶した。
華頂侯爵家編集
華頂家 | |
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家祖 |
伏見宮博信王 (伏見宮博恭王の第 3王子) |
種別 | 華族(侯爵) |
出身地 | 京都 |
主な根拠地 |
山城国 東京都 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
伏見宮博恭王三男(華頂宮博忠王弟)の伏見宮博信王が、大正15年(1926年)12月7日に20歳で海軍少尉の時に臣籍降下し、華頂侯爵家を創設し、同時に華頂宮家の祭祀を承継した。なお、王が「華頂宮5代目」とならなかったのは、皇室典範とその準則により、宮家を皇族としてそのまま継承することが禁じられていたことによるものである。王は、伏見宮家からの初の臣籍降下となることから、慣例により侯爵を賜った。なお、鎌倉市にある華頂侯爵の旧邸は、1996年に鎌倉市が取得し、旧華頂宮邸[1]として庭園部分が一般に公開されている。
脚注編集
- ^ a b 正確には旧華頂侯爵邸だが、一般に旧華頂宮邸と呼ばれ、市でも旧華頂宮邸と称している。鎌倉市都市景観課 旧華頂宮邸のページ