藤原家隆 (従二位)

日本の公卿・歌人

藤原 家隆(ふじわら の いえたか)は、鎌倉時代初期の公卿歌人有職読みで「かりゅう」とも呼ばれる。初名は顕隆。法名は仏性。壬生二位と号する。中納言藤原兼輔の末裔で、権中納言藤原光隆(猫間中納言)の次男。官位従二位宮内卿。『新古今和歌集』の撰者の一人。小倉百人一首では従二位家隆「風そよぐ 楢の小川の 夕暮は 御禊ぞ夏の しるしなりける」。

 
藤原 家隆
菊池容斎・画、明治時代
時代 鎌倉時代初期
生誕 保元3年(1158年
死没 嘉禎3年4月9日1237年5月5日
改名 顕隆→家隆
別名 仏性(法名)、壬生二位、従二位家隆
墓所 家隆塚(大阪市天王寺区
官位 従二位宮内卿
主君 高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇順徳天皇仲恭天皇後堀河天皇四条天皇
氏族 藤原北家良門流
父母 父:藤原光隆、母:藤原実兼の娘
兄弟 雅隆家隆 ほか
藤原雅隆の娘
隆祐土御門院小宰相 ほか
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経歴 編集

安元元年(1175年)叙爵、安元3年(1177年侍従阿波越中守の地方官を併任し、建久4年(1193年)正月に侍従を辞任、正五位下に昇叙。正治3年(1201年)正月に従四位下元久3年(1206年宮内卿承久3年(1220年)まで宮内卿を務め、辞任ののちに正三位に叙せられた。嘉禎元年(1235年従二位。嘉禎2年12月(1237年1月)病を得て79歳で出家した。出家後は摂津国四天王寺に入り、その西側の地に『夕陽庵』(せきようあん)を設けて浄土教の教えである「日想観」を修し、この地より見える「ちぬの海(大阪湾)」に沈む夕日を好み、その彼方にある極楽浄土へ行くことを望んだ。後世、この地は『夕陽庵』にちなんで夕陽丘と呼ばれるようになった。現在の大阪市天王寺区夕陽丘町5に家隆塚(伝藤原家隆墓)がある。

歌人 編集

 
家隆歌碑「土佐の海に 御船浮かべて 遊ぶらし 都の空は 雪解のどけき」(鳴無神社

和歌藤原俊成に学んだ。寂蓮の婿だったという説もある[1]。歌人としては晩成型であったが、『六百番歌合』『正治二年初度百首』などに参加して、やがて同時代の藤原定家と並び称される歌人として、御子左家と双璧と評価されるに至った。

古今著聞集』によると後鳥羽上皇が和歌を学びはじめたころ、藤原良経(後京極殿)に「和歌を学ぼうと思っているのだが誰を師としたらよいだろうか」と尋ね、良経は家隆を推薦した。院歌壇の中心メンバーであり、後鳥羽院が承久の乱隠岐に流された後も、遠所から題を賜って和歌を送ったりしている。歌風は平明で幽寂な趣きと評価される。また、晩年になってからも作歌意欲はいっこうに衰えず、その多作ぶりは有名で、生涯に詠んだ歌は六万首もあったと言われている。

歌集の『壬二集(みにしゅう)』は六家集の一つ。『千載和歌集』(5首)以下の勅撰和歌集に281首が採録されており、『新勅撰和歌集』には最多の43首が収められている[2]

息子の藤原隆祐と娘の土御門院(承明門院)小宰相も歌人。

系譜 編集

脚注 編集

  1. ^ 『井蛙抄』
  2. ^ 『勅撰作者部類』
  3. ^ 『公卿補任』
  4. ^ 尊卑分脈