藤原兼輔

日本の公卿・歌人

藤原 兼輔(ふじわら の かねすけ、元慶元年(877年) - 承平3年2月18日933年3月16日))は、平安時代中期の公家歌人藤原北家右中将藤原利基の六男。賀茂川堤に邸宅があったことから堤中納言と号した。小倉百人一首では中納言兼輔三十六歌仙の一人。

 
藤原 兼輔
中納言兼輔(百人一首より)
時代 平安時代前期 – 中期
生誕 元慶元年(877年
死没 承平3年2月18日(933年3月16日
改名 堤中納言
官位 従三位権中納言
主君 醍醐天皇朱雀天皇
氏族 藤原北家良門流
父母 父:藤原利基、母:伴氏
兄弟 世秀兼生忠彦兼茂惟彦兼輔
藤原定方女、他
雅正清正守正庶正公正桑子
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藤原兼輔(狩野尚信『三十六歌仙額』)

経歴 編集

醍醐天皇外戚であったことからその春宮時代より仕える。この頃のちに義父となる醍醐天皇の伯父右大臣に昇る藤原定方も同じく春宮殿上しており、この頃より交流があったか[1]寛平9年(897年)に醍醐天皇が即位すると昇殿を許される。醍醐天皇に非蔵人として仕える傍ら、右衛門少尉を兼ね、延喜2年(902年従五位下叙爵する。

延喜3年(903年)内蔵助に抜擢されるが、この頃より定方の娘の許へ通い始める[2]。のち、内蔵権頭・内蔵頭と20年近くの長きに亘って内蔵寮官人を務める傍ら、左兵衛佐右衛門佐左近衛少将といった武官や五位蔵人を兼任して引き続き天皇の側近として仕える。またこの間、延喜10年(910年)従五位上、延喜15年(915年正五位下、延喜16年(916年従四位下と順調に昇進する。その後も、延喜17年(917年蔵人頭、延喜19年(919年)左近衛権中将を経て、延喜21年(921年)に参議として公卿に列すなど、藤原北家嫡流ではなかったが、外戚であった醍醐天皇や、義父の定方の庇護を得て高官に昇った。延長5年(927年従三位権中納言に至る。

承平3年(933年)2月18日薨去享年57。最終官位は権中納言従三位行右衛門督。

人物 編集

和歌管弦に優れる。従兄弟で妻の父である三条右大臣・藤原定方とともに当時の歌壇の中心的な人物であり、紀貫之凡河内躬恒など多くの歌人が邸宅に集まった。『古今和歌集』(4首)以下の勅撰和歌集に56首が入集[3]。家集に『兼輔集』がある。

みかの原 わきて流るる 泉川 いつ見きとてか 恋しかるらむ —  『新古今和歌集』恋・996、  小倉百人一首・27番 

官歴 編集

公卿補任』による。

系譜 編集

尊卑分脈』による。

雅正の孫に紫式部がいる。

参考文献 編集

  • 工藤重矩「藤原兼輔伝考(一)」『語文研究』30、九州大学国語国文学会、1971年
  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 或いは昌泰3年。
  2. ^ 或いは左兵衛佐
  3. ^ 或いは28日。

出典 編集

  1. ^ 工藤[1971: 21]
  2. ^ 『大和物語』135段
  3. ^ 『勅撰作者部類』

関連項目 編集

  • 堤中納言物語 - 平安時代後期の物語集。題名に堤中納言とあるが、堤中納言(藤原兼輔)本人は登場しない。題名の由来については諸説ある。
軍職
先代
藤原恒佐
右衛門督
931 - 933
次代
藤原実頼