薩土密約

小松帯刀寓居跡石碑(京都市上京区)

薩土密約(さっとみつやく)は、江戸時代後期(幕末)の慶応3年5月21日1867年6月23日)に、京都小松帯刀(清廉)邸(京都市上京区)で締結された、薩摩藩土佐藩の実力者の間で交わされた、武力討幕のための軍事同盟である。薩土討幕の密約ともいう。

薩土盟約は土佐藩の公議政体派が大政奉還を通して、温和な手段での同盟を薩摩藩に提起した盟約であり、薩土盟約薩土密約とは性質が全く異なっているため通常は区別されて呼ばれている。

目次

概要編集

慶応3年5月に上洛した土佐藩の乾退助(後の板垣退助)は同月18日、脱藩中の中岡慎太郎の手紙を受けて、京都の料亭「近安楼」で乾と福岡藤次(孝弟)、船越洋之助らと中岡が会見し、武力討幕を密談した。

21日、中岡の仲介により薩摩藩士・小松帯刀邸にて、土佐藩の乾・谷干城毛利恭助・中岡らと、薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)・吉井幸輔(友実)・小松帯刀らが会談し、乾は「戦となれば、藩論の如何に関わらず、必ず土佐藩兵を率いて薩摩藩に合流する」とその決意を語り、薩土討幕の密約(薩土密約)を結んだ。

この討幕の密約は、徳川恩顧の立場から公議政体論・佐幕を模索していた土佐藩前藩主山内容堂の意向に沿うものでは無かったので、有事の際に藩の軍事力を掌握しうる事実上の藩の実力者たちによる、私的な密約として取り交わされた後で藩の承認[1]を得て実行された。

         
小松帯刀(薩摩藩)
中岡慎太郎(土佐藩)
乾退助(土佐藩)

土佐藩の軍制改革に寄与編集

翌22日に、乾は風雲急を告げる時勢を容堂に建白し、27日、薩土密約に基づき大坂でアルミニー銃300挺を購入し、6月2日に土佐に帰国した(入れ違いに大政奉還論を意図した後藤象二郎坂本龍馬が上洛し、22日に薩摩藩と薩土盟約を結ぶ)。

土佐藩は乾を筆頭として軍制改革を行うことを決定し、6月13日に乾は藩の大監察に復職した。同16日、町人袴着用免許以上の者に砲術修行允可の令を布告し、7月17日に銃隊設置の令を発した。同22日に軍制改革を推し進め、旧来の弓隊を廃止して銃隊中心の兵制改革を行った。また同時に、武器の調達を中岡に依頼をしている。8月6日、乾は東西兵学研究と騎兵修行創始の令を布告し、別府彦九郎、小笠原茂連らが江戸より上洛する。同9月25日、坂本龍馬らが長崎より銃器を携えて帰国する。

一方、中岡も乾の武力討幕の決意を書簡にしたためて、土佐勤王党の同志あてに送り、土佐勤王党員らの絶大な支持を得ることになった。反対に、乾は過激な武力討幕論者であった為、公武合体論が主流の上士の中では疎んぜられ、ついには国元で謹慎処分を受けることとなる。

薩土密約を誠実に履行編集

しかるに、鳥羽・伏見の戦いが始まるや、容堂の制止を無視して土佐藩兵は薩土密約に基づき独断で戦闘に参加し、慶応4年(1868年)1月7日、徳川慶喜が「朝敵」として討伐の勅が下るや、翌8日には乾の謹慎が解かれ、迅衝隊の大司令に任ぜられる。しかして13日に土佐を出陣し、高松藩伊予松山藩を帰順せしめ上洛を果たす。京都に到着した乾の率いる迅衝隊は、先の伏見の戦いでの土佐藩士の参戦者と合流し、隊の編成を組み直し、乾が総督を兼任して、戊辰戦争で東征の途につくことになる。この京都出発に合わせて乾は姓を板垣に復した。

評価編集

龍馬が主導し、後藤らが行った薩土盟約は、大政奉還を成し遂げた功があるにせよ、たった2ヶ月半で破断した薩摩藩と土佐藩のうわべ的な同盟であったのに比べ、薩土密約は中岡の主導による西郷と乾の私的な密約ではあったが、戊辰戦争の東征においても、迅衝隊、胡蝶隊などが編成せられ参戦するなど、結果的には「薩土討幕の密約」は藩命よりも遵守され、平夷後も維新政府によって、この伏見での初期参戦が大いに評価され賞典を賜うこととなった。

補注編集

  1. ^ 土佐藩の場合は翌日の5月22日に乾が容堂に報告した。
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関連項目編集

参考文献編集

  • 『中岡慎太郎全集』宮地佐一郎著、勁草書房、1991年6月
  • 『中岡慎太郎 維新の周旋家』宮地佐一郎著、中公新書、1993年8月25日