蕭 正徳繁体字: 蕭 正德、しょう せいとく)は、南朝皇族侯景により皇帝に立てられたが、通常は僭称扱いとされ、梁の皇帝としては扱われていない。

蕭正徳
皇帝
王朝
在位期間 548年11月 - 549年3月
姓・諱 蕭正徳
公和
生年 不詳
没年 太清3年(549年6月
蕭宏
年号 正平 : 548年 - 549年

生涯編集

臨川王蕭宏の三男として生まれた。武帝蕭衍の甥にあたる。はじめ蕭衍に男子がいなかったため、その養子とされ、後継を予定されていた。しかし中興元年(501年9月に蕭衍に長男の蕭統(昭明太子)が生まれ、天監元年(502年)11月に蕭統が立太子されると、蕭正徳は後継から外されて西豊県侯に封じられた。蕭正徳はこれを恨みに思って、謀反心を抱いた。若い頃から礼節を軽んじ、偏狭・凶暴な性格であった蕭正徳は建康で殺人や強盗を繰り返していた。臨賀王に封じられた後もその乱行が収まることはなく、自らの妹中国語版と私通し焼き殺すなど、悪行を繰り返した。同様に乱行を重ねる長男の蕭見理中国語版とともに「市で五匹の虎と会っても臨賀王父子には会いたくない」とまで言われた。諸官を歴任して呉郡太守となった。

普通3年(522年)、蕭正徳は北魏に亡命した。北魏から礼遇を受けられなかったため、翌正光4年(523年)に逃げ帰ったが、武帝からは罪を問われなかった。西豊侯の爵位を戻され、征虜将軍の号を受けた。普通6年(525年)に軽車将軍となり、従弟の豫章王蕭綜に従って北伐したが、軍を棄てて逃走したため、罪に問われて官爵を剥奪され、臨海郡に移された。大通元年(527年)に爵位を戻された。中大通4年(532年)1月、臨賀郡王に封じられた。中大通5年(533年)9月、中護軍となり、後に丹陽尹となった。

太清2年(548年)、侯景が反乱を計画すると、蕭正徳が不満を抱いていると知って、ひそかに仲間に引き入れた。10月、侯景の乱の軍が歴陽まで南進してきたため、武帝は蕭正徳に平北将軍の号を与え、京師の諸軍を都督させ、丹陽郡に駐屯させた。侯景が長江北岸の横江に到達すると、蕭正徳は荻を運ぶと称して舟を動員し、侯景とその兵を南岸の采石に渡させた。なおも蕭正徳が反乱に同心しているとは知らなかった建康の朝廷は、蕭正徳に命じて朱雀航を守らせた。侯景がやってくると、蕭正徳は軍を率いて侯景と合流し、反乱軍を宣陽門に引き入れた。11月、蕭正徳は侯景によって皇帝に擁立され、儀賢堂で即位した。元号を太清から正平元年に改め、蕭見理を太子、娘を侯景の妻とし、侯景を丞相とした。正平2年(549年)3月に建康が陥落すると、蕭正徳は侯景に廃されて元号を太清に戻され、侍中大司馬に降格された。その後、蕭正徳は武帝と接見したが、涙する蕭正徳に対し、武帝は「泣いたところで今更どうにかなろうか」と突き放した。侯景に協力したことを深く後悔した蕭正徳は、従弟の鄱陽王蕭範に密書を出してその兵を引き入れようとしたが、6月に密書を遮った侯景に永福省で殺害された。

伝記資料編集