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蕭 紀(しょう き)は、南朝の皇族。侯景の乱の最中の一時期に即位して皇帝を称したが、通常は僭称扱いとされ、梁の皇帝としては扱われていない。

蕭紀
皇帝
王朝
在位期間 552年5月16日 - 553年8月5日
都城 成都
姓・諱 蕭紀
世詢
諡号 貞献王(武陵王として)
生年 天監7年(502年
没年 天正2年7月11日
553年8月5日
武帝
葛修容
年号 天正 : 552年 - 553年

生涯編集

初代皇帝武帝の八男。幼い頃から学問に優れ、軽薄なものを嫌っていたといわれる。武陵王に封じられた。

侯景建康を陥とそうとしたとき、すぐ上の兄の湘東王蕭繹から共闘を呼びかけられたが、蕭紀はそれを断り、軍を動かすことはなかった。そして武帝の死後、蕭紀はの地で皇帝即位を宣言した。

即位後、蕭紀は侯景を討つため天正元年(552年)8月に東征を開始した。4月の段階で侯景は蕭繹によって滅ぼされていたものの、蕭紀の長男であった蕭円照中国語版は策を巡らせて侯景が滅んだことを蕭紀には知らせないようにし、却って蕭繹が侯景に滅ぼされたと嘘の報告を上げたのを信じた。ところが、11月に江陵で即位した蕭繹(元帝)の軍勢に阻まれ、更に蕭繹の要請を受けて尉遅迥率いる西魏軍までが背後の蜀に侵入した。蕭紀は蕭円照を責めたものの、蕭繹が既に皇帝として即位していることを知り、更にあらかじめ吐谷渾と西魏攻撃の盟約を結び、楊乾運を迎撃に向かわせていることから、西魏軍の南下までに時間があると判断して目的を江陵の蕭繹攻撃に変更した。だが、吐谷渾は西魏軍に阻まれ、肝心の楊乾運も梁に見切りをつけて西魏軍に降伏してしまったために成都は西魏軍に包囲され、成都へ送った援軍も撃破されたために帰路も経たれてしまい、行き場を失った蕭紀は553年7月11日(『梁書』元帝紀・『資治通鑑』、『梁書』武陵王紀伝では26日)に蕭繹の軍により捕らわれて三男の蕭円満とともに殺された。戦いの原因を作った蕭円照は弟2人とともに元帝によって江陵の牢獄で餓死させられたが、成都の留守を預かっていたもう1人の子である蕭円粛は守将の蕭撝とともに西魏軍に降伏(553年8月8日)し、西魏・北周で重用された。

子女編集

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  1. 皇太子 蕭円照中国語版
  2. 西陽郡王 蕭円正
  3. 竟陵郡王 蕭円満
  4. 南譙郡王 蕭円普
  5. 宜都郡王 蕭円粛

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伝記資料編集

  • 梁書』巻55(列伝第49)

参考文献編集

  • 前島佳孝、「西魏の四川進攻と梁の帝位闘争」、前島編 『西魏・北周政権史の研究』 汲古書院、2013年。ISBN 978-4-7629-6009-3 (初出:『大学院研究年報 文学研究科篇』第29号、中央大学、2000年。
先代:
廃帝豫章王
皇帝
552年 - 553年
次代:
元帝