藤原誠信
時代 平安時代中期
生誕 康保元年(964年
死没 長保3年9月3日1001年9月27日
改名 松雄君(幼名)→誠信
官位 従三位参議
主君 円融天皇花山天皇一条天皇
氏族 藤原北家九条流
父母 父:藤原為光、母:藤原敦敏の娘
兄弟 誠信斉信藤原義懐室、忯子、長信、尋光、道信公信、寝殿の御方、儼子、穠子、良光、藤原隆家室、安芸守家平室
正室:藤原婉子(藤原兼通の娘)
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藤原 誠信(ふじわら の さねのぶ)は、平安時代中期の公卿藤原北家太政大臣藤原為光の長男。官位従三位参議

経歴編集

天延2年(974年従五位下に叙爵したのち、侍従右衛門佐左近衛少将を歴任する。父・為光の期待は大きく、この間に貞元2年(977年)従五位上、天元4年(981年正五位下と、いずれも為光の譲りにより昇叙される。寛和元年(985年蔵人頭、寛和2年(986年正四位下・右近衛中将に叙任されるが、この昇叙も父・為光の譲りによるものであった。

永延2年(988年)参議に任ぜられ公卿に列するが、これも父・為光が異母兄の摂政藤原兼家に対して涙を流すほどの懇願を重ねてようやく実現したものであり、この時に誠信の任官が叶うなら為光は右大臣職を辞してもよいとまで言ったという[1]。なおこの際に為光が、誠信の競争相手であった小野宮流藤原実資の悪口を兼家に吹聴していたとされ、実資は「自分のほうが蔵人頭として勤務年数が長い(実資:8年、誠信4年)のに誠信が先に参議になるのは道理がない」と憤慨して『小右記』に記している[2]

しかし誠信は長ずるにつれ、政治能力の欠如が明らかになり、有能であった同母弟・斉信に比して人望を失っていった。昇進もはかばかしくなく、参議任官を争った藤原実資を始め、後から参議となった、藤原懐忠藤原道頼藤原伊周平惟仲藤原隆家らが次々と中納言に昇進していく中、誠信は参議正四位下のまま留め置かれた。参議任官後9年経過した長徳3年(997年)にようやく従三位に叙せられるが、長保2年(1000年)には斉信も従三位となって、官位面で肩を並べられてしまう。

この状況の中、長保3年(1001年)に誠信は欠員ができた権中納言への昇進を望み、あらかじめ斉信に対し自分を出し抜いて昇任申請をしないよう言い含めるが、誠信の能力に疑問を抱く藤原道長の後押しを受けた斉信が権中納言に任ぜられた。この経緯を知った誠信は、道長と斉信に騙されたとして深く恨み、憤激・絶食の末に病を得て間もなく没した。その憤怒の有様は握り締めた手の指が手の甲を突き破るほど凄まじいものであったという[3][4]

長保3年(1001年)9月3日薨去享年38。最終官位は参議従三位春宮権大夫左衛門督近江権守

人物編集

幼少時は聡敏で、見聞するもの全て記憶し、7歳で詩集『李嶠百二十詠』を暗誦するほどの優秀さを見せた[5]。父・為光も当時の有名な文人であった源為憲貴族の幼童用の教科書『口遊』の編纂を誠信のために依頼するなど、源順[6]・源為憲およびその門下生[5]から学問の指導を受けた。しかし、誠信の手による漢詩作品は現存しておらず、幼年時の嘱望に相応しい文人としての実績を残すことはできなかったと見られる[7]

酒好きで酒席での失態が多かった。藤原頼通邸で正月の臨時客の宴会が開催された際、誠信は酔いつぶれて座ったまま嘔吐してしまい、巨勢広高が描いた楽府の屏風を汚物で汚したことがあったという[3]

官歴編集

公卿補任』による。

系譜編集

脚注編集

  1. ^ 『小右記』永延2年正月29日条
  2. ^ 『小右記』永延2年2月28日条
  3. ^ a b 『大鏡』第三巻,太政大臣 為光
  4. ^ 『十訓抄』第9
  5. ^ a b 『口遊』序文
  6. ^ 『順集』94番
  7. ^ 福井[1989: 21]

出典編集

  • 福井迪子「藤原斉信の人間像--「小右記」を中心に」『語文研究』66-67号、九州大学国語国文学会、1989年
  • 福井迪子「藤原為光考 その生涯と為光、誠信父子周辺の文人」『源氏物語とその周縁』和泉書院、1989年
  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年