蕭 愷(しょう がい、506年[1] - 549年)は、南朝梁官僚文人は元才[2]本貫南蘭陵郡蘭陵県

経歴 編集

蕭子顕の子として生まれた。はじめ国子生となり、対策で優秀な成績をおさめた。南徐州により秀才に挙げられた。秘書郎を初任とした。太子中舎人・王府主簿・太子洗馬を歴任した。大同3年(537年)、父が死去したため職を辞して喪に服した。喪が明けると、再び太子洗馬に任じられた。太子中舎人に転じ、東宮の記録を管掌した。宣城王蕭大器の下で文学をつとめた。中書郎・太子家令を歴任した。太子中庶子の謝嘏建安郡太守として出向するとき、皇太子蕭綱が宣猷堂で送別の宴を開いたが、蕭愷はこれに召し出されて詩を賦し、15の劇韻を用いて作られたその詩はたいへん美しいものであった。蕭綱と湘東王蕭繹は蕭愷のことを才子と讃えた。太学博士の顧野王が『玉篇』を編纂したとき、蕭愷は蕭綱の命を受けてその改稿にあたった。太子中庶子に転じ、受けないうちに吏部郎となった。太清2年(548年)、御史中丞に任じられた。侯景が反乱を起こすと、蕭愷は建康城内で侍中に転じた。

太清3年(549年)、在官のまま死去した。享年は44。文集があったが、亡失した。

脚注 編集

  1. ^ 広弘明集』巻20「梁簡文帝法宝連璧序」によると、中大通6年(534年)当時に蕭愷は数え「年二十九」であり、逆算すると506年生まれとなる。
  2. ^ 『広弘明集』巻20「梁簡文帝法宝連璧序」

伝記資料 編集