藤原実兼 (太皇太后宮亮)
藤原 実兼(ふじわら の さねかね)は、平安時代後期の貴族。藤原北家閑院流、権大納言・藤原公実の子。官位は正四位上・刑部卿。
時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 大治5年9月9日(1130年10月12日)[1] |
官位 | 正四位上、刑部卿 |
主君 | 鳥羽天皇 |
氏族 | 藤原北家閑院流 |
父母 | 父:藤原公実、母:藤原永業の娘 |
兄弟 | 実隆、三条実行、実兼、藤原経実室、覚源、西園寺通季、仁実、徳大寺実能、実子、公子、藤原経実室、源有仁室、璋子、季成、済実、藤原家政室 |
妻 | 藤原知綱の娘 |
子 | 成兼、季隆、公覚、顕舜、藤原光隆室 |
経歴
編集太皇太后宮亮のほか天仁元年(1108年)から永久3年(1115年)まで少納言、ついで備後守に任ぜられ、その任期終了後出家したとされる。
他の兄弟が待賢門院の兄として出世する中[2]、公卿に昇進できなかった。角田文衛の説では、待賢門院の女房であった実兼の娘に鳥羽天皇が密通し、それを知った白河法皇が怒って女房を追放したことが原因ではないか、としている。
系譜
編集脚注
編集出典
編集- 角田文衛『待賢門院璋子の生涯―椒庭秘抄』朝日選書、1985年