衛子夫

前漢の武帝の皇后

衛 子夫(えい しふ)は、前漢武帝皇后。子夫はは不明。母はであった衛媼(えいおん)。息子に劉拠(戾太子)。姉は衛君孺[1]衛少児霍去病の母)、弟には大将軍となった衛青がいる。衛青の父親が下級官吏の鄭季(ていき)とされており、衛子夫の父親も鄭季とする説がある。

衛皇后
前漢の皇后
在位 元朔元年3月10日 - 征和2年7月17日
前128年4月27日 - 前91年9月7日

全名 衛子夫(字)
別称 思皇后(諡号)
死去 征和2年7月17日
前91年9月7日
配偶者 武帝
子女 富利公主
陽石公主
諸邑公主
劉拠
母親 衛媼
兄弟 衛青
姉妹 衛君孺衛少児
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略歴 編集

元は武帝の姉である平陽公主中国語版家の歌妓だった。武帝は平陽公主の家を訪問した時、歌妓の子夫に一目惚れし、更衣室で関係をもった。これをきっかけに、平陽公主は子夫を献上する。平陽公主は彼女の肩をたたいて「後宮に入ったらちゃんとご飯を食べて、もしある日高位に上ったら、今日の推薦のご恩を忘れないで」と言ったという。

しかし後宮に入ると、皇帝に召されたことは一度も無かった。1年後、武帝は余分な宮人を解放しようとした。子夫も泣きながら出宮を願い出た。武帝は彼女を哀れみ、再び関係をもち、妊娠した。武帝はまだ世継ぎがいなかったので、その妊娠を喜んだ。それから武帝の寵愛は深く、三人の皇女を相次いで出産した。前128年に待望の皇子である拠を産んだ後、夫人から皇后に昇格する。弟の衛青と甥の霍去病も重用される。当時の俚諺にこう言われた「男児が生まれたら喜ぶな。女児が生まれたら怒るな。衛子夫が天下を牛耳ることを見たか?」と。

しかしその後、武帝の寵愛は王夫人・李夫人・尹婕妤・趙婕妤に移った。親族であり重臣でもある衛青と霍去病も死去して有力な後援を失い。巫蠱の禍で罪に問われて自殺を強いられた上、皇后の位を廃された。

のち、曾孫である宣帝によって皇后の位を回復され、思皇后諡号を贈られた。これは中国史上、皇后が自身の諡号を持つ最初の例となった。

登場作品 編集

テレビドラマ

脚注 編集

  1. ^ 「皇帝たちの中国」岡田英弘 著 ISBN 4-562-03148-4