藤原安親
藤原 安親(ふじわら の やすちか)は、平安時代中期の公卿。藤原北家山蔭流、摂津守・藤原中正の三男。一条天皇の大叔父。官位は正三位・参議。
時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 延喜22年(922年) |
死没 | 長徳2年3月5日(996年3月26日) |
官位 | 正三位、参議 |
主君 | 朱雀天皇→村上天皇→冷泉天皇→円融天皇→花山天皇→一条天皇 |
氏族 | 藤原北家山蔭流 |
父母 | 父:藤原中正、母:源友貞の娘 |
兄弟 | 安親、為保、景興、茂秀[1]、時姫、藤原雅材室 |
妻 |
藤原清兼の娘、藤原道明の娘 藤原正倫の娘 |
子 | 為盛、守仁、時清、茂秀、兼清、清通、陳政、季随、成忠、正雅、源時中室、藤原相如室、藤原登朝室 |
経歴
編集朱雀上皇の蔵人を経て天暦7年(953年)に村上天皇の六位蔵人に補され、天徳元年(957年)に36歳で従五位下に叙爵されて、父・中正も歴任した摂津守に任ぜられる。
応和2年(962年)治国の功労により従五位上に叙せられるとともに、大和守として引き続き地方官を務める。安和元年(968年)正五位下・左衛門佐に叙任されて京官に転じる。翌安和2年(969年)安和の変発生後の閏5月に皇太子・守平親王の春宮権大進に任ぜられ、同年9月に守平親王が即位(円融天皇)すると、大進の功労によって従四位下に昇叙された。
円融朝では相模守・伊勢守と再び地方官を歴任する。永観2年(984年)花山天皇の即位に伴って、妹・時姫の孫である懐仁親王が皇太子に立てられると、安親は春宮亮に任ぜられる。寛和元年(985年)従四位上。
寛和2年(986年)寛和の変の結果、花山天皇が退位して懐仁親王は即位(一条天皇)すると、義弟の摂政・藤原兼家の引き立てにより、安親は新帝の外戚として兼家の子息たちに次ぐ昇進を遂げ、同年正四位上・蔵人頭に叙任されると、翌永延元年(987年)に参議に任ぜられ公卿に列した。その後も、永延3年(989年)従三位に昇進し、正暦2年(991年)正三位に至る。
長徳2年(996年)3月5日薨去[2]。享年75。最終官位は参議正三位修理権大夫。
『うつほ物語』研究者の中野幸一は、当物語の作者の人物像と安親の経歴が類似しており、天元元年(978年)の姪の藤原詮子の円融天皇への入内をきっかけに、この作品を著した可能性を指摘している[3]。
官歴
編集『公卿補任』による。
- 天慶8年(945年) 3月:木工少允(陽成院御給。昇殿労)
- 天暦年間:朱雀院蔵人
- 天暦7年(953年) 閏正月4日:内蔵人。9月:主殿権助
- 天暦10年(956年) 正月:式部少丞
- 天暦11年(957年) 正月7日:従五位下(蔵人)。正月27日:摂津守
- 天徳2年(958年) 11月29日:昇殿(村上天皇)
- 応和元年(961年) 10月13日:民部少輔
- 応和2年(962年) 正月7日:従五位上(治国労)。8月28日:大和守。9月16日:昇殿。10月1日:次侍従
- 康保4年(967年) 5月:止昇殿(村上天皇崩御)。11月:東宮昇殿(東宮:守平親王)
- 康保5年(968年) 正月13日:左衛門佐兼検非違使佐。正月15日:昇殿(冷泉天皇)。11月14日:播磨少掾(子息清通譲之)。11月23日:正五位下(大嘗会主基)
- 安和2年(969年) 閏5月21日:春宮権大進。9月23日:従四位下(円融天皇即位。春宮大進労)。10月19日:相模守(治国)
- 天禄3年(972年) 正月24日:伊勢守(受領)
- 天元3年(980年) 正月13日:昇殿(円融天皇)
- 永観2年(984年) 8月27日:春宮亮(春宮:懐仁親王)
- 寛和元年(985年) 日付不詳:昇殿(花山天皇)。12月24日:従四位上(治国)
- 寛和2年(986年) 6月23日:蔵人頭(一条天皇即位)。7月5日:修理権大夫。7月23日:正四位上(越階。春宮亮労)
- 永延元年(987年) 11月11日:参議、修理権大夫如元
- 時期不詳:兼備前権守
- 永延3年(989年) 4月5日:従三位(春日行幸行事賞)
- 正暦2年(991年) 正月7日:正三位(臨時)
- 正暦3年(992年) 正月20日:勅授帯剣
- 正暦4年(993年) 日付不詳:兼備前守
- 長徳2年(996年) 3月5日:薨去(参議正三位修理権大夫)
系譜
編集『尊卑分脈』による。