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薩摩 雄次(さつま ゆうじ、1897年 - 1966年)は、日本の政治家新聞記者衆議院議員福井県おおい町出身。

人物編集

地主・薩摩三蔵の二男。第三高等学校を経て、1922年拓殖大学支那語科を卒業。学生時代から猶存社に出入りし、拓大魂の会を組織した。

1923年から1928年まで大東文化協会幹事となり、同協会の副会長であった政友会代議士小川平吉秘書役を務めた。

国民新聞に入社し、経済部長、主筆論説委員を歴任した。

海軍大将加藤寛治とは親戚であったことから、ロンドン海軍軍縮会議の結果をめぐって表面化した統帥権干犯問題の際に、北一輝らの民間右翼と加藤ら海軍艦隊派とのつなぎ役となる。その後、北の信頼を受けるようになる。

1932年国体擁護連合会の常任委員となる。

1936年二・二六事件の際は、北一輝に事件発生の第一報を電話連絡し、北の指示で加藤寛治を通じての上部工作に当たったが、東京軍法会議で不起訴となる。

1942年第21回衆議院議員総選挙東方会から非推薦で出馬し、福井県でトップ当選を果たす。戦後、1946年第22回衆議院議員総選挙でも日本進歩党から1位当選を果たした[1]が、資格審査に抵触することを恐れて辞退し、同年6月22日に議員を辞職した[2]。その後、公職追放された[3]

追放解除後の1953年の第26回衆議院議員総選挙改進党公認で福井県全県区から立候補して落選[4]、1955年の第27回衆議院議員総選挙日本民主党から立候補し、当選した[5]。その後、自由民主党に所属し、衆議院建設委員会委員長・衆議院災害対策特別委員会委員長などを務めた。

著書編集

単著編集

  • 『支那の生態』(成井書房、1941年)
  • 『ビルマ興亡詩』(岡倉書房、1941年)
  • 『南方の悲歌』(金星堂、1942年)
  • 『欧洲の首都伯林より』(皇国青年教育協会、1942年)

編著編集

  • 辜鴻銘論集』(皇国青年教育協会、1941年)

共訳書編集

脚注編集

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  1. ^ 福井 第22回衆議院議員選挙 ザ・選挙 - JANJAN
  2. ^ 『官報』第5837号、昭和21年7月1日。
  3. ^ 総理庁官房監査課編 『公職追放に関する覚書該当者名簿』 日比谷政経会、1949年、548頁。NDLJP:1276156 
  4. ^ 福井選挙区 第26回衆議院議員選挙 ザ・選挙 - JANJAN
  5. ^ 福井選挙区 第27回衆議院議員選挙 ザ・選挙 - JANJAN