藤原資氏

鎌倉時代の廷臣。正四位下、左中将。

藤原 資氏(ふじわら の すけうじ)は、鎌倉時代の廷臣。正四位下、左中将二条資氏とも。父は権大納言藤原資季公卿に昇進する以前の弘安7年(1284年)に出家し[1]、子の資高が父資季の子として家を継いだ。

 
藤原資氏
時代 鎌倉時代前期 - 中期
生誕 不詳
死没 嘉元4年9月(1306年
別名 二条
官位 正四位下、左中将
主君 後嵯峨天皇後深草天皇亀山天皇後宇多天皇
氏族 藤原北家道綱流楊梅庶流
父母 父:藤原資季、母:官女
平成俊
資高資藤、資世、乗尋、静寛、顕證、女子
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経歴 編集

尊卑分脈』資高の項には「父早世云々」という記述があるが、資高はじめ子も多く、早世ではなく病により父の引退以前に出家したため子の資高を父資季の子とした可能性が高い。

また、『荒涼記』(資季卿記)正元元年(1259年)の記述を見ると、亀山天皇即位時の諸行事において資氏が面目を施した等の記事が見える。よって少なくとも父資季が参議権中納言として活動していた頃には元気であったと考えられる。なお、系譜上、資氏は資季の唯一の子である。

系譜 編集

  • 父:藤原資季(1207-1289)
  • 母:官女
  • 妻:平成俊
  • 生母不明の子女
    • 男子:資世
    • 男子:乗尋
    • 男子:静寛
    • 男子:顕證
    • 女子

脚注 編集

  1. ^ 『尊卑分脈』では弘安7年4月20日に病により出家、とある。

出典 編集

  • 公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編)
  • 尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編)
  • 荒涼記』(資季卿記)(早稲田大学図書館 古典籍総合データベース)