蕭 鏗(しょう こう、昇明元年(477年)- 延興元年9月24日[1]494年11月7日))は、南朝斉皇族。宜都王。宣厳。高帝蕭道成の十六男。

経歴 編集

蕭道成と何太妃のあいだの子として生まれた。はじめ游撃将軍の号を受けた。永明元年(483年)、宜都王に封じられた。永明10年(492年)、左民尚書に転じた。永明11年(493年)、持節・都督南豫司二州諸軍事・冠軍将軍・南豫州刺史となり、姑孰に駐屯した。ときに東晋桓温の娘の墓を盗掘した者がおり、蕭鏗が摘発して盗まれた財宝を取り返したが、宝物には一切手をつけず、そのまま墓にもどして修復した。蕭昭業が即位すると、蕭鏗は征虜将軍に進んだ。

延興元年9月乙未(494年11月7日)、宣城公蕭鸞の命により殺害された。享年は18。

脚注 編集

  1. ^ 『南斉書』巻5, 海陵王紀 延興元年九月乙未条による。

伝記資料 編集