蕭 子範(しょう しはん、486年 - 549年)は、南朝斉皇族は景則。

経歴 編集

斉の豫章王蕭嶷の六男として生まれた。永明10年(492年)、祁陽県侯に封じられ、太子洗馬に任じられた。

天監元年(502年)、が建国されると、子範は子爵に降格された。後軍記室参軍に任じられ、再び太子洗馬となった。まもなく司徒主簿に転じたが、生母が死去したため、辞職して喪に服した。喪が明けると、再び司徒主簿となり、丹陽尹丞・太子中舎人を歴任した。建安郡太守として出向し、建康に召還されて、南平王蕭偉の下で大司馬戸曹属となり、従事中郎をつとめた。蕭偉は文学の士を愛好したため、子範はすこぶる厚遇を受け、「これ宗室の奇才なり」と評された。蕭偉が子範に千字文を作らせると、その言葉がたいへん美しかったため、蕭偉は記室の蔡遠に命じてこれに注釈させた。

中大通5年(533年)、蕭偉が死去すると、子範は宣恵諮議参軍に転じ、臨賀王蕭正徳の下で護軍長史をつとめた。蕭正徳が丹陽尹となると、その下で信威長史となり、丹陽尹丞を兼ねた。ほどなく武陵王蕭紀の下で宣恵司馬となるよう命じられたが、任につかなかった。中散大夫の位を受け、光禄大夫・廷尉卿に転じた。戎昭将軍・始興郡内史として出向した。建康に召還されて、太中大夫に任じられ、秘書監に転じた。

太清3年(549年)、簡文帝が即位すると、子範は召し出されて光禄大夫とされ、金章紫綬を加えられたが、侯景に迫られて任を受けなかった。簡皇后を葬るにあたって、子範は張纘とともに哀策文を作った。ほどなく病のため死去した。享年は64。侯景の乱の鎮圧後、元帝により金紫光禄大夫の位を追贈された。は文といった。

子女 編集

  • 蕭滂(尚書殿中郎・中軍宣城王記室に上ったが、子範に先だって死去した)
  • 蕭確(太清年間に宣城王友・司徒右長史を歴任。侯景の乱の鎮圧後、江陵に赴き、関中で没した)
  • 蕭乾

伝記資料 編集