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蛟龍 (潜水艦)

日本の特殊潜航艇
蛟竜 (潜水艦)から転送)
呉のドックにて建造途上で放置された状態の蛟龍
1945年10月の撮影
上記写真と同じ位置で4ヶ月後に撮影されたカラー写真
1946年2月の撮影

蛟龍(こうりゅう)は、大日本帝国海軍特殊潜航艇の一種。文献によっては蛟竜とも表記される。開発当初の名称は甲標的丁型であるが、1945年5月28日付で『蛟龍』として兵器に採用された[1][2]

なお大日本帝国陸軍の同名兵器「蛟龍」(昭和17年)は機動艇戦車揚陸艦)の試作型である[3]。 甲表的、蛟龍は大日本帝国海軍の秘密兵器だった為に知る人は少ない。

概要編集

前身の艇 仮称「A標的」編集

昭和6年11月 日本独自の兵器の戦術・兵器の案を艦政本部第一部第ニ課内外より提案が出る。 魚雷を搭載した小型特殊潜航艇を操縦し安全圏内で魚雷発射の発想へ転換が有った。 昭和6年12月 艦政本部第一部第ニ課に第1水雷戦隊旗艦、「川内(せんだい)」艦長岸本鹿子治大佐が着任し朝熊英造 中佐に相談する。 昭和7年6月 模型実験に入る。模型の大きさは12mの艇体に司令塔潜望鏡を取り付け実験が始まるが 魚雷の針路がずれる、魚雷から気泡が大量に出る、潜航艇の後方で大きな気泡が生ずるなどの問題が多発した。 この実験結果を練り直し軍令部に直訴する。 1・人が乗艇し速力30ノット、航続距離32海里(約59㎞)。 2・原動機二次電池。B Y魚雷を考えるも発火不完全の為見送る。 3・高速ディーゼルエンジンは研究不足で見送る。 ・装置する夜間訓練用、魚雷の弾頭用電灯に二次電池の開発。

その後、芝浦製作所電気技師が上手く行けば600馬力の高性能の電気動力源が出来るといい、電池式動力源の研究にはいる。 当時、日本海軍の予算は困窮していたが、二次電池の特殊潜航艇なら一艇15万円程で出来ると聞き軍は研究開発を即断したという。

特殊潜航艇の本部、人事が決まったが超極秘事項であり限られた人数で「対潜爆撃標的」として設計を進めた。 呉海軍工廠魚雷実験部で開発を進めると幾つもの難問が続出し手探りで1つ1つ解決して行く。

昭和8年6月 呉海軍工廠の奥、魚雷実験部機密工廠で水素ガス吸入器装置試験・汚水ポンプ試験・艇を中心により浮力試験、乗組員の乗艇時の浮力、無人海上公式試験等。

昭和8年10月 山口県岩国と甲島で有人海上公式試験に入るも高知県宿毛湾外で外洋試験では艇対が小さく波のうねりを受け大きく揺れる問題は解消出来ず操縦をもって解消する事にする。 「対潜爆撃標的」は機密保持の為「A標的」と呼ばれる。

・第二次試作艇 戦艦空母による艦隊決戦の前に「特殊潜航艇」を集中的に艦隊に使用し魚雷で敵艦隊に打撃を与える構想が有った。 呉海軍工廠に2艇の試作艇を作り有人試験を行う事になった。

・艇内通風試験、短波無線橋上下試験、長時間機密試験、汚水ポンプ試験、重心試験、旋回試験、速力試験等を多岐に渡って試験をする。 「A標的」後の甲標的甲型の母艦「千代田」はA標的を12艇、搭載可能で15分で発信出来るよう要求した。 問題は小型艇の為、外洋では波のうねりで時に司令塔が海面に出てしまい、母艦「千代田」からの発進実験が鍵を握っていた。A標的の母艦は「千代田 (空母)」の他「日進 (水上機母艦)」「千歳 (空母)」で母艦からの発進は母艦の速力が早い程A標的の着水時の衝撃、艇の傾斜が少ない事が分かった。

母艦、伊号大型潜水艦、甲標的の曳航と攻撃。

分かりやすく説明する。 「A標的]」(甲標的)は空母に近い母艦に十数艇搭載し曳航される。 途中で大型潜水艦の伊号に移し替え搭載され敵湾口の数海里より自力航行し魚雷を発射後戻り、魚雷装填し更に攻撃を繰り返す。

命名 「甲標的」編集

昭和15年10月 この特殊潜航艇が正式に採用され「甲標的」と命名される。 しかし、大日本帝国海軍は呉海軍工廠で大和 (戦艦)の建造に全力を注いでいた為、甲標的を建造する力と時間が無かった。 そこで甲標的は、烏小島(現在のアレイからすこじま)の水雷部海軍工廠で試験、製造される事になり20艇が建造され乗組員は練習艇での操縦訓練が始まる。 当初の計画原案は敵艦隊を甲標的の魚雷で殲滅する計画が洋上の波の不安定で「敵軍港奇襲」に切り替えていた。 「山本五十六司令長官」は甲標的の収容と真珠湾に海中に張られている防潜網の潜入が出来るかを調査する事を命じる。 甲標的の母艦「千代田」原田覚艦長岩佐直治中佐と松尾敬宇中佐を呼び相談の上、山本五十六司令長官に報告する。 甲標的は既に夜間訓練も行なっていた。(訓練内容は不明)

昭和16年10月 連合艦隊旗艦戦艦「長門」で海軍司令部壕兵棋演習で甲標的が真珠湾攻撃に参戦する事になる。

甲標的の連続行動日数は5日とされているが、操縦室内に横になるスペースは極僅か。

電池室上部のベニヤ板の上で交互に休憩をとるなど居住性は劣悪であり、乗組員の体力の消耗などから3日程度が限度だった[4]

甲標的甲型編集

昭和17年10月 烏小島が手狭と量産化に伴い呉海軍工廠に近いという立地条件を満たした倉橋島の大浦先基地の新設を行いP基地が作られた。大日本帝国海軍の秘密基地であり、限られた者しか出入り出来ないP基地には、格納庫、吊り上げ場、組立工場、充電場、搭乗員、工員宿舎等が並び、倉橋島南の山には対空用25mm機関銃が設置されていた。また、大浦先の内陸部にはQ基地が新設され、水陸両用戦車特第二式内火艇が配備され、より秘密基地の色が濃くなっていた。

「甲標的甲型」は定員2名、二次電池モータースクリューを回し推進する形式で、そのため速力を上げると二次電池の容量が消耗し、速力と航続距離が非常に限られたものであった。装填する魚雷は当初酸素魚雷である九七式魚雷であったが、生産数が少ないことと専用の製造工場が必要な為に二式魚雷を使う事になった。九七式魚雷より射程が約二千メートル短くなったとといわれている。

甲標的甲型の初陣 真珠湾攻撃編集

1941年(昭和16年)12月8日 真珠湾攻撃に参戦したのが甲標的甲型の初陣である。

「日本潜水艦戦史 」 巡洋潜水艦 伊号第二十二潜水艦に甲標的甲型を搭載する写真が載っている。

  • 伊号第十八潜水艦 甲標的甲型「特型格納筒」「古野繁実艇長」真珠湾口12.6海里より発進。米艦の「アンタレス」を追尾するも米掃海艇「コンドル」に発見され航空機「PBY カタリナ」により発見位置に発煙筒を投下後され、駆逐艦「ワード号」は砲撃を開始し、続けて爆雷攻撃を受け撃沈した。この時に撃沈された艇が古野繁実艇であると推測されている。

日本軍よりアメリカ海軍の「ワード」の方が早く砲撃を開始したとされる。

1960年(昭和36年)真珠湾の南東より引き上げられ日本に返還された。この艇が広尾彰艇長の艇と推測されている。

途中、羅針盤故障するが強行航行する。米駆逐艦「ヘルム」に攻撃され座礁するが、奇跡的に航行するも再度座礁する。時限爆弾にスイッチを入れ乗組員の稲垣清二等兵曹と艇から出るも荒波に飲まれ稲垣清二等兵曹は水死する。酒巻和男艇長は途中溺れ失神し浜に打ち上げられ米兵に発見され日本兵初の米軍捕虜となる。 艇は時限爆弾が作動せず座礁しアメリカ海軍の手によって綿密に調べられる。

「海行かば蚊竜」によれば。驚く事に酒巻艇の甲標的甲型「魚雷の塗装は漆塗りであった事が米軍の資料で分かっている」「魚雷に漆塗りを施した場合にはフジツボや海藻類の付着が無く、海水との摩擦抵抗が少なくなり魚雷が早く航行する事が出来る。」

伊号潜水艦ラナイ島西方海域「第1収容配置点」で待つ。 出撃した甲標的は1艇も戻らず、乗組員10名誰も戻らなかった。

12月9日 指揮官、佐々木半九大佐は収容見込みなしの判断を下す。しかし、伊号第十六潜水艦と伊号第二十二潜水艦は12月11日迄待機するが離れる。 「甲標的と蚊龍(甲標的戦闘議論)」より。

  • 後に山本五十六司令官は真珠湾攻撃で戦死した兵士の生家に足を運び手を合わせ、時には短歌を詠んでいる。

「海行かば蚊竜」によれば。 後に米軍は座礁した酒巻艇の甲標的を徹底的に分解して細部まで記録した。 元乗組員の間では未確認ながら噂としてミッドウェーで日本の暗号が1部解読されていたのは酒巻艇が艇内に暗号書(D暗号・呂暗号)を置き忘れた事が米軍の暗号解読に繋がったとも云われていた。

甲標的乙型 シドニー湾攻撃編集

昭和17年4月27日特殊潜航艇によるシドニー港攻撃 甲標的母艦千代田 (空母)に甲標的乙型4艇は曳航され出航する。 5月17日 甲標的母艦「千代田」より各伊号潜水艦に搭載しトラック島より出撃する。

「海行かば蚊竜」によると。

  • 伊号第二十四潜水艦 甲標的乙型「特型格納筒改一」「八巻悌次艇長・艇付松本静」甲標的乙型「特型格納筒改一」「八巻悌次艇長・艇付松本静」5月19日イ二十四潜水艦は甲標的を搭載し浮上充電中、塩素系の匂いで点検の為に松本艇付きが艇内の照明を付けた瞬間に甲標的が爆発を起こし松本艇付きは海中へ飛ばされ行方不明。八巻艇長は裂傷火傷を負い。イ号24はトラック島へ引き返す。爆発事故を起こした甲標的の替わりに伴勝久艇長・艇付芦辺守」の甲標的を搭載する。

5月31日

  • 伊号第二十二潜水艦 甲標的乙型「特型格納筒改一」「松尾敬宇艇長・艇付都竹正雄」ポート・ジャクソン湾の東7海里より発進。駆潜艇「ヤンドラー」に発見され爆雷6発を受けるもシドニー湾内に侵入する。掃海艇「グーナンビー・ステディアワー」に発見され急行する駆潜艇「ヤンドラー」に爆雷攻撃を受け沈む。6月4日甲標的の松尾艇か湾内から引き揚げされ、艇内にて拳銃自決した松尾敬宇艇長、都竹正雄艇付2名の遺体が見つかる。
  • 伊号第二十四潜水艦 甲標的乙型 「特型格納筒改一」「伴勝久艇長・艇付芦辺守」ポート・ジャクソン湾の南7海里より発進。魚雷1本を重巡艇「シカゴ (CA-29)」に魚雷1本を発射するが外れる岸壁に停泊する「クタバル」に命中し撃沈する。もう1発は不発に終わる。

「海ゆかば 蚊竜」によると「クタバル」は宿泊艦で、甲標的「伴艇長」の魚雷が「クタバル」の船底をかすめる様に岸壁に当たり爆発。爆発の衝撃と岸壁の破片により「クタバル」の船底に穴が空き浸水沈没させクタバルの乗組員が十数名の犠牲が出る。2006年にシドニー湾外で伴艇の甲表的が海底から発見されており艇の検証、豪海軍の記録を照らし合わせると。重巡艇シカゴからの砲撃と機銃掃射に遭い航行不能沈没の可能性が高い。

  • 伊号第二十七潜水艦 甲標的乙型 「特型格納筒改一」「中馬兼四艇長・艇付大森猛」ポート・ジャクソン湾北7海里より発進。防潜網にからまり航行不能になる。巡視艇「ローリアナ」発見され駆潜艇「ヤンドラー」に体当たりされ航行不能になり時限爆弾にスイッチを入れ中馬艇は自爆する。

6月3日 甲標的の捜索を打ち切る。

  • 艇の引き上げと敵日本兵の葬儀。

6月4日甲標的の松尾艇、5日中馬艇が湾内から引揚げられた。艇内から4名の乗組員の遺体も丁寧に回収され、敵日本兵の為にオーストラリア海軍が海軍葬を開催。 艇の性能を綿密に調べ真珠湾で座礁した酒巻艇と比べるが半年で細かく改良されている事が分かる。 後日、遺骨は日本に返還された。この葬儀と遺骨の返還に対し戦後の日豪関係に大きな影響をあたえる。その後、豪海軍は2艇の甲標的を分解し完全に近い甲標的を復元させる。

マダガスカルの戦い編集

ディエゴ・スアレス湾攻撃 マダガスカルの戦い

「海行かば蚊竜」によると。 昭和17年 仏領マダガスカル島の領有を巡り英仏が戦争をしていた。 甲標的甲型「特型格納筒改一」は空圧式操舵から油圧式に改良、水中聴音機(水中マイク)装備、新型防潜網切断機を装備する。 1942年 昭和17年4月30日にマレーシアペナン島から甲標的を搭載した伊号大型潜水艦伊10伊16伊18伊20アフリカ大陸東沖マダガスカル島のイギリス艦隊基地湾ディエゴ・スアレス湾に向かった。 各潜水艦は途中輸送艦より燃料補給を受けるがマダガスカル島を目の前にして悪天候の為、大波を被り第一潜水隊は大きな損傷を受けていた。しかし5月6日大本営海軍部より正確な情報を得ており攻撃目標を絞る。

伊号第十八潜水艦は悪天候で大波を受け機関損傷の為遅れる。 更にディエゴ・スアレス湾の英艦艇の大半が任務に就き湾外に出ていた。 5月29日 伊号第十潜水艦からの偵察機がディエゴ・スアレス湾に停泊する英戦艦ラミリーズ (戦艦・2代)と英タンカーのブリティッシュ・ロイヤルティの2隻を発見する。 日本の偵察機に発見された両艦は移動を開始するが移動開始途中甲標的が発進する。 5月30日 英海軍は近くの飛行場から哨戒機を飛ばすが伊号潜水艦、甲標的は発見出来ず。 伊号第十六潜水艦 甲標的甲型「特型格納筒改一」「岩瀬勝輔艇長・艇付高田高三」ディエゴ・スアレス湾10海里より発進する。

伊号第二十潜水艦 甲標的甲型「特型格納筒改一」「秋枝三郎艇長・艇付竹本己一」はディエゴ・スアレス湾9海里より発進。 甲標的2艇はディエゴ・スアレス湾に張ってある防潜網を突破し英戦艦ラミリーズ、英タンカーのブリティッシュ・ロイヤルティの2隻が甲標的の魚雷を受け英戦艦ラミリーズは大破する。英タンカーのブリティッシュ・ロイヤルティは沈没する。 その後、2艇の甲標的からの信号が途絶え行方不明になる。 6月1日各伊号は水中信号、無線連絡、発光信号、司令潜水より飛行機で捜索し伊10、伊16、伊18、伊20、が横陣形と索敵機で捜索する途中。ラジオでスェーデンのニュースでは英戦艦2隻は日本潜水艦の魚雷を受け沈没。ロンドンのニュースでは日本兵2名は上陸し銃撃戦となり英国兵1人死亡、4名が撃たれ怪我をし2名の日本兵は射殺されるラジオ報道を聴く。 6月3日捜索打ち切る。

上陸後、英軍と交戦は秋枝隊?岩瀬隊?

戦後、甲標的の戦友A氏は近くに仕事で行った折に、著作者B氏が現地を訪れ両者共に日本兵を埋葬したと云う現地人数名を探し出し話を聞いて両者とも同じ様な証言を聞いている。 甲標的の乗組員が2名が5月31日現地のアンタラブイと云う集落近辺に上陸し6月3日アンドラナボンドラニラ集落に現れ現地人が日本兵に水食料を与えた。その後、『イギリス軍の資料ではアンドラナボンドラニラ集落の北で日本軍の会合地点近くペタニタの間で日本兵を発見し降伏勧告を促すが日本兵は拒否し英軍15.6名と交戦する。英国兵1名死亡4名負傷する。』埋葬した現在人の話しでは日本兵の1人は小柄な体格で顔に被弾し即死の状態で血塗れで髭が濃かった。1人は大柄な体格で身体中無数に被弾していたと云う。英軍の命令で現地人数人で埋葬用の穴を掘った。その際に日本兵2人は下着姿のままであり埋葬した。現地人が埋葬先に案内して貰っている。当時は墓碑などはなくケルンが積んで有った。 甲標的で戦友の証言では秋枝艇長と竹本艇付きの体格はほぼ同じ。岩瀬艇長は小柄で髭が濃く高田艇付きは大柄だったと云う。 現地人との証言と甲標的の戦友による話しでは上陸後、「英軍と交戦したのは岩瀬艇長と高田艇付きの可能性が非常に高い。」

更にアンタラブイと云う集落近辺や別の集落では爆発音が5回有ったと話しをする現地民が多いと云う証言である。甲標的からの魚雷が5回の発射と爆発は有り得ない。 仮想、推測であるが英戦艦ラミリーズからの爆雷が有ったとすれば5回の爆発音の辻褄があう。

伊号第二十潜水艦、伊号第十六潜水艦は6月3日夜迄甲標的及び乗組員を捜索し伊号第二十潜水艦はを信号弾を打ち上げ無線で呼び掛けするが断念し現場を離れる。

大破した英戦艦ラミリーズは応急処置をし修理の為ダーバンに向かう。 沈没した英タンカーのブリティッシュ・ロイヤルティは浅い海底だった為に引き揚げられ修理し復旧する。

海戦で甲標的甲型が生還を果たしたのは、昭和17年のガダルカナル島の戦いである。米軍の輸送艦マジャバに魚雷を命中させて大破させ、その後生還を果たしたもので、その後、7艇の甲標的が発進し、米軍の輸送艦と駆逐艦を20隻轟沈させ、4艇が生還を果たしたという。

ガダルカナル島の戦い編集

1943年(昭和17年7月) 日本軍はガダルカナル島の北に飛行場を造り、海軍航空隊の攻撃機を待つ間の(同年8月7日)アメリカ軍のフランク・ジャック・フレッチャー海軍中将空母部隊(フレッチャーは空母と駆逐艦がある)水陸大部隊がガダルカナル島に上陸し日本軍の造った飛行場をアメリカ軍が占拠する。 奪回する日本軍の攻撃隊が4度上陸し攻撃をするが奪回失敗する。

(昭和17年10月7日)ガダルカナル島の戦い。ガダルカナル島のマルボボに甲標的の基地を設置する。 (同年10月15日)甲標的母艦「千代田」はショートランドに入港する。 (同年11月月3日〜7日)

母艦「千代田 (空母)」に移し修理をする。 (同年11月月15日)トラック島を出航。 (同年11月月22日)「甲標的12号艇」エスペランス岬14海里より発進。 (同年12月7日)米輸送艦「アルバチ」の機関室へ魚雷が命中。米駆逐艦477号より爆雷8発投下され以降、行方不明となる。

(同年11月月7日) 「甲標的30号艇」「八巻悌次艇長・艇付橋本亮一」搭載。エスペランス岬8海里より発進するが直後に伊号潜水艦の架台と甲標的の下操舵が接触。取舵一杯で動かず浮上し点検する縦舵が湾曲して修理不可。敵船に発見されバラストタンクの艇内バルブを開け気蓄機バルブを開放し注水沈没処分する。八巻悌次艇長・艇付橋本亮一の2名は「マルボボ」付近に泳ぎつく。

(同年11月月21日) 「甲標的10号艇」「外弘志艇長・艇付井熊晋作」搭載。(同年11月月27日) サボ島北東より発進する。米輸送艦「アルバチ」に左舷に魚雷1本命中するが以降消息不明となる。

「海行かば蚊竜」によると。

(昭和17年11月7日) 「甲標的11号艇」「国弘信治艇長・艇付井上五郎」搭載。 エスペランス岬マルボボ湾4海里より発進、ルンガ沖へ航行。7時、米駆逐艦と遠くに米輸送艦発見し輸送艦攻撃を優先の為、米駆逐艦の艦底を通過し陸岸に接近する。敵輸送艦距離約1,300魚雷(下菅)発射。船首上下し狂いが戻り2本目魚雷発射、一本目雷跡確認。米護衛艦に発見され急速潜航トリム重く145m潜航、爆雷11発の攻撃受けるがわかす。艇回頭中、魚雷命中音聴知する。11時浮上するが敵航空攻撃を受け潜航する航行中砂浜に乗り上げ 艇内より必要な物を陸揚げし「甲標的11号艇」を注水処分し待機配備位置に移動。伊号第二十潜水艦は浮上し待機配備位置に移動2名は収容される。

(昭和17年11月13日) 「甲標的37号艇」「三好芳明艇長・艇付梅田芳一」搭載。エスペランス岬6海里より発進。横操舵一杯で舵が動かず。浮上しエスペランス岬に向かうが敵機接近の為に潜行する。 エスペランス岬まで約150mの地点で浮上し接近し最小限の荷物を艇内より持ち出し。 艇の各ベント弁を開き注水沈没。乗組員はエスペランス岬に上陸。

(昭和17年11月26日) 「甲標的8号艇」搭載。トラック島より出航。 (昭和17年12月2日) サボ島の19海里より発進。 米艦艇に魚雷1本発射命中するがその後座礁するも米駆逐艦「ジュセフジール」の船尾と接触、水上航行に切り替えるもハッチより浸水し沈没。乗組員は「カミボン」に上陸。

御前会議 ガナルカナル島から撤退

(昭和17年12月31日) 宮中大広間にて御前会議を開催し天皇陛下上奏。 1943年(昭和18年2月) 日本軍はガダルカナル島から撤退。日本兵3万の内、生存する日本兵1万が日本へ帰還するが、日本兵2万がガダルカナル島にて命を落す。 ガダルカナル島の撤退から日本軍の進撃が大きく傾く。ガダルカナル島で日本軍の造った飛行場はその後、「ヘンダーソン国際空港」として使われている。

アッツ島玉砕 キスカ島脱出編集

「海行かば蚊竜」によると。 1942年 昭和17年4月 日本軍はアリューシャン群島の要、ダッチハーバーに空襲攻略をしアリューシャン群島の一部を占領する。アッツ島キスカ島は日本軍が制圧し北海守備隊を置いた。 甲標的母艦千代田 (空母)は第二連合特陸の編成に加わり。千代田の艦上には6艇の甲標的と乗組員、整備員、基地員など約50名が乗り込み、6月28日横須賀港を出港し7月5日キスカ島のキスカ港に入る。 櫻井技術大尉の指揮でキスカ湾南に甲標的を架台に乗せレールを敷き甲標的を海岸から引き揚げ充電、補給、魚雷調整、甲標的を船台に乗せ。発電質、魚雷整備場などの甲標的基地の建設を進めるが難航する。甲標的の各隊員は特務隊と呼ばれる。 海中に数個のブイを設置し整備点検の終わった甲標的を接続し敵船の接近に直ぐに出撃出来るようにした。 しかしアリューシャン特有の嵐に見舞われ当初基地設営約1ヶ月の予定が1年以上掛かる。12月?日甲標的甲型の「28号艇」は悪天候の為ロープが切れ漂流座礁、艇体が歪みハッチから海水が侵入沈没し修理不能の為に爆破する。12月頃、アムチトカ島に米軍が進出したらしくキスカ島の甲標的の基地や滑走路などを空爆する事態が増える。 昭和18年2月。伊号第百六十九潜水艦伊号第百七十一潜水艦は甲標的を其々1艇搭載し呉の倉橋島「P基地」から15名の交代要員を乗せた伊号潜水艦が2月15日出港、2月26日キスカ湾に到着するが建設途中で各伊号潜水艦に搭載の甲標的は基地に接岸出来ない状態であった。 甲標的の格納庫は屋根がなく砂を3メートル掘りレールの下は鉄板を敷きその上に枕木を並べレールを敷き架台を乗せ2列に並び、船首を海側にした。しかし強風の為に掘り下げた処が砂で埋まり発電機の故障、ボイラーの故障、揚収架設の不具合など「31号艇」「33号艇」悪天候で波と砂で電気系統損傷。「29号艇」「34号艇」は悪天候と砂にやられ使用不能の状態になる。大発に乗せた5馬力エンジンの吸い上げポンプでレールの上の砂を吸い上げるのが日課となる。ここまでのキスカ島の兵力は海軍航空隊が約1,500名。陸軍が約2,500名である。 3月17日米空軍3機のグラマンによる攻撃機から甲標的の基地に機銃掃射があり特務隊、甲標的八巻艇長が即死する。甲標的も機銃掃射には弱く損傷する。燃料倉庫が爆雷引火し消化する。 4月2.3日米軍の爆撃の為、兵舎2棟、発電機室、ウィンチ室などが損傷する。4月3日午後より悪天候となり「31号艇」は座礁、「33号艇」は艇体の3/2が砂で埋まる。「32号艇」は電池室、計器類が破損使用不可能状態でアメリカ軍と戦う前に自然の猛威に晒されて航行不能になる。 「29号艇」「34号艇」の部品を集め「32号艇」を整備する。除沙作業が吸い上げポンプの性能が弱く砂をが堆積する。 5月10日甲標的「29号艇」「33号艇」の処分命令が降る。5月12日米軍の大部隊約一万千名がアッツ島に上陸する。日本兵、約二千六百名が玉砕する。 5月30日真島少尉以下9名の特務隊と約51名の日本兵が伊号第二十一潜水艦幌筵島(ホロムシロ)へ向かう。その後、防備の強化と魚雷の活用命令が降る。5月30日甲標的全て処分命令が降り地雷誘導装置に魚雷を繋げ1艇は魚雷で処分し残りの艇は起爆薬で処分する。 米軍の爆撃は激しさを増す。潜水艦での日本兵の撤退輸送が計画されるが米軍駆逐艦、パトロール艇の哨戒行動で日本の潜水艦がアクティブ・ソナー、レーダー等で捕捉されていた。イ九31潜水艦、イ34潜水艦、イ21潜水艦は成功したがイ九潜水艦は消息を絶つ。 6月21日イ七潜水艦は浮上した途端に霧の中から米艦モナハンより砲撃を受け航行不能になり座礁する。 6月29日から撤退の準備に入り特務隊は残存魚雷20本に時限装置を付け油圧式ポンプを爆破、建物、貯蔵庫は撤退後約6時間後から12時間後に燃える様に各隊で工夫をする。 7月5日転進(撤退)命令が降りる。 幌筵島には日本の第5艦隊が集結していた。7月10日最後の会議でキスカ島での集合予定日は7月10.11日となる、霧が晴れた為7月13日に変更するが霧がない為諦め解散する。夜間、米艦隊からの艦砲射撃を受ける。7月16日『ケ』号作戦が再開する。7月20日集合地点に集まるが霧が出ていない為、艦隊は来ないと判断し解散する。7月29日この日は濃霧である。霧の中でエンジン音が聞こえる木曾 (軽巡洋艦)を先頭に第5艦隊が続々と入港して来る。各隊員は兵舎へ発火装置に点火を命じられ各部隊は点火した後、怪我人を先に一隻の大発に40名程乗り数隻で順次乗り込む。 特務隊は全員が軽巡洋艦木曾に乗り込む。阿武隈 (軽巡洋艦)司令官:髭の木村昌福少将がキスカ島を封鎖するアメリカ艦隊の隙を狙い霧を利用し7月29日。阿武隈 1,202名、木曾 1,189名、風雲 478名、夕雲 479名、朝雲 476名、薄雲 478名、響 418名、秋雲 463名 合計5,183名の日本兵を乗船させキスカ島から脱出に成功する。7月31日 幌筵島(ホロムシロ)に入港、特務隊は8月3日摩耶 (重巡洋艦)に乗り横須賀に入港。倉橋島の「P基地」に戻ったのは8月10日頃である。

日本兵が全員退却し無人島になったキスカ島にアメリカ軍は激しい艦砲射撃、空漠を続け8月14日アメリカ軍約35,000の大部隊が上陸したが日本兵は1人も居なかった。上陸した米海軍は3艇の甲標的、残存艇を徹底的に調べる。

これが有名な「キスカ島奇跡の撤退」。

甲標的乙型編集

(昭和18年)黒木博司少将は、甲標的の動力源が二次電池の為に航続距離が短い欠点に戦車エンジンを改造し40馬力25Wを甲標的の司令塔下部を従来より約1m船艇を大きくし搭載する。「甲標的乙型53艇」試作艇としたのが「甲標的乙型」である。 甲標的乙型の初回の試験では当初、耐圧試験で水漏れを起こし電気系統が全て駄目になったという。 甲標的乙型の乗組員も2名で、性能試験で良好と認められ追加改善が実施されたが、5艇が改良されただけで乙型の製造はこの5艇のみとなった。

甲標的乙型5艇は、トラック島隊の結成に伴い、二艘の商船によってサイパン経由でラバウルに曳航される事になったが、サイパン島目前に敵潜水艦により撃沈され残ったのは僅か1艇であった。甲標的乙型の母艦「日進 (水上機母艦)に残った一艇を搭載し、ラバウルからブインへ向かったがB17の空爆に遭い日進は撃沈された。

甲標的丙型編集

(昭和19年1月)黒木博司中尉は 「甲標的乙型」の改善点を全て洗い出し試験航行等、色々な試験を繰り返し、甲標的乙型の様に戦車を改造したディーゼルエンジンと違い、丙型用のディーゼルエンジンを搭載し航続距離も飛躍的に性能も改善され艇体直径を僅かに太くし司令塔も僅かに高くなり乗組員も戦闘要員「機関長」を増やし2名から3名になる。「甲標的丙型54号艇」から「甲標的丙型」の量産に入り46艇が造られ、練習艦(艇)も10艇造られた。 フィリピンのセブ島には大規模な日本海軍の滑走路が有るもののアメリカ軍の空襲によって稼働する戦闘機は殆どなく、小規模な海軍第33陸戦隊が置かれていた。母艦千代田 (空母)艦長で甲標的を良く知る原田覚少将艦長を指揮の元、甲標的型8艇と後方支援隊により海軍第33陸戦隊が島の内海に配備された。

(昭和19年3月)黒木博司大尉は休む事なく「甲標的丙型」から「丁型(後の蚊龍)」「回天」「Y標的」にも積極的に取り組み 黒木博司大尉は敵の大型艦空母等を狭い海峡で沈めれば海峡封鎖になる事も考えていた。

ミッドウェー再攻撃 計画 黒木博司大尉は呉の倉橋島でミッドウェー海戦の再攻撃を模索していた。先ず真珠湾口で「Y標的 特殊潜航艇 」の機雷と魚雷で米空母を沈め真珠湾口を沈めた米空母を海上封鎖をする事でミッドウェーを再攻撃すると言うことである。 「甲標的丙型 」を大改造し試作したのが「Y標的」で、真珠湾で潜り米空母が頭上通過するを待ち「Y標的」の機雷を米空母に放した後、体当たり自爆して米空母を殲滅すると言う計画であった。「Y標的」の試作艇を2艇造り水中探信を装備。米船に被探知されにくい様にアスベストで防音材処理。 艇体両横に機雷を2基、合計4基搭載。しかし「Y標的」の振動により機雷の設置音を止める事が出来ず計画が破棄になる。

ミンダナオ島の戦い編集

甲標的丙型 連合軍を襲う

「海行かば蚊竜」によると。 ミンダナオ島の戦いでは連合軍が通過するであろう海峡に甲標的丙型を所々に配置し、第33陸戦隊を連合軍の航路の見張りとした。処々の好条件もあり、甲標的丙型の魚雷攻撃により連合軍の艦船20隻を撃沈するという大きな成果を挙げた。

(昭和19年8月)ダバオフィリピン南部のミンダナオ島

  •  甲標的 丙型「小島光造艇長、艇付き、機関員不明」2隻が配属される。

(昭和19年9月)ミンダナオ島の戦い フィリピン・ミンダナオ島の最西端にある海洋都市ザンボアンガに甲標的丙型を配備する。

  • 甲標的 丙型「78号艇丸山五郎艇長・艇付安藤政治・機関長福田十郎」
  • 甲標的 丙型「79号艇市川博艇長・艇付畑孝太郎・機関長江口光男」

(昭和19年10月) セブ島に配備する。セブ島の東南東に甲標的の基地があり甲標的はレイテ島ボホール島ネグロス島の海域、フィリピン中部、ビサヤ諸島の一部、ミンダナオ島等を哨戒していた。

ビサヤ諸島の戦い

  • 甲標的 丙型「81号艇笹川勉艇長・艇付吉弘元美・機関長瀬川勉一」
  • 甲標的 丙型「82号艇水野相正艇長・艇付村上信二・機関長島富二」
  • 甲標的 丙型「83号艇柏木公弥艇長・艇付都築寿美雄・機関長太田貴美雄」
  • 甲標的 丙型「84号艇松田作一艇長・艇付平松治・機関長吉川末雄一」

(昭和19年11月) 笹川81号艇・水野82号艇・柏木83号艇・松田84号艇其々、カニガオ海峡を哨戒する。 (昭和19年12月) 笹川81号艇・水野82号艇・松田84号艇の3艇はカモテス海(フィリピン中部ビサヤ諸島にある狭い海域。)哨戒及び湾岸偵察をする。 (昭和19年12月8日) 笹川81号艇はオルモック湾レイテ島北西の湾)で魚雷1本発射。命中し米駆逐艦沈没する。 (昭和19年12月) 笹川81号艇・水野82号艇・松田84号艇の3艇はカモテス海にて哨戒及び湾岸偵察をする。 (昭和19年12月8日) 笹川81号艇はオルモック湾で魚雷1本発射。命中し米駆逐艦沈没する。 (昭和19年12月9日) セブ島に甲標的丙型2艇が新たに配備する。

  • 甲標的 丙型「69号艇島良光大・艇付川上鉄男・機関長島山千二」
  • 甲標的 丙型「76号艇渋田清・艇付福田行治・機関長中武厳一」

(昭和19年12月18日) 渋田76号艇、ボホール島沖にて連合軍の輸送艦2隻に魚雷を命中させ2隻撃沈させる。 (昭和19年12月22日) 柏木83号艇はセブ島湾内にて座礁。修理するが使用不能となりバルブを開放し注水沈没処分する。 (昭和20年1月3日) 松田84号艇はミンダナオ海にて連合軍駆逐艦1隻に魚雷を2本命中させ沈没。基地へ帰還し魚雷を装填。連合軍輸送艦2隻撃沈させる。 水野82号艇スリガオ海峡で連合軍 軽巡洋艦「ボイス」に魚雷を発射するが命中ならず其の後、連合軍駆逐艦が甲標的を発見し直衛機より爆弾投下される。連合軍駆逐艦「ティラー」に体当りを敢行され爆雷3発投下され、途中から水野82号艇の通信が途絶え未帰還になる。 島69号艇ミンダナオ海で連合軍駆逐艦に魚雷を発射命中させ1隻撃沈させる。 笹川81号艇ミンダナオ海中型輸送艦に魚雷を発射。命中させ1隻撃沈。松田84号艇大型輸送艦に魚雷命中沈没させる。(昭和20年1月30?日)渋田76号艇座礁の為航行不能になり注水沈没処分する。 (昭和20年2月13日)島69号艇ミンダナオ海にて駆逐艦に魚雷命中沈没させる。 (昭和20年2月21日)松田84号艇ミンダナオ海にて巡洋艦に魚雷命中させ沈没する。(昭和20年3月17日)市川79号艇ミンダナオ海にて大型輸送艦に魚雷命中させ沈没させる。(昭和20年3月21日)松田84号艇はミンダナオ海にて大型輸送艦に魚雷命中させ沈没させる。 (昭和20年3月23日)丸山78号艇はミンダナオ海にて輸送艦に魚雷命中させ沈没させる。(昭和20年3月26日)笹川81号艇タコポンより鈴木司令官を乗せセブ湾に入る。同日、米軍はセブ島に上陸する。 寡戦であり多勢に無勢は軍事力の差があり米軍艦船が増え形成逆転になる前に引き揚げる。セブ島に残った日本兵は終戦まで米軍と戦い続ける。

蚊龍の完成編集

「海ゆかば蛟竜」によると。 『蛟龍 』命名の由来について。 「日本書紀」巻十一[ 仁徳天皇記 ] 蛟(大虬)[ミズチ]は龍(竜)の幼生で水神の化身で成長すると龍に変身すると云い。その姿は小さくともやがて大きな力を持つ。

(昭和20年5月28日) 「甲標的丁型」が「蚊龍」の命名となる。黒木博司大尉の案が多く取り入られ性能は「甲標的丙型」とは比較にならない程、改善され航続距離、51号丁型ディーゼルエンジン「500馬力」、特G型発電機、最大5日の連続航行、5名の乗組員、魚雷発射後先艇の上下動の軽減、昇降式吸気筒、旋回能力、蛟龍の速度不明という条件であるが甲標的甲型の旋回径は空圧式操舵装置を利用して460m、油圧式操舵装置では400mと大きかった。蛟龍の旋回能力は半速で190mとされる[5]。蛟龍の最高速力は18から16kt、ただし現実的な常用速力は6から10ktと見られる。蛟龍の初期型のスクリューは二重反転スクリューである。蛟龍量産型ではシングルに変わっている。シングルに変更された事で騒音は減ったが発進時、加速時にトリムが変わった。水中旋回能力9.5ノットで90m。 母艦の「千歳 (空母)」「千代田 (空母)」は空母に改造されており特殊潜航艇の艇体の大きさには制約が無くなっていた為に甲標的と蛟龍の大きさが大幅に変わった。 同日附で回天海龍も兵器として採用されている[1]

甲標的丙型の航続距離は300海里であったが蛟龍では1,000海里(約1,850㎞)に向上した[6]。蛟龍の長距離進出の例としては、呉の倉橋島のP基地から沖縄の運天まで数百海里の長距離進出を行っている。ただし冬季の荒れた外洋航海には相当な無理があり、機関に損傷を負った[7]。水中での連続行動は10時間程度が限度とみられる[8]

決号作戦(本土決戦)における日本の切り札、すなわち水中の特攻兵器(攻撃手段は体当たりではなく、魚雷発射後に母艦で魚雷を再装填し攻撃を繰り返す)と期待され、呉工廠、舞鶴工廠、横須賀工廠、三菱造船、播磨、日立向島、三井玉野、川崎神戸、新潟鉄工にて月産計80艇が予定された(のち生産工場に三菱神戸・三菱横浜が加えられた)。軍令部からの量産化に伴い各海軍工廠、民間造船所で生産される事になるが構造が複雑の為に造艇が遅れる。戦備計画として1945年4月から6月に110艇、7月から9月に430艇、10月以後1,000艇を揃える製造方針が立案されている[9]

後に海龍回天の増産も行われたことから蛟龍の生産数が抑制された。関東地域での量産優先順位は蛟龍よりも海龍を優先している[10]

量産化に伴い乗組員が増え、倉橋島のP基地では手狭になり島の中程の大迫のQ基地を使う様になる。操舵訓練は大浦港、広湾、猫瀬の瀬戸等では繰り返され、乗組員教の内容は航法モールス信号、操縦操作、機械、潜望鏡での暗号呼称、発電機、充電等。座学では、数学、化学、英語、歴史、国語、現代学、機関(機関銃)火薬学、運用学、航海学、水雷学、砲学、通信(無線)、航空学、機械学、生艦務実習、軍制及諸法規等が休み無しで叩き込まれた。 「海ゆかば 蚊竜」より。

燃料の重油は蚊龍の空きスペースに当てている。 蛟龍の艇内が狭く乗組員1人が移動する毎に艇のトリムが変わり乗組員が少し移動して重りの代わりになる。

乗組員の休憩は蛟龍の艇底が傾斜しており艇底に合わせて電池は配置しており電池室の高さは一定ではないものの、傾斜する電池の上にベニヤ板を敷き一人だけ横になれた。

蛟龍の開発は黒木博司中尉の関与が大きい。彼は1942年(昭和17年)12月から大浦岬P基地に転勤し、以後、甲標的・Y標的・回天および甲標的丁型の個人的な研究を行った。これらの兵器の開発には彼の発案および研究成果が強く関わった[11]。1944年(昭和19年)蛟龍が開発開始された。この時点で甲標的母艦は戦没あるいは空母化され、母艦運用を前提としなくなった。これにより蛟龍は甲標的よりも艇体が大型化されている。黒木中尉のアイデアは甲標的丁型の司令塔形状、司令塔の前部に菊水紋を表しガラス張りの風防、司令塔直ぐ後方には潜望鏡、短波マスト、昇降吸排気筒、起倒無線マスト、後部はバラストタンクベントとディーゼル排気口がある。操縦室内のレイアウト、機関室の配置などにほぼそのまま採用されている。蚊龍の設計上での安全潜航深度100mを超えた(但し圧壊深度不明)とされる。 (昭和20年み9月6日)

黒木博司大尉は山口県の徳山湾口大津島で「回天」の操縦中に樋口大尉と事後に逢い殉職する。

蛟龍は艇首に2基の45cm魚雷発射管を備える。甲標的はガダルカナルの戦いまでは九七式魚雷 を使用し、それ以後は二式魚雷または航空用の九一式魚雷 を使用した。九七式魚雷は雷速50kt、射程5,000mである。二式魚雷、九一式魚雷は雷速39kt、射程3,900mである。炸薬量はいずれも350kg[12]。 魚雷一門の重量が約500kgあり魚雷一門を発射すると船首が上下に振れたが蚊龍の艇体が変更された為に解消された。

元乗組員の証言によれば、蚊龍の練習艇には甲標的甲型。後期に甲標的丙型が使用された。

甲標的の搭乗員が2、3名であったのに対し、蛟龍の乗組員は5名で、操縦室は約畳一枚半のスペースに操舵、計器類、大型のヒルポンプ、羅針盤、配電盤、通信機、九七式特眼鏡(潜望鏡)、天井には多数のバブル機材等が所狭しとあり。前方中心付近は「艇長」、前方左舷寄りは縦舵取りと速度とジャイロコンパス、操舵、保守点検「主艇付」、前方右舷寄りは横舵取取りと魚雷発射と保守点検「副艇付」、右舷は通信員「電機員」暗号電文は通信機、200個のバッテリーの保守点検、スクリュー方向に向き機械員は艇の速度、機関及発電機の保守点検「機関員」が小さな椅子に座り互いに背を向ける様な体勢でり役割が分担になった事で操縦性が向上した。[13]。また蛟龍は基地運用が戦歴のほぼほとんどを占めるが、洋上では輸送用潜水艦であるハ101を母艦とし、洋上で45cm魚雷を補給できる[14]

元乗組員の証言では、艇内に暖房設備は無く深く潜ると艇内の温度が下がり艇内にトイレもなく便器に代わる物を持ち込み用を足していたという。

蚊龍 沖縄防衛編集

「海ゆかば蛟竜」によると。 昭和19年8月末 鶴田隊の甲標的丙型8隻は輸送船で沖縄の那覇港に入港し運天に航行し運天で乗組員、整備員、基地員約150名は基地、兵舎建設を進める。 昭和20年1月28日 花田隊の蚊龍隊は倉橋島より出撃する。「208艇 酒井和夫艇長・艇付遠藤敬一・福原勇治・和田考之・松本績二」「209号艇 大河信義艇長・艇付青柳吉郎・藤井正雄・小坂直行・松下実男」「210号艇 唐司定尚艇長・艇付 柿沼熊雄・長瀬政一・中野守二・相馬明二」が沖縄まで自力航行で発進し3月8日 3隻が沖縄の運天港に入港する。運天港から内陸約1kの処に天底国民学校( 現在、今帰仁村立天底小学校) を改装した第二七魚雷艇隊員に組み込まれる。 鶴田隊の甲標的と蛟龍の基地、兵舎建設を進めるが。米艦上爆撃機が飛来し機銃掃射、爆弾投下にあい基地建設が破壊と建設の繰り返しとなる。日本軍の対空砲火は日々鳴りが減る。 別の場所に蛟龍の基地建設を極秘に進めるも蛟龍の基地が突如爆撃を受け米の諜報機関が入っているとの噂が出る。 3月23日夕方甲標的丙型「渡辺艇」は桟橋で充電中に米爆撃により沈没、乗組員は無事。3月25日富士丸に蛟龍と基地隊員を輸送中、米潜水艦「タイラント」の魚雷を受け沈没し、これまでに5隻が撃沈される。3月25日、司令部より蛟龍「209号大河艇」「210号唐司艇」甲標的丙型「67号河本艇」に慶伊瀬島で散閉待機命令が出る。水深が浅い為、夜間出港する。 3月26日 天号作戦が発令される。 同日、甲標的丙型「67号河本河本猛七郎艇長・艇付日浦正夫・機関 金近他一」が米駆逐艦「ハリガン」に魚雷を2本命中させ沈没させる。蚊龍「208酒井艇」は桟橋に横付け充電中米軍から爆撃を受け沈没するが乗組員は全員助かる。 27日、甲標的丙型「64号佐藤艇」は沖縄本島の東シナ海側残波岬の西にて、米大型掃海艇「サクセス」に魚雷を発射し1本命中するが深度120mで敵艦の水中マイクに備え機関停止、数十発の爆雷を受けるが奇跡的に損傷を免れるが、基地に戻れず夜間浮上し海上充電するが夜間浮上していた為に米潜水艦と誤認、日本陸軍から砲撃されフンドシ姿で司令塔に登り砲撃を辞めさた事は後世でも語り草になる。甲標的丙型「64号艇 佐藤隆秋艇長・艇付長野重義・機関松井成昌」 は残波岬南西で米戦艦に魚雷を2本発射するが外れ逆に猛攻を受け特眼鏡(潜望鏡)など数カ所が被弾しコンパスと時計の針を使い28日に基地に着く。3月30日、丙型「67号河本艇」は出撃するが故障の為、翌日基地に戻る。 31日、丙型「64号佐藤艇」は米軍の空漠を避ける為、岸壁に衝突し沈没する。 丙型「60号艇 艇長川島厳・艇付鎌形勉・機関高久満一」は電気系統故障し丙型「64号艇 佐藤隆秋艇長・艇付長野重義・機関松井成昌」 と衝突し丙型「60号長川島艇」は沈没する。4月5日蛟龍隊は2隻となり丙型「64号佐藤艇」「67号河本艇」は出撃するが魚雷は当たらず6日基地に戻る。 蚊龍隊の何号艇かは不明、敵艦の爆雷をかわす為に深度200m以上潜っる事が出来たと云う。

蛟龍隊 第二七魚雷艇隊共に陸戦隊に

4月6日命令により蛟龍隊は基地施設、残艇の「67号河本艇」「64号佐藤艇」を爆破し乗組員は陸戦に移る。食料兵器をトラックに積み八重岳麓の第二七魚雷艇隊の指揮下に入る。4月7日米軍の自動小銃で指揮官共に12名が戦死、 蛟龍隊の河本が指揮を取る7月13日蛟龍隊の川島は交戦中戦死する。7月17日蛟龍隊の河本指揮官が交戦中戦死し蛟龍隊の酒井が指揮を取る。小学生、中学生編成の護郷隊の力を借りる。地理に詳しく米軍へ遊びに行き情報を持って来る頼もしい子供隊である。大雨の中、米兵舎の床下に爆弾を仕掛け米兵が飛び出した所を機銃掃射を掛け手榴弾を投げるゲリラ戦に出る。7月19日陸戦隊は乙羽岳、7月21日久志岳に移動し5月1日米の迫撃砲を受け、蛟龍隊の酒井以下13名が戦死する。5月末食料、弾薬が減り部隊の維持が困難につき其々れにグループを作り米軍にゲリラ戦を仕掛ける事になる。ある小隊は全滅、ある小隊は陸軍と合流し大発沖永良部島に着き奄美大島の回天隊に配備。生き残った僅かの蛟龍隊は終戦を知らなかった。

奄美大島 蛟龍隊、その他の蚊龍隊編集

「海行かば蚊竜」によると。 3月26日佐世保鎮守府は沖縄に進出する予定を急遽、奄美大島に切り替える。 輸送艦海防艦駆逐艦など6隻と蛟龍4隻を輸送艦に乗せて蛟龍隊の乗組員、基地員、整備員約30数名。3月31日佐世保を出港する。途中米哨戒機に発見され進路を変えるが夜間に戻す。夜間に米夜間戦闘機の攻撃を受ける。輸送艦1隻は中破、銃撃を受け数人の戦死者が出る。蛟龍隊は被害無し4月2日奄美大島の西、加計呂麻島の三浦基地に着く。翌朝から毎日、米戦闘機の攻撃を受け輸送艦と海防艦が沈没し別の輸送艦も大破に伴い蛟龍も2隻が米戦闘機の攻撃を受ける。 6月蛟龍1隻が米戦闘機の攻撃を受け使用不能になり1隻の蛟龍を守り8月の終戦を迎える。

甲標的、蚊龍機動部隊はインドネシアのハルマへラ島、小笠原諸島の父島、マニラ、高雄、小豆島、佐伯湾、長崎の橘湾(たちばな)、舞鶴、倉橋島等にも配備されているものの甲標的、蚊龍は秘密兵器であり機密事項の為に資料は極めて少ない。

地下工場 蚊龍の製造編集

昭和20年5月 蛟龍は本土決戦の主戦力に指定された為、蛟龍の生産を第一優先としたが米軍の空爆により計画が大きく狂い、P基地では物資の不足、蛟龍の機構の複雑さ等で計画の半分以下しか完成出来ず、呉の倉橋島のP基地近辺と大麗女島地下に5本のトンネルを掘り地下で繋ぎ工員100名体制で蛟龍の建造が行われた。更に地下工場を拡張し呉海軍工廠「造船部麗女島工場」と命名された。 ここでは40艇程の蛟龍が完成していたとされる。ここでは終戦まで製造を続けた。

戦後の蚊龍編集

蚊龍の製造は主に、呉海軍工廠と三井玉野造船廠である。生産艇数は把握出来ないものの蚊龍には1艇1艇、番号がある。「A標的]」「甲標的」も含まれている。1番新しい番号記録では801号艇である。これには、製造途中に米軍B29の空爆で大破した艇や部品取りになった艇も含まれる。

甲標的から蚊龍への改良編集

「海行かば蚊竜」によると。 僅かな年数ながら細かな改良が多数ある。

  • Y標的「特殊潜航艇の試作艇」
  • 甲標的甲型「初期型」
  • 甲標的甲型「防潜網を破る為の工夫が魚雷発射管、司令塔、スクリューが防潜網を絡めない工夫等がある」
  • 甲標的甲型「特型格納筒」
  • 甲標的甲型「特型格納筒改一」
  • 甲標的乙型「特型格納筒改一」「防潜網を破る為のノコギリ状の物が船首、司令塔に施してある。水中マイク装備」
  • 甲標的丙型「乗組員が2名から3名」
  • 試作 Y標的「丙型改造 ミッドウェー再攻撃用」(2艇のみ)
  • 蚊龍 「初期型 甲標的丁型」
  • 蚊龍「量産型」
  • 蚊龍「蚊龍改一」(計画段階で終戦。)

現存する甲標的と蚊龍編集

  • Y標的
不明
  • 甲標的甲型
艇体は広島県呉市江田島の海上保安資料館に野外展示。真珠湾攻撃で座礁した酒巻艇。艇内操縦室は同じく広島県呉市の大和ミュージアム館内に展示。
  • 甲標的乙型
オーストラリアキャンベラ戦争記念館
  • 甲標的丙型
グアム島グアム太平洋戦争国立歴史公園ビジターセンター
  • 蚊龍
不明

構造編集

蛟龍の船殻構造は、甲標的と同様に艇体を前部・中部・後部セクションに分割し、フランジ部分でボルト結合している。艦は前方から魚雷発射管を納めた区画、前部電池室、操縦室、機関室、後部電池室、艇尾の電動機や縦横舵の装備区画で構成される。艇体本体は円筒形で、この上部に3区画のメインタンクを設けた[15]。全長は26.25m。直径は2.04m。艇の塗色は焦茶色である。艇体を暗緑色、上部構造を艶消し黒色で塗る組み合わせも少数見られた。司令塔正面に菊水マーク、艇体前後に喫水マークを記入した[16]

最前部に、二式魚雷を装填した45cm魚雷発射管2基を縦に装備、この発射管の後方左右に操舵用気畜器を備える。発射機の前部左右は第一燃料タンクになっている。気畜器の下部に発射用気畜器が置かれた。また前部トリミングタンクが発射機の下部に置かれた[17]。隔壁を介してこの後方は前部電池室になっている。

前部電池室はわずかな上部スペースが通路となっており、側壁と中央部ラック内に特H型蓄電池が密に配置されている。蛟龍の搭載した電池の総数は200個。内部には水素ガス検知器、排気用電動送風機、伝声管、排気管が装備され、電池室の床面にはコンクリートが充填された[18]。側壁の余剰空間を利用し第二燃料タンクが設けられている[19]

電池取出口と気密扉の設けられた隔壁を介し、後方に操縦室が配された。内部には5名分の席が設けられている。操縦室前方左側に主艇付席、右側に副艇付席、その後方中央に艇長席がある。艇長の前には司令塔へ登るための踏台が置かれている。艇長の後方左側に電気員席、右側に機械電信員席が設けられた[20]。床面は補助タンク・応急タンクになっている[21]。搭乗員が横になれるようなスペースはなく、内部壁面には各種装置が装着されている。主艇付席の前には九七式転輪羅針儀が備えられ、隔壁に150mまでの深度計と左右傾斜計がつけられていた。副艇付席の前には隔壁に60m深度計と耐圧震度計が装備されている。電気員席左の壁には発電機管制盤、灯火開閉器と後群原動配電盤が設けられた。機械電信員席の前には横舵操舵油圧等筒が置かれた。ほか酸素ビンとビルジポンプが装備された[22]。操縦室上方には風防が特徴的な司令塔が設けられている。この楕円形状の司令塔にはハッチ、九七式特眼鏡改二、昇降式吸気筒、無線マストが装備された[23]

第二気密扉と覗き窓のついた操縦室後端隔壁を介し、機関室が設けられている。機関室前部中央には潤滑油タンクと150馬力の五一号丁型内燃機関、これの後方に特G型発電機が接続されている。床面には第三燃料タンクが置かれた。エンジンの左側にパラジウムを触媒とした水素ガス吸収器、発電機の左には主電動機界磁調整器が置かれた[24]。発電機により蛟龍は自己充電が可能で、所要時間は9時間だった[25]

気密扉の付いた隔壁を介して後部電池室が設けられている。後部電池室も前部電池室と同様のレイアウトとなっているが、前部に冷媒圧縮機が装備された。床面には4番燃料タンク、後部トリミングタンクが置かれている[26]。また蛟龍にはフレオン・ガスを用いた小型の冷房装置が搭載されている[27]

電池室後方は艇尾であり、ここに機密扉付きの隔壁を介して500馬力モーターと減速機、潤滑油冷却用循環ポンプが配置された。減速機床面には潤滑油タンクが置かれている[28]。丁型には直流600馬力電動機が搭載されたものの、電池数の制約から出力は500馬力にとどまったともされる[29]。資料により最大速度は18ktまたは16ktとされる[30][31]。艇最後尾には縦舵と横舵が配置され、蛟龍量産型の場合にはこの後ろに1.6m径のシングルプロペラが置かれた。蛟龍初期型は甲標的と同様、プロペラが二重反転式である。シングルプロペラから生じるトルクの吸収のため、左右の横ヒレを飛行機の補助翼のように上下逆に動かし、傾斜を防いだ。ただし低速では効果が少なかった[32]

戦歴編集

蛟龍の実戦参加は僅かである。1945年3月8日、甲標的丁型二〇九、二一〇号艇が輸送船で曳航されて沖縄に進出した。また二〇四、二〇七、二〇八号艇が自力で進出を試みた。荒天により航海は困難であり、二〇四、二〇七艇は口之永良部島で衝突座礁した。この2艇は引き返したともされる。1945年3月10日、エンジンに焼き付きを生じながらも二〇八号艇のみ沖縄に進出した。3月25日20時から24時、二〇九、二一〇号艇は他の甲標的丙型と共に出撃、3月26日に2艇とも未帰還となった。この戦闘では甲標的丙型六七号艇が駆逐艦ハリガンを撃沈した。アメリカ側ではこの喪失を機雷によるものと判定している。また3月26日18時頃から24時にかけ、二〇八号艇に出撃命令が下りたが、故障により出撃不能のところを空襲され、撃沈された[33][34]

大戦末期、蛟龍は日本本土の各基地に配備され、訓練を行いつつ本土決戦に向けて待機していた。昭和20年7月末の状況では、呉鎮守府に48隻、佐世保鎮守府に4隻、舞鶴鎮守府に3隻、大島防備隊に1隻、ほか連合艦隊の第十特攻戦隊に18隻が所属したがこの部隊は8月5日に呉鎮守府麾下突撃隊へ編入された[35]

「新海軍」での再採用案編集

敗戦後、吉田英三らが構想した「新海軍」では、旧海軍艦艇ないしその準同型艦の再建造が幾つも企てられているが、蛟龍もその中に含まれていた。準特攻兵器のイメージが強い「特殊潜航艇」という艦種名を避け、「局地防備艇」という艦種名を新たに与え、「蛟龍隊」を60隻10隊整備する計画であった[36]

派生型編集

  • 蛟龍初期型:艇の上部に設けられたメインタンク及び浮力タンクの天井部分が、艇首に向かってなだらかに曲線を描いて下がっているのが外形上の特徴である。初期型が何隻完成されたかは不明である。また甲標的の二重反転プロペラを引き継いで装備している[37]
  • 蛟龍量産型:艇上部のメインタンク・浮力タンクの天井部分が水平となり、艇首波切り部分が高くなっている。また推進器が二重反転式からシングルプロペラに替わって採用された[38]
  • 蛟龍改一:計画案に終わった速度向上型である。電池を8個増設、後部電池室と発電機室の位置を前後逆に配置、ディーゼル航行が可能なディーゼル・エレクトリック方式に改良した。また司令塔の向きを反転し、無線マストと吸気筒の位置も変更が加えられた[39]

諸元編集

データは以下による[40][41]

  • 全長:26.25m
  • 全幅:2.04m
  • 深さ:3.81m
  • 全没排水量:59.3t
  • 耐圧深度:100m
  • 最大速度:水上8kt、水中18kt(16ktとする文献あり)
  • 水中航続距離:16kt(10.6海里)、2.5kt(125海里)
  • 水上航続距離:8kt(1000海里、1850km)
  • 旋回径:最微速、3ktで150m。半速12~9.5ktで190m
  • 兵装:45cm魚雷発射管×2、二式魚雷×2
  • エンジン:五一号丁型内燃機関、150馬力、重量1500kg
  • 発電機:特G型直流発電機、発電量75~100kW、重量1380kg
  • 電動機:半閉自己通風型他励複巻、直流600馬力、重量2160kg
  • 蓄電池:特H型、200個
  • 乗員:5名
  • 連続行動日数:5日、ただし実際には3日が限度とされる

脚注編集

  1. ^ a b 昭和17年8月10日.昭和20年7月13日 内令及び海軍公報(軍極秘)/昭和20年6月/昭和20年6月1日(金)海軍公報 第一四二號(甲配付) p.1』 アジア歴史資料センター Ref.C12070204800 『内令兵第二五號(軍極秘) 回天、海龍及蛟龍ヲ兵器ニ採用ス 昭和二十年五月二十八日 海軍大臣』
  2. ^ 本令では「何ヲ何ト命名ス」あるいは「何ヲ何ト稱シ」とは記されていない。
  3. ^ 昭和17年「密大日記」第8冊/試製蛟龍(SS艇)試験研究実施に関する件』 アジア歴史資料センター Ref.C01004973900 p.2『試製蛟龍(SS艇)試験研究實施計畫 陸軍運輸部』
  4. ^ 『甲標的と蛟龍』97頁
  5. ^ 『甲標的と蛟龍』43頁
  6. ^ 中村『本当の特殊潜航艇の戦い』24、27頁
  7. ^ 中村『本当の特殊潜航艇の戦い』27、177頁
  8. ^ 中村『本当の特殊潜航艇の戦い』26頁
  9. ^ 『甲標的と蛟龍』67頁
  10. ^ 『甲標的と蛟龍』101頁
  11. ^ 『甲標的と蛟龍』92、97頁
  12. ^ 中村『本当の特殊潜航艇の戦い』33頁
  13. ^ 中村『本当の特殊潜航艇の戦い』47頁
  14. ^ 木俣『潜水艦入門』280頁
  15. ^ 『甲標的と蛟龍』72、97頁
  16. ^ 『甲標的と蛟龍』43頁
  17. ^ 『甲標的と蛟龍』122頁
  18. ^ 『甲標的と蛟龍』130頁
  19. ^ 『甲標的と蛟龍』122頁
  20. ^ 『甲標的と蛟龍』134頁
  21. ^ 『甲標的と蛟龍』134頁
  22. ^ 『甲標的と蛟龍』134頁
  23. ^ 『甲標的と蛟龍』122頁
  24. ^ 『甲標的と蛟龍』131頁
  25. ^ 『甲標的と蛟龍』81、97頁
  26. ^ 『甲標的と蛟龍』130頁
  27. ^ 木俣『幻の秘密兵器』45、46頁
  28. ^ 『甲標的と蛟龍』129頁
  29. ^ 『甲標的と蛟龍』99頁
  30. ^ 『甲標的と蛟龍』98頁
  31. ^ 中村『本当の特殊潜航艇の戦い』20頁
  32. ^ 『甲標的と蛟龍』98頁
  33. ^ 『甲標的と蛟龍』97、180、181頁
  34. ^ 中村『本当の特殊潜航艇の戦い』175-177頁
  35. ^ 中村『本当の特殊潜航艇の戦い』202-206頁
  36. ^ 海上自衛隊海上幕僚監部所蔵『旧海軍残務処理機関における軍備再建に関する研究資料』記載の編成表による。
  37. ^ 『甲標的と蛟龍』101-102頁
  38. ^ 『甲標的と蛟龍』101-102頁
  39. ^ 『甲標的と蛟龍』101-102頁
  40. ^ 『甲標的と蛟龍』43頁
  41. ^ 中村『本当の特殊潜航艇の戦い』20、21頁

参考文献編集

  • 『歴史群像 太平洋戦史シリーズ35 甲標的と蛟龍』学習研究社、2002年。ISBN 4-05-602741-2
  • 中村秀樹『本当の特殊潜航艇の戦い』光人社(光人社NF文庫)、2007年。ISBN 978-4-7698-2533-3
  • 木俣滋郎『潜水艦入門』光人社(光人社NF文庫)、1998年。ISBN 4-7698-2199-9
  • 木俣滋郎『幻の秘密兵器』光人社(光人社NF文庫)、2004年。ISBN 4-7698-2204-9
  • 甲飛第十四期 蚊龍隊 関東甲信越の会。「海行かば蛟竜」宮川千明 聞き書き。
  • 嗚呼 特殊潜航艇
  • 歴史群像 2019年 10 月号 [雑誌]

関連項目編集

外部リンク編集