藤原明衡

平安時代中期の貴族、儒学者、文人。従四位下・右京大夫。大学頭。文章博士。『本朝文粹(本朝文粋)』編。勅撰集『後拾遺和歌集』に2首入集。『明衡往来』『新猿楽記』
 
藤原明衡
時代 平安時代中期
生誕 永祚元年(989年)?
死没 治暦2年10月18日1066年11月8日
別名 字:耆莱(きらい)・安蘭(あんらん)
官位 従四位下右京大夫
主君 後一条天皇後朱雀天皇後冷泉天皇
氏族 藤原式家
父母 父:藤原敦信
母:良峯氏または橘恒平
平実重娘
敦基敦光明暹
養子:明業(菅原明任子)
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藤原 明衡(ふじわら の あきひら)は、平安時代中期の貴族儒学者文人藤原式家山城守藤原敦信の子。官位従四位下右京大夫

経歴編集

一条朝寛弘元年(1004年大学に入学し、長和3年(1014年文章得業生に補せられるが、儒家の出身でないため対策に合格するのに歳月を要し、後一条朝長元5年(1032年)になってようやく対策に及第して左衛門尉に任命された。対策制度の因習を苦々しく思い、後輩に対策の答えを密かに教え二度にわたり罰せられた事もある。

その後、後冷泉朝にて出雲守式部少輔を務めるが昇進が遅滞し、康平元年(1058年)70歳にして五位に留まる境遇を嘆いている[1]。康平5年(1062年文章博士に任ぜられると、春宮・尊仁親王の東宮学士大学頭を兼ねる等、学者としての官職を歴任し、位階従四位下に至る。後冷泉朝の文人の第一人者として元号皇子の選進を行ったほか、表や願文の制作、作文会での詩作に活躍した[2]

治暦2年(1066年)老いと病気のために致仕し、10月18日卒去享年78。

詩文に秀で、漢詩作品が『本朝続文粋』『本朝無題詩』などに採録されているが、長年の沈淪した境遇を嘆く暗い色調の詩文が多い[3]。平安時代の名文を集めた『本朝文粋』や秀句を集めた『本朝秀句』を編修したほか、当時流行した猿楽と見物の人々を通して当時の風俗を描写した『新猿楽記』や、書簡の模範文例を集めた『明衡往来』等を著している。

官歴編集

系譜編集

尊卑分脈』による。

脚注編集

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  1. ^ a b 『朝日日本歴史人物事典』
  2. ^ 『朝日日本歴史人物事典』
  3. ^ 『日本大百科全書ニッポニカ』
  4. ^ a b 『世界大百科事典』
  5. ^ 『桂林遺芳抄』
  6. ^ 『御産部類記』
  7. ^ 『定家朝臣記』
  8. ^ a b 『続本朝文粋』第6
  9. ^ 『続本朝文粋』第5

参考文献編集