蝉丸(せみまる)は、の演目のひとつ。盲目の皇子「蝉丸」が山に捨てられ、哀しみの中で琵琶を弾いていると、狂人となった姉が現れ、二人の身の不幸を嘆き合う話。因果応報や姉弟の情、与えられた運命に従う悲しくも美しい姿を名文句で謳い上げる[1]。高貴な姿から一変する様子や、二人が掛け合いで別れを惜しみ合う場面など、涙を誘うドラマティックな演出が見どころ。四番目物五番立てと呼ばれる正式な演能の際に四番目に上演される曲で、亡霊などが主役になるもの)、狂乱物と呼ばれるジャンルの一作。世阿弥の作と言われる。

あらすじ 編集

醍醐天皇(延喜帝)は、盲目の第四皇子・蝉丸を逢坂山に捨て、出家させよと臣下の藤原清貫に命じる。清貫は嘆くが、蝉丸は、わが身の後世を思えばこその帝のお考えであろうと承諾する。清貫の手により蝉丸は髪を落とし、蓑、笠、杖を受け取り、ひとり山に残る。源博雅が様子を見に訪れ、蝉丸の住まいにと藁屋を用意する。

一方、天皇の第三子であり、蝉丸の姉である逆髪(さかがみ)は、生まれつき逆立った髪をもち、その苦悩から狂人となり、浮浪者となっていた。ある日、山の藁屋から琵琶の音が聞こえ、訪ねてみると、それは弟の蝉丸であった。二人は我が身の不幸な境遇を語り合い、慰め合う。しかし、それぞれ授けられた運命に従い、涙ながらに再び別れの時を迎える。[2][3]

登場人物 編集

  • 逆髪 - シテ (耳の横の鬢を長くのばしたり、黒頭をつけることで髪の異常を表す[4])
  • 蝉丸 - ツレ(盲人の面をつける)
  • 臣下 - ワキ

上演自粛問題 編集

能として演じられるだけでなく、古歌を織り交ぜた名句の数々や[5]、クライマックスの哀しい掛け合いなどが人気を集め、としてもよく演じられ、一般人の趣味としても広く親しまれたが、戦火が忍び寄る昭和初期になると、『大原御幸』などとともに、「天皇の扱いが史実に反し、不敬に当たる」との声が菊池武夫率いる愛国団体「日本精神協会」から挙がり、上演を自粛する演者が現れ(内務省からの要請もあったと見られている)、1947年(昭和22年)まで演じられなかった[6]

夢野久作は、不敬の声が挙がり始めたのと同時期の1935年(昭和10年)に発表した『ドグラ・マグラ』の中で、『蝉丸』に登場する帝の子捨てについて「お物語りは勿体ないが。斯様な浮世のせつない慣わし。切羽詰まった秘密の処分は。古今東西いずくを問わない。金の有る無し身分の上下。是非と道理を問わないものだよ」と、「キチガイ地獄外道祭文」の一節として詠んでいる[7]

派生 編集

脚注 編集

  1. ^ 『評釈国文史』五十嵐力著 (博文館, 1919)
  2. ^ 演目事典・蝉丸The能.com
  3. ^ 『謡曲二百番謡ひ鑑』井上頼圀, 近藤正一著 (博文館, 1914)
  4. ^ 「演能レポート 『蝉丸』について」、粟谷明生、粟谷能の会、平成19年3月
  5. ^ 『謡曲新釈』豊田八十代 著 (広文堂書店, 1918)
  6. ^ 礫川全次 (2012年11月14日). “誰も「戦中」を覚えていない(能「蝉丸」の上演自粛)”. 礫川全次のコラムと名言. 2014年7月20日閲覧。
  7. ^ 『ドグラ・マグラ』夢野久作青空文庫

関連項目 編集

外部リンク 編集