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藤原 雄友(ふじわら の おとも)は、奈良時代末期から平安時代初期にかけての公卿藤原南家右大臣藤原是公の次男[1]官位正三位大納言

経歴編集

延暦2年(783年従五位下美作守に叙任する。延暦4年(785年)従五位上・兵部少輔左衛士権督、延暦5年(786年正五位上・兵部大輔兼左衛士督、延暦6年(787年従四位下と、当時地方官を務めていた10歳以上年長の兄・真友を越えて延暦年間の前半に急速に昇進する。延暦8年(789年)父の右大臣藤原是公が没するが、翌延暦9年(790年)38歳にして参議に任ぜられ公卿に列す。議政官として大蔵卿中衛大将大宰帥と要職を歴任し、延暦17年(798年従三位中納言、延暦23年(804年正三位に至る。

延暦25年(806年平城天皇即位後、4月になって桓武朝で競うように昇進していた藤原北家藤原内麻呂とともに大納言に昇進。内麻呂は従三位であったことから、4月中は桓武天皇崩御の後誄を奉る際に後誄人を率いたり[2]太政官符の上卿となるなど[3]、一時的に雄友は太政官の首班に立つ。早くも5月中旬には藤原内麻呂は右大臣に任ぜられたためにその後塵を拝すことになるが、雄友は太政官の次席の地位にまで至った。しかしながら、翌大同2年(806年)天皇の弟で、雄友の甥(妹・吉子の子)にあたる伊予親王に対して藤原宗成謀反を勧めているという情報を得たことから、雄友は右大臣・藤原内麻呂に報告するが[4]、結局吉子・伊予親王母子は逮捕幽閉され、まもなく自殺してしまう。雄友も伯父として連座し、伊予国への流罪となった(伊予親王の変)。

嵯峨朝に入り、薬子の変発生中の弘仁元年(810年)9月10日に罪を赦されて本位(正三位)に復され、弾正尹に任ぜられる。翌弘仁2年(811年)4月に宮内卿に任官するが、同月23日に薨去享年59。最終官位は宮内卿正三位。即日大納言の官職を贈られた。

人物編集

性格は温和でみだりに喜怒を表に出すことはなかった。また、容姿や振る舞いに見るべきものがあった。発声も清々しくはっきりしており、賀正の儀における宣命の読み上げに際しては、推されて師匠役となったという。[1]

官歴編集

注記のないものは『六国史』による。

系譜編集

尊卑分脈』による。

脚注編集

  1. ^ a b 日本後紀』弘仁2年4月23日条
  2. ^ 『日本後紀』大同元年4月1日条
  3. ^ 『類聚三代格』巻2,「応令十五 大寺毎年安居奉講仁王般若経事」条
  4. ^ 『日本後紀』大同2年10月28日条
  5. ^ a b c d 『尊卑分脈』

参考文献編集