藤原為盛

平安時代中期の貴族。従四位下・越前守

藤原 為盛(ふじわら の ためもり)は、平安時代中期の貴族藤原北家山蔭流、参議藤原安親の子。官位従四位下越前守

 
藤原為盛
時代 平安時代中期
生誕 不詳
死没 長元2年(1029年
官位 従四位下越前
主君 三条天皇後一条天皇
氏族 藤原北家山蔭流
父母 父:藤原安親、母:藤原清兼の娘
兄弟 為盛守仁時清茂秀兼清清通陳政季随成忠正雅源時中室、藤原相如室、藤原登朝
頼成定任親国宗盛清仲清綱勢好源経相
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経歴 編集

一条朝寛弘2年(1005年左大臣藤原道長に馬を2匹献上している[1]六位蔵人を経て、寛弘8年(1011年)までに巡爵により従五位下に叙せられる。長和元年(1012年藤原実頼忌日には五位として入礼[2]。長和2年(1013年)以前に加賀守を務めていた。

その後、三条朝から後一条朝前半にかけて長く散位となる。長元元年(1028年)になって越前守に任ぜられるが、任符を紛失する事件を起こしている[3]。長元2年(1029年)閏2月に越前守が既に卒去したとの記事があり(『小右記』)、この頃没したか。

逸話 編集

為盛が越前守在任中に、本来、六衛府の下級役人に支給すべき大粮米を納めなかったため、下級役人をはじめ、その召使までもが大挙して為盛の屋敷へ押しかけた。そこで為盛は7,8時間もの間、役人たちを天幕の中でうだらせてから屋敷内に呼び入れると、暑い中長時間待たされて喉がカラカラに渇いているところへ、すももや塩辛い魚などをに出して空きっ腹に十分食べさせた上、(下剤の作用がある)朝顔を濃く擂り入れた酸っぱい濁り酒を出して飲ませた。たちまち役人は腹を下して、そこらじゅうへ糞を垂れ流しながら逃げ去ってしまい、これに懲りて為盛の屋敷へ押しかけることはなくなった。このように、為盛は奇抜な工夫をすることにかけては大変な名人であった(『今昔物語集』)[4]

官歴 編集

系譜 編集

伊達氏ら有力武家がその末裔と称した。歌人の加賀少納言も為盛の娘とする説がある[要出典]

脚注 編集

  1. ^ 『御堂関白記』寛弘2年8月14日条
  2. ^ 『小右記』長和元年5月18日条
  3. ^ 『小右記』長元元年7月5日条
  4. ^ 『今昔物語集』巻28第5話「越前守為盛付六衛府官人語」
  5. ^ 『権記』
  6. ^ a b c d 『小右記』
  7. ^ 『尊卑分脈』。但し前田本では従四位上とする
  8. ^ 藤原南家巨勢麻呂流出身
  9. ^ 『左経記』長元4年正月11日条

参考文献 編集