蘆沢 信重(あしざわ のぶしげ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。通称は一万、宗六[1]

 
蘆沢信重
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天正5年(ユリウス暦1577年
死没 正保4年(グレゴリオ暦1647年
別名 芦沢信重/葦沢信重/葦澤信重/芦沢伊賀守/芦沢伊賀
官位 伊賀守(受領名)
主君 穴山信君穴山勝千代武田信吉徳川頼宣徳川頼房
常陸水戸藩
氏族 芦澤氏
父母 父:葦澤君次
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徳川家康の五男の武田信吉に仕え、1602年慶長7年)の信吉の転封に従って常陸水戸藩に移る。のち徳川頼宣徳川頼房にも仕え、家老(城代家老)となる。

生涯編集

徳川家康の命により家康の子武田万千代丸を補佐し、その後実父(葦澤君次)と同じ伊賀守を称し、佐野兵左衛門尉とともに勘定方を担当した[2]。だが、1603年(慶長8年)9月に万千代丸が病没すると、万沢君基(主税助)・帯金君松(刑部助)・河方永養(織部)・馬場忠時(八左衛門尉)ら4人の旧穴山氏の家老衆が家中を専断するようになったため、佐野とともに反家老派・奉行衆としてこれに対抗し、ついに家康に訴えてその改易処分に成功した(該当項参照)[2]。家康は蘆沢の功績を称して千石を与えると同時に徳川頼宣の家臣に据え、水戸藩の基礎を担わせた[2][3]

1609年(1602年、1617年、1621年とも)の秋に、小生瀬村(現:大子町小生瀬)で、年貢納入を巡る農民と藩役人の行き違いにより、藩が小生瀬村の住人を皆殺しにする事件が起こった(生瀬騒動)。この時直ちに兵を率いて小生瀬を襲い、村民の皆殺しを断行した奉行が蘆沢伊賀守であるという。ただし、この事件に関する確かな記録もなければ、地元や近郷に残る村方文書にもこれを裏付ける史料も今のところ見当たらない[4][5]

脚注編集

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参考文献編集

  • 『戦国人名辞典』戦国人名辞典編集委員会、吉川弘文館、2006年1月1日、34頁。ISBN 9784642013482