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葛野藩(かずらのはん)は、越前国葛野(現在の福井県丹生郡越前町)に江戸時代中期の短期間存在した。藩庁は葛野陣屋に置かれた。

藩史編集

元禄10年(1697年)3月、紀州藩2代藩主徳川光貞の四男・松平頼方(後の8代将軍徳川吉宗)は14歳で5代将軍徳川綱吉江戸城内にて御目見し、綱吉から越前国丹生郡3万石を与えられ大名に取り立てられた。これが葛野藩である。四品ではあったが無城(陣屋)大名であった。同時に頼方の三兄の松平頼職(後の紀州藩4代藩主徳川頼職)も、同国内に3万石を与えられて高森藩を立藩している。

宝永2年(1705年)6月、頼職が本家である紀州徳川家の家督を継ぐこととなったため、高森藩には代わって遠州浜松藩松平資俊の次男松平宗長が封じられた。その際に宗長に与えられたのは2万石で、残る1万石は葛野藩に加増されて都合4万石となった。しかし頼職も同年10月に死去し、頼方が紀州家の家督を継ぐこととなった。これにより葛野藩は廃藩となった。その後所領は幕府領として一旦収公され、後に頼方改め吉宗の将軍時代に成立した鯖江藩領の一部となった。

藩主である頼方は領地に下ったことはなく、代官が派遣されて統治していた。公称は当初で3万石であったが、実高はそれより少なかったとされる。藩庁の置かれた葛野陣屋には合計14人(高森藩も同数)の家臣が派遣され、彼らの屋敷が立ち並んでいたらしく、現在はほとんど痕跡も残らず都市部とはお世辞にも言い難い場所に「広小路」「長屋」などの地名が残っている。これら役人は当初、紀州藩から派遣されており、高森藩ともども当時は「紀州領」と呼ばれていた。葛野藩の廃藩後も役人は残留し、1720年頃まで幕府領となった葛野を統治していた。陣屋跡は現在は葛野神社となっており、領域の隅に葛野陣屋跡を記念する小さな石碑が建っている。また、同神社には頼方(吉宗)の神像が残っている。

歴代藩主編集

松平(紀州)家

3万石→4万石 親藩御連枝

  1. 頼方