蛇穴山古墳(じゃけつざんこふん)は、群馬県前橋市総社町総社にある古墳。形状は方墳。総社古墳群を構成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている(史跡「総社古墳群」のうち)[1][2]

蛇穴山古墳

墳丘・石室開口部
別名 総社町8号墳
所属 総社古墳群
所在地 群馬県前橋市総社町総社1586-1ほか
位置 北緯36度24分24.55秒 東経139度2分23.45秒 / 北緯36.4068194度 東経139.0398472度 / 36.4068194; 139.0398472座標: 北緯36度24分24.55秒 東経139度2分23.45秒 / 北緯36.4068194度 東経139.0398472度 / 36.4068194; 139.0398472
形状 方墳
規模 一辺44m
高さ5m
埋葬施設 両袖式横穴式石室
築造時期 7世紀後半
史跡 国の史跡「蛇穴山古墳」
(「総社古墳群」に包含)
地図
蛇穴山古墳の位置(群馬県内)
蛇穴山古墳
蛇穴山古墳
テンプレートを表示
総社古墳群分布図

概要 編集

総社古墳群7基[3][4]
支群 古墳名 形状 規模 埋葬施設 築造時期 史跡指定
遠見山古墳 前方後円墳 墳丘長88m 竪穴式石室? 5c後半 国史跡
王山古墳 前方後円墳 墳丘長76m 横穴式石室 6c初頭 市史跡
王河原山古墳? 前方後円墳 (消滅)
二子山古墳 前方後円墳 墳丘長90m 横穴式石室2基 6c後半 国史跡
愛宕山古墳 方墳 一辺56m 横穴式石室 7c前半 国史跡
宝塔山古墳 方墳 一辺66m 複室横穴式石室 7c中葉 国史跡
蛇穴山古墳 方墳 一辺44m 横穴式石室 7c後半 国史跡

群馬県中部、榛名山東南麓・利根川西岸の前橋台地上に築造された大型方墳である。西には宝塔山古墳が隣接する。古墳名は石室奥壁に江戸時代に刻まれた蛇の図があることに由来する。1975年昭和50年)以降に発掘調査が実施されている。

墳形は方形で、主軸は北から東に13度振れ、一辺44メートル・高さ5メートルを測る[3]。墳丘は3段築成と推定され[3]、墳丘外表には葺石が認められる。また墳丘周囲には2重の周濠(周濠・外周溝)が巡らされており、周濠を含めた古墳全体としては一辺82メートルにもおよぶ[3]。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南南西方向に開口する[3]。截石切組積みによって構築された整美な石室で、羨道を欠き玄室・前庭部のみで構成される。玄室の各面は各1枚の切石によって構築され、各石材には精巧な加工技術が認められる。古くから開口したと見られるため、石室内の副葬品は詳らかでない。

築造時期は、古墳時代終末期7世紀後半頃と推定される[3]。総社古墳群では宝塔山古墳に後続し、最後の大型方墳に位置づけられる[4]。総社古墳群のうち愛宕山・宝塔山・蛇穴山の大型方墳3基は、前方後円墳終焉後の上毛野地方において他古墳とは一線を画する規模・内容であるとともに、宝塔山・蛇穴山の2基は総社古墳群の南西に所在する山王廃寺跡との間で石材の加工技術の共通性が認められる[3]。畿内ヤマト王権との強いつながりを背景として、総社地域が古代上毛野地方(上野国)の政治的・文化的中心となり、上野国府・上野国分寺上野国分尼寺の成立を導く過程を考察するうえで重要視される古墳になる[3]

古墳域は1974年(昭和49年)に国の史跡に指定されている[5]

遺跡歴 編集

  • 文和延文年間(1352-1361年)頃、『神道集』巻8 49に「蛇塚の岩屋」の記述:本古墳の可能性(当時には開口か)[3]
  • 寛文年間(1661-1673年)、石室奥壁に蛇の刻図。
  • 元禄2年(1689年)、『伊香保記』に「八郎権現のいわ屋」の記述:本古墳の可能性[3]
  • 天明6年(1786年)、『山吹日記』に記述[3]
  • 1974年昭和49年)12月23日、国の史跡に指定[5]
  • 1975年(昭和50年)、整備事業に伴う発掘調査。方墳と判明(前橋市教育委員会、1976年に概報刊行)。
  • 20072009年度(平成19・21年度)、総社公民館建設に伴う範囲確認調査(前橋市埋蔵文化財発掘調査団、2010年に報告書刊行)[3]
  • 2021年令和3年)10月11日、史跡範囲の追加指定[5][4]
  • 2021年度(令和3年度)、発掘調査(前橋市教育委員会、2023年に報告書刊行)[6]
  • 2024年(令和6年)2月21日、既指定の史跡「二子山古墳」・「宝塔山古墳」・「蛇穴山古墳」に従来未指定であった古墳2基を追加指定して、史跡指定名称を「総社古墳群」に変更。

墳丘 編集

 
墳丘南西隅
2021年度調査25トレンチ。

墳丘の規模は次の通り[3]

  • 古墳全体:一辺82メートル
  • 墳丘:一辺44メートル、高さ5メートル
  • 周濠:平均幅11メートル、深さ1.1-1.9メートル
  • 中堤:上幅約5メートル、下幅約6.5メートル、内側高さ1.2メートル、外側高さ0.5メートル
  • 外周溝:上端幅2.8-3.3メートル(平均3.0メートル)、深さ0.2-0.6メートル

中堤では盛土は確認されておらず、地山の削り出しと見られる[3]。中堤の内外面には葺石が施されており、扁平な礫を横方向に用いて互目積みとする[3]。また周濠は後世に掘削を受けているため、本来の規模は明らかでない[3]。14世紀後半の『神道集』では「蛇食池の中島にある蛇塚の岩屋」と見えるため、当時には池として改変を受けていた可能性が指摘される[3]

なお、西約120メートルには宝塔山古墳が所在するが、宝塔山古墳の兆域と蛇穴山古墳の兆域は距離20メートルと近接しており、両古墳の密接な関係が指摘される[3]。ただし蛇穴山古墳では周濠外側に中堤・外周溝が認められるが、宝塔山古墳では周濠しか認められていない[3]。また墳丘主軸は、宝塔山古墳(北から東に32度)から蛇穴山古墳(北から東に13度)で北への指向性が強まっており、7世紀中葉を境に真北への指向性が強まる上野国府・山王廃寺との関係性が指摘される[3]

埋葬施設 編集

 
石室俯瞰図
左下から右上に、小区画(羨道痕跡か)・玄室。
 
石室展開図

埋葬施設としては両袖式横穴式石室が構築されており、南南西方向に開口する。羨道はなく、玄室の前面に羨道痕跡のような一区画が接続し、その前面に平面台形の前庭部が接続する。石室の規模は次の通り[7]

  • 玄室:長さ3.00メートル、幅2.57メートル(前)・2.61メートル(奥)、高さ1.80メートル
  • 小区画:長さ1.07メートル、幅1.57メートル
  • 前庭部:長さ3.90メートル、幅6.30メートル(前)・2.12メートル(奥)

石室の石材は輝石安山岩の切石で、玄室は両側壁・奥壁・天井・左右玄門・冠石をいずれも各1石(計7枚)によって構築される[7]。左右玄門には門柱が、冠石には冠木・格狭間状構造が刳り出され[8][5]、玄門部の細工は扉石による閉塞構造の存在を示唆する[7]。また石室の表面には軽い水磨きや、漆喰の塗布が認められる。玄室の奥壁付近には牛伏砂岩製の切石が据えられており、棺台と推測される[8]

石材には精巧な加工技術が認められることから、山王廃寺跡の塔心礎との類似性を指摘する説が挙げられている[9]

文化財 編集

国の史跡 編集

  • 蛇穴山古墳(史跡「総社古墳群」のうち)
    1974年(昭和49年)12月23日、「蛇穴山古墳」として指定。
    2021年(令和3年)10月11日に史跡範囲の追加指定[5]
    2024年(令和6年)2月21日、既指定の史跡「二子山古墳」・「宝塔山古墳」・「蛇穴山古墳」に遠見山古墳・愛宕山古墳の2基を追加指定して、史跡指定名称を「総社古墳群」に変更。

現地情報 編集

所在地

交通アクセス

関連施設

  • 前橋市総社歴史資料館(前橋市総社町総社) - 蛇穴山古墳の墳丘模型・石室模型等を展示。

周辺

脚注 編集

参考文献 編集

(記事執筆に使用した文献)

  • 史跡説明板
  • 「東国の雄 総社古墳群」(パンフレット)(前橋市教育委員会事務局文化財保護課、2016年)。 - リンクは前橋市ホームページ。
  • 地方自治体発行
  • 事典類
    • 「蛇穴山古墳」『日本歴史地名大系 10 群馬県の地名』平凡社、1987年。ISBN 4582490107 
    • 松本浩一「蛇穴山古墳」『日本古墳大辞典東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607 
    • 蛇穴山古墳」『国指定史跡ガイド』講談社  - リンクは朝日新聞社「コトバンク」。

関連文献 編集

(記事執筆に使用していない関連文献)

関連項目 編集

外部リンク 編集