藤戸の戦い
藤戸の戦い(ふじとのたたかい)は、平安時代の末期の寿永3年/元暦元年9月26日(ユリウス暦:1184年10月21日)[1]に備前国児島の藤戸と呼ばれる海峡(現在の岡山県倉敷市藤戸)で源範頼率いる平氏追討軍と、平家の平行盛軍の間で行われた戦い。治承・寿永の乱における戦いの一つ。藤戸合戦、児島合戦とも言う。
藤戸の戦い | |
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![]() 藤戸の戦いで渡海する佐々木盛綱(歌川国芳画) | |
戦争:治承・寿永の乱 | |
年月日:寿永3年/元暦元年12月7日(1185年1月10日) | |
場所:備前国 児島郡(現倉敷市) | |
結果:源氏軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
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指導者・指揮官 | |
源範頼 | 平行盛 |
戦力 | |
30,000余騎(平家物語) | 500余艘(平家物語) 500余騎(吾妻鏡) |


経過 編集
寿永3年2月7日(1184年3月20日)の一ノ谷の戦いで敗れた平氏は西へ逃れた。平氏は瀬戸内方面を経済基盤としており、備前・備中などの豪族も大半が平氏家人であり、瀬戸内海の制海権を握っていた。
寿永3年/元暦元年[1]9月1日 (旧暦)(1184年10月7日)、源範頼率いる平氏追討軍は京を出発して西国へ向かった。海上戦に長けた平氏軍に対し、水軍を持たない追討軍はその確保が課題であった。瀬戸内海の武士団を味方に付けるべく、鎌倉の頼朝は9月19日に平氏から離反したと思われる讃岐国の家人に対して、西国伊予国の武士橘公業に従い、平家討伐のため鎮西に向かうことを命じている。また武蔵国の御家人豊島有経が紀伊国の守護に任じられ、兵士や兵糧の調達にあたった。また梶原景時は10月に淡路国で水軍の調査を行い、石見国の有力武士益田兼高を源氏方に付けるなど軍事・政治両面での工作活動を行っている。
備前国児島に城郭を構えた平行盛軍にたいして、源範頼軍は備前備中国境の藤戸の渡に陣を引いたが、船を平家方に取られたために渡海できなかった。佐々木盛綱は単騎で海岸に出て浦人に浅瀬を尋ねてこれを知った。翌26日朝、佐々木盛綱が浅瀬を渡ると、範頼軍はこれに続い手渡り、これにより行盛軍は敗退し屋島に退却した。範頼軍は更に西進し10月には安芸国に到った。
浅瀬の存在を聞いた盛綱は先陣の功を他人に奪われることを恐れ、教えた若者の漁師を殺害したという(覚一本『平家物語』)。この話を元に室町時代に世阿弥により作られた。
謡曲の内容は以下の通りである。
- 前段:盛綱はこの戦いの功績で児島に所領を与えられた。領地に赴いた盛綱に殺害された若者の老いた母親が恨みを訴える。
- 後段:殺害を後悔した盛綱は若者の法要(管弦講)を営む。法要が行われていた明け方近くに若者の亡霊が現れる。若者は盛綱に祟りを及ぼそうとするが、盛綱の供養に満足し、やがて成仏する。
伝説 編集
佐々木盛綱に殺された若者の母親は、息子を殺した佐々木盛綱に通じる「笹」を山からすべて引き抜いた。以後、この山には笹は生えず、笹無山と呼ぶようになった。
参考文献 編集
- 岡山県高等学校教育研究会社会科部会歴史分科会/編 『新版 岡山県の歴史散歩』 山川出版社 1991年 99-101ページ