メインメニューを開く

蕭紀(しょう き、508年 - 553年)は、中国南北朝時代の皇族。世詢。梁の初代皇帝武帝の第8子、第4代皇帝元帝のすぐ下の弟。侯景の乱の最中の一時期に即位して皇帝を自称していたが(552年 - 553年)、通常は僭称扱いとされ、梁の皇帝の代数には入れない。

目次

人物編集

幼い頃から学問に優れ、軽薄なものを嫌っていたといわれる。武陵王に封じられた。

侯景建康を陥とそうとしたとき、湘東王蕭繹(後の元帝)は蕭紀に共闘を呼びかけるが、蕭紀はそれを断り、軍を動かすことはなかった。そして武帝の死後、蕭紀はの地で皇帝即位を宣言する。

即位後、蕭紀は侯景を討つため東征を決意した552年8月に東征を開始した。だが、実は4月の段階で侯景は蕭繹によって滅ぼされていたものの、紀の長男であった蕭円照は策を巡らせて侯景が滅んだことを紀には知らせないようにし、却って蕭繹が侯景に滅ぼされたと嘘の報告をあげたのを紀が信じたためであった。ところが、元帝(蕭繹、11月に即位)の軍勢に阻まれ、更に元帝の要請を受けた尉遅迥率いる西魏軍までが背後の蜀に侵入した。紀は円照を責めたものの、元帝(蕭繹)が既に皇帝として即位していることを知ったこと、更にあらかじめ吐谷渾と西魏攻撃の盟約を結び、楊乾運を迎撃に向かわせていることから、西魏軍の南下までに時間があると判断して目的を江陵の元帝討伐に変更する。だが、吐谷渾は西魏軍に阻まれ、肝心の楊乾運も梁に見切りをつけて西魏軍に降伏してしまったために成都は西魏軍に包囲され、成都へ送った援軍も撃破されたために帰路も経たれてしまい、行き場を失った蕭紀は553年7月11日(『梁書』元帝紀・『資治通鑑』、『梁書』武陵王紀伝では26日)に元帝の軍により捕らわれて息子の蕭円満とともに殺された。戦いの原因を作った蕭円照は弟2人とともに元帝によって江陵の牢獄で餓死させられたが、成都の留守を預かっていたもう1人の息子である蕭円粛は守将の蕭撝とともに西魏軍に降伏(553年8月8日)し、西魏・北周で重用された。

子女編集

編集

  • 蕭円照
  • 蕭円正(西陽王)
  • 蕭円満(竟陵王)
  • 蕭円普(南譙王)
  • 蕭円粛

編集

伝記資料編集

  • 梁書』巻55(列伝第49)

参考文献編集

  • 前島佳孝「西魏の四川進攻と梁の帝位闘争」(初出:中央大学『大学院研究年報』第29号文学研究科篇(2000年)/所収:前島『西魏・北周政権史の研究』(汲古書院、2013年) ISBN 978-4-7629-6009-3