藤原宇比良古

奈良時代の女官。尚侍。正三位。子に藤原真文(-764.10.17、十男、真久、従五位下、真人)-脩範
藤原袁比良から転送)

藤原 宇比良古(ふじわら の おひらこ/うひらこ、生年不詳 - 天平宝字6年6月23日762年7月18日))[1]は、奈良時代女官袁比良袁比良女袁比良売とも記される。藤原北家の祖・贈太政大臣藤原房前の娘。太師藤原仲麻呂の室[1]

生涯 編集

藤原仲麻呂の妻となり、真従真先訓儒麻呂朝狩新田部親王の娘・陽侯女王の子との説もある)・真文児従の生母となった。

天平21年(749年)4月1日、大仏建立の功により、従五位上から正五位下に叙せられる。正倉院中倉献物牌に「藤原朝臣袁比良売献遮那仏」とある[2][3][4]。同年、改元された天平勝宝元年(749年)9月13日、さらに従四位下に叙せられ、天平宝字4年(760年)正月5日、藤原仲麻呂第への孝謙天皇の行幸の際に、従三位から正三位に昇叙される。同年12月の勅により、職掌の重い尚侍尚蔵兼の封戸位田・資人を男性官人と同じく全給にすることにしたのは[5]、仲麻呂の室である宇比良古がその職にあったためと推測できる[6]

以上のように、聖武孝謙淳仁の3代にわたって女官として仲麻呂を支えるが、尚蔵兼尚侍・正三位の時、現役のまま、天平宝字6年(762年)に没してしまう。朝廷は100疋・麻布100端・鉄100挺を贈り弔った[1]。これらの賻物は喪葬令5条「職事官条」によると、正三位は絁22疋、布88端、鉄6連(60廷)のはずであるのだが、最高額の太政大臣を凌駕しており、同年10月に死去した県犬養広刀自同様、同条の別勅賜物の規定により、「別勅で賜う物はこの令には拘わらない」が適用されて賜与されたものと推定される[7]

彼女の死は仲麻呂政権の衰退の原因のひとつとも言われ、宇比良古の死から2年後、仲麻呂の一族は滅亡することになる。

官歴 編集

『続日本紀』による。

脚注 編集

  1. ^ a b c 続日本紀』天平宝字6年6月23日条
  2. ^ 正倉院棚別目録
  3. ^ 正倉院御物銘文集
  4. ^ 正倉院御物の銘識に現われた人々
  5. ^ 『続日本紀』天平宝字4年12月12日条
  6. ^ 吉川弘文館『日本古代氏族人名辞典』
  7. ^ 岩波書店『続日本紀』3、410頁注六

参考文献 編集