衛氏朝鮮
朝鮮
箕子朝鮮 紀元前195年? - 紀元前108年 漢四郡
衛氏朝鮮の位置
紀元前108年頃の北東アジア
首都 王険城[1]
朝鮮王(ただし前漢からの呼称)
紀元前195 - 紀元前2世紀 初代・衛満
紀元前2世紀 - 紀元前2世紀第2代(氏名不詳)
紀元前2世紀 - 紀元前108第3代・衛右渠
変遷
不明 xxxx年xx月xx日

衛氏朝鮮(えいしちょうせん 紀元前195年? - 紀元前108年)は、その実在について論争のない[引用 1][引用 2]朝鮮半島の最初の国家である。中国に出自をもつ[注釈 1]中国人亡命者である衛満(『史記』及び『漢書』には名のみ「満」と記す。姓を「衛」と記すのは2世紀頃に書かれた王符の『潜夫論』以降)が今の朝鮮半島北部に建国した。

衛氏朝鮮
朝鮮語表記
ハングル 위만조선
朝鮮の漢字 衛滿朝鮮
日本語読み: えいまんちょうせん
片仮名転写: ウィマンジョソン
ラテン文字転写: RR:Wiman Joseon
MR:Wiman Chosŏn
中国語表記
繁体字 衛滿朝鮮
簡体字 卫满朝鲜
ピンイン Wèimǎn Cháoxiǎn
英語表記
アルファベット Wiman Joseon
朝鮮歷史
朝鮮の歴史
考古学 櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC
無文土器時代 1500 BC-300 BC
伝説 檀君朝鮮
史前 箕子朝鮮
辰国 衛氏朝鮮
原三国 辰韓 弁韓 漢四郡
馬韓 帯方郡 楽浪郡

三国 伽耶
42-
562
百済
前18-660
高句麗
前37-668
新羅
前57-
南北国 熊津安東都護府
統一新羅
鶏林州都督府
676-892
安東
都護府
668-756
渤海
698
-926
後三国 新羅
-935

百済

892
-936
後高句麗
901
-918
女真
統一
王朝
高麗 918-
遼陽行省
東寧双城耽羅
元朝
高麗 1356-1392
李氏朝鮮 1392-1897
大韓帝国 1897-1910
近代 日本統治時代の朝鮮 1910-1945
現代 連合軍軍政期 1945-1948
アメリカ占領区 ソビエト占領区
北朝鮮人民委員会
大韓民国
1948-
朝鮮民主主義
人民共和国

1948-
Portal:朝鮮
満洲の歴史
箕子朝鮮 東胡 濊貊
沃沮
粛慎
遼西郡 遼東郡
遼西郡 遼東郡
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遼東郡 高句麗
玄菟郡
昌黎郡 公孫度
遼東郡
玄菟郡
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慕容部 宇文部
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前秦 平州
後燕 平州
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北斉 営州
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中華人民共和国
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Portal:中国

体制編集

国名編集

「衛氏朝鮮」という名は後世、箕子朝鮮李氏朝鮮と区別するための便宜上の名である。『史記』は単に「朝鮮」とよぶが、この名も当時すでに国名が不明になっていたので司馬遷が地名を借りて表現したまでで、彼らが自称した国名ではない。

編集

衛満は燕の貴族の出自である可能性が高く、燕太子丹の成員の一員あるいは遼東地方の有力な豪族であり、遼東で敗れた燕太子丹の軍隊住民を引き継ぎ、在地的豪族に発展した[2]。三代続いたというが二代目の王の名は不明である。初代の衛満も最後の衛右渠も、「衛」という姓は後世になってからの情報で、『史記』には単に「満」「右渠」としかない。衛氏朝鮮の他の貴族たちの場合は姓名がはっきりしているので、これらは名ではなく官職名とも考えられる。『史記』の年表では右渠の息子の長(衛長降)を「張路」としており、これが正しければ王家の姓は衛氏ではなく張氏だったことになる。[要出典]

国制編集

衛氏朝鮮の国制は、前漢の制度を元にしてある程度整っていたらしく、朝鮮王のもとに「稗王」「太子」がおり、「大夫」「大臣」「」「将軍」が合議して国家運営にあたり、「博士」なども任命された[3]。「相」の中には「朝鮮相」と「尼谿相」がいたので他の「相」も「○○相」の略称と思われる。合議メンバー4人組の朝鮮相路人、朝鮮相韓陰、尼谿相、将軍王唊の4人の素性から、路人と韓陰は「朝鮮相」で、王唊は朝鮮の将軍であり、政治軍事を分担していた[4]。韓陰と王唊は、の姓氏から、中国からの亡命者、或いは中国からの亡命者ゆかりの人物であり、路人も中国からの亡命者或いは中国からの亡命者ゆかりの人物だった[4]。参は、1人だけ姓氏を持たず、「朝鮮相」ではなく、在地の根拠地の尼谿の「相」であり、衛氏朝鮮はこれら含みながら、緩やかに連携した連合国家だった[4]

言語編集

漢代揚雄の『方言』では、北燕朝鮮を一つの方言圏として記述しており、これを北燕方言と呼ぶことができる。初期の衛氏朝鮮はこの北燕方言を使用していた[5]

沿革編集

前史編集

朝鮮半島では、中国から朝鮮半島西岸を経由して日本列島へ到る交易路沿いに、華僑商人の寄港地が都市へと成長していく現象がみられた[6]紀元前334年の段階ではすでに「朝鮮」(朝鮮半島北部)を領有[注釈 2] していた。紀元前284年は自国内に郡制を設け、上谷から遼東までを5郡とし、東胡侵入を防ぐためその北に東西二千里の長城を築いたが、『史記』によれば、この頃(の全盛期)、朝鮮は燕の配下に入った(朝鮮と真番(朝鮮半島南部)を「略属」〈従属国化〉させ、要地にはを築き官吏を駐在させた)。また、中国商人権益を保護していた[7]。燕の支配者層は武装して朝鮮と真番に移住し、要地に軍事要塞を築き、周辺の村々を支配した。このような軍事的定住地・軍事的集落のことを「鄣塞」と呼ぶ[8]代(燕がに滅ぼされて後)は秦の属領となり、燕の時代に築かれた朝鮮・真番の砦は二つだけ残して廃されたが、遼東郡の保護下にあった[9]。秦が燕を滅ぼすと、遼東の地は郡と県に分割されたが、燕の植民地である朝鮮と真番は、郡や県外の「徼外」に属し、中国皇帝政権の「外臣」として存在する[8]。秦末(紀元前209年)、陳勝・呉広の乱をきっかけに中国本土が争乱状態となり[注釈 3]、燕国は韓広を王として再び独立を成し遂げた[注釈 4]紀元前206年、秦が滅ぶと、天下の覇権を握った項羽によって臧荼が燕王に立てられ韓広は遼東王に左遷された。ここで燕は遼河を挟んで東西二つの国に分かれたことになる[注釈 5]。その年の内に臧荼は韓広を攻め遼東を併合して燕全体の王となった[注釈 6]

建国編集

史記』によれば、前漢高祖の時代の紀元前202年、燕王臧荼は反乱を起こして処刑され、代わって盧綰を燕王に封じたが、紀元前197年に盧綰が漢に背いて匈奴に亡命すると、劉建を形式的な燕王に封じたが実態は遼東郡を含む燕の旧領を直轄化した。その際、身の危険が迫った燕人の衛満は身なりを現地風にかえて浿水(浿水は議論があり、武田幸男鴨緑江としている[10]。一方、中国の研究者の通説では、浿水は清川江である[8])を渡河、千人余りの徒党と共に朝鮮に亡命した[10]。さっそく衛満は、我ら亡命者が朝鮮を護ると箕子朝鮮王準王にとりいり、朝鮮西部に亡命者コロニーを造った[10]の混乱期以来、この亡命者コロニーに逃げこんだ中国人は数万人にのぼっていた[3]。さらに衛満はからの亡命者を誘いいれ、亡命者コロニーの指導者となり、朝鮮を乗っ取る機会を虎視眈々とうかがい、ある時、衛満は芝居をうった[3]前漢が攻めてきたと詐称して、準王を護るという口実で、王都に乗りこんだのである[3]。その時、準王は衛満に応戦したが、『魏略』は、「準は満と戦ったが、勝負にならなかった」と戦況を記した。芝居が現実となり、昨日の亡命者は、今日の朝鮮王となる。それは、亡命してから朝鮮王になるまで1年内外の出来事である[3]。衛満は、中国人(燕・の亡命者)と原住民の連合政権を樹立、王険城(平壌)を首都として王位に就き、衛満朝鮮を建国した[11]。『三国志』『魏略』及び『後漢書』によると、前漢建国当時の朝鮮は箕子の子孫が代々朝鮮侯として治めていた(→箕子朝鮮)が[引用 3]、後に朝鮮王を僭称するようになり、箕準の代に至り亡命者衛満の手により王権を奪われ箕準は残兵を率いて南方の馬韓の地を攻略しそこで韓王となった。

全盛編集

漢の遼東大守は皇帝の裁可を得てこの政権を承認したため、衛満は自分の支配地域と漢との交易を独占することになり、財物と兵器を蓄えて強大化した。その勢力圏は平安北道を除く朝鮮半島のほぼ全域と中国東北地方を含み、数千里四方に及んだ[注釈 7]

滅亡編集

3伝して孫の衛右渠に至る。前漢武帝は、右渠が一度も呼び出しに応じない、周辺諸国を規制していることを詰問したが[4]、それでも右渠は漢の意に従わなかったため、紀元前109年から紀元前108年にかけて漢の衛氏朝鮮遠征が行われた。武田は、前漢が朝鮮に遠征したのは匈奴を牽制するためとしており、前漢が衛氏朝鮮を滅ぼしたとき、これを「匈奴の左を断った」と評している[10]杉山正明は、漢が衛氏朝鮮を征服した理由として、衛氏朝鮮が漢より匈奴の支配下にあり、その傍証として匈奴の「左賢王」「右賢王」用語が5世紀の百済においてもなお使用されている事実を挙げている[12]

漢が朝鮮へ侵攻してくると、合議メンバーの朝鮮相路人、朝鮮相韓陰、尼谿相、将軍王唊の4人うち亡命者或いは亡命者ゆかりの人物の路人韓陰王唊は右渠を残したまま降伏した[13]だけは抗戦するが、翌年衛右渠を刺客に殺させ、降伏した。右渠の死後も大臣らが抗戦していたが、前漢は、すでに降伏していた右渠の子の衛長降と路人の子のを差し向け、大臣を殺して降伏させた[13]。こうして衛氏朝鮮は滅亡して、故地には楽浪郡真番郡臨屯郡玄菟郡漢四郡が置かれ漢の領土となった。『史記』朝鮮伝は、「遂に朝鮮を定め、四郡と為す」と記した[13]。『史記』孝武本紀には、「朝鮮を伐つ」とある[4]

韓国・北朝鮮での捉え方編集

論点編集

伝統的な朝鮮の史学では中国人起源の衛氏朝鮮は重視されなかった。李氏朝鮮実学者である安鼎福朝鮮語版は『東史綱目朝鮮語版』において、檀君正統性箕子へと、馬韓へと、統一新羅へと、高麗王朝へとつなげており、漢人が侵入して建国した衛氏朝鮮および漢四郡朝鮮の歴史の正統性から除外し[14]、衛氏朝鮮は漢人亡命者が王統を簒奪した「簒賊者の支配した国家」と非難した[15]

かつては、衛氏朝鮮は中国人植民者が支配する植民地政権と考えられていた[16]。これに対して朝鮮民族主義歴史学を確立した申采浩は、「中国の燕王の部下衛満」の支配した衛氏朝鮮と続く漢四郡による支配について、漢人の支配が古朝鮮に及んでいたとしても、それは古朝鮮の広大な国土のごく一部を支配したに過ぎないと主張した[15][17]

金哲埈朝鮮語: 김철준ソウル大学)は、衛満は「殷人の末裔」としている[18][19]

尹乃鉉朝鮮語版朝鮮語: 윤내현檀国大学)は、著書『韓国古代史新論』で箕子朝鮮の存在を認め、箕子中国中原に起源をもつと主張しているが、尹乃鉉朝鮮語版の見解によれば、箕子朝鮮と衛氏朝鮮はいずれも漢人が建てた政権であり、衛氏朝鮮の位置と版図は箕子朝鮮とほぼ同じであり、どちらも灤河の東岸である[20]。また、尹乃鉉朝鮮語版は、衛氏朝鮮は中国人が建国した中国勢力であるから、朝鮮の歴史から除外すればよい、と主張している[19][21][22]

現代の韓国北朝鮮ナショナリストは、朝鮮の歴史における最初の国家が、中国)人である衛満によって建国された中国系の国家であるとすれば、朝鮮の歴史が中国の支配から始まったことになるため都合が悪く、衛満は古朝鮮に亡命する際にを結い(髷結)、野蛮人服装(蛮夷服)を着用していたこと、『史記』に「朝鮮王満」とあり、名のみ「満」と記し、が記されていないことなどを根拠にして、衛満はもともとは古朝鮮出身でに移住して、で暮らしていた「朝鮮人」と「捏造」している[23]。これらの見解が提出されるのは、日本の植民地時代に日本の研究者が衛満を漢人とみて、朝鮮の歴史は中国の植民地から始まったと規定したことへの反発の側面がある[24]

『三国志』は「夷服」と記述しているが[注釈 8]、『史記』は「蛮夷服」と記述しており[注釈 9]、「蛮」と「」を両方使用している。この「夷服」や「蛮夷服」をすべて「野蛮人の服」と解釈し、さらに「古朝鮮の服」と再解釈している[25]。これは「夷」を「東夷」と同一視し、東夷とは即ち韓民族のことであるという認識によるものとみられ、「髷を結い、野蛮人の服を着た」という記事を「髷を結い、古朝鮮の服を着た」と拡大解釈し、衛満は古朝鮮系の人物としている[25]。また、「夷」「蛮夷」は『魏書』では「」と変わり登場する[注釈 10]

李丙燾朝鮮語版は、衛満が朝鮮に亡命してくる際に、髷を結って蛮夷の服を着たこと及び国号を朝鮮としたことを根拠にして、衛満は古朝鮮が燕の侵略により遼東半島を奪われた際、その地域に留まり、燕に吸収された古朝鮮系の人物であると推測した[26]

韓国民族文化大百科事典は、「衛満は朝鮮に入国する際に、『髷を結い、朝鮮服を着た(魋結蠻夷服)』と描写されており、国号をそのまま朝鮮としたことから朝鮮人系の子孫と思われる」と述べている[27]

김용만は、「かつて日本人は、衛満が中国移民だと思って、衛氏朝鮮を中国の植民地政権といって、朝鮮の歴史と無関係であると主張した。しかし、ペルーの元大統領フジモリが日本出身だからといって、ペルーの歴史日本の歴史にならないように、仮に衛満が異民族出身であったとしても、衛満が治めた古朝鮮が他国の歴史になるのではない」と述べている[28]

韓国では衛満が髷を結い、野蛮人の服装を着用して亡命したことをもって古朝鮮系と解釈するのは根拠不足という批判もあり、古朝鮮に亡命する際に装いを変えたこと自体がそれ以前はそのような髪形と服装をしていなかった証拠であり、衛満が原住民の髪形と服装を装ったのは、古朝鮮の文化風習を受け入れることにより、原住民の警戒を解いて安堵を与え、好感を与えるためであり、政治的行為の際に外国人が原住民を装うことは珍しいことではなく、衛満と同時代の南越国を建国した趙佗も衛満と同様に外国人が王になった事例であるが、記録によると趙佗は明らかな漢人であるにも関わらず、髷を結っていた。趙佗の事例からも出自が漢人であっても、必要に応じて異民族の髪形と服装を装うことを知ることができる[24]。また、衛満は匈奴に亡命した盧綰に従わずに古朝鮮に亡命したが、過去に燕が古朝鮮領域を征服・領域を併合した事実を勘案すれば、衛満が自らの血縁に導かれて、古朝鮮に亡命した可能性は残されているが、推定に推定を重ねた証明しようのない不確実な根拠に基づいて、衛満の出自に意味を付与する必要はないという指摘がある[24]

金翰奎朝鮮語: 김한규西江大学)は、「髷結」は朝鮮人だけの風俗ではなく、南越国中国にも同様の風俗があり、「蛮夷服」も古朝鮮の服を意味しないため、衛満を古朝鮮系と解釈するのは無理であると述べている[29]

甘懐真中国語版国立台湾大学)は、衛満は『史記』に「朝鮮王満」とあり、名のみ「満」と記し、が記されていないことから、中国人ではなく、朝鮮人であるという推測は、あまりにも粗雑な推測であり、全く根拠がないと評している[30]

  1. 『史記』で衛満に言及している箇所は二つあり、一つは『史記』朝鮮伝であり、もう一つは『史記』太史公自序である。『史記』全体のスタイルとして「某王名」は一種の通例的な呼称の原則であり、例えば、秦の始皇帝は嬴、は趙、は政)は「秦王政」と記されている。その他にも、戦国時代の「趙王遷は嬴、は趙、は遷)」、戦国時代の「韓王安は姫、は韓、は安)」など多数事例があり、漢の諸侯王も「韓王信は姫、は韓、は信)」のように「某王名」と記するのが通例である。また、劉濞は「呉王濞」と記され、「呉王濞」は『史記』呉王濞列伝として列伝のタイトルにもなっている[30]。また、「燕太子丹」および「信陵君無忌」などの呼称もあるが、これらの人物には姓がないと主張する研究者はいない。したがって、「朝鮮王満」という記録だけで姓がないと結論付けることはできず、また、『史記』太史公自序は、簡潔に省略しているため推論に適さず、そうでないなら『史記』太史公自序に登場する「燕丹は姫、は丹)」も姓がないと主張すべきである[30]
  2. 戦国時代末期から漢代初期は、伝統的な中国の名前の体系が成立しておらず、後世にみられる漢人漢姓漢名制度は、時代的に変化し、形成される段階にあった[30]。一つの姓と一つの名を明確にした漢姓漢名制度の体系を確立するのは、後代になってからであり、その普及は両漢時代になってからであり、戦国時代末期から漢代初期の時代は、姓の有無から中国人と非中国人を識別することができない[30]
  3. 中国およびの郡県区域は統一された一体のものではなかった。それ故、中国全土で名前の体系の統一が図られた。中国の秦および漢の郡県区域は統一された一体のものではないことから複数の文化圏が存在し、各地域で名前の体系の差異や発展も様々であった。さらに、朝鮮(朝鮮半島北西部)は、戦国時代から前漢時代まで同一文化圏に属しており、この地域の出身者である衛満を朝鮮人と結論付けても意味がない[30]

甘懐真中国語版国立台湾大学)は、衛満集団が「魋結、蠻夷服」すなわち、蛮族の服飾に変装したのは、漢朝が主導する「天下」から脱却し、衛満集団のアイデンティティを変更する決意をしたものであり、アイデンティティを「東夷化」することで朝鮮王である準王の信頼を得た[31]。したがって、衛満には、二重の性格があり、一つはアイデンティティを「東夷化」することで、朝鮮王によって朝鮮の地域の首長として冊封された。二つは、衛満は「中国人」というステータスにより、「中国の亡命者」との関係を築くことができた。この二面性が衛氏朝鮮の成功理由である[31]

金柄憲朝鮮語版朝鮮語: 김병헌成均館大学)は、「夷」を韓民族とみなすことはできないと指摘しており、「夷」を古朝鮮と解釈するのは無理な接合であるが、「蛮夷」を古朝鮮と解釈するのはさらに無理な論理であり、「夷」や「蛮夷」とは、中国が辺境の異民族を卑下した蔑称であり、「南蛮」「北狄」「東夷」「西戎」と称することからも分かるように、「夷」とは東方の異民族を、「蛮夷」とは南方と東方の異民族を同時に指す字句であり、『爾雅』には「九夷,八狄,七戎,六蠻,謂之四海。」とあり、孫炎中国語版は「海之言晦,晦闇於禮義也(海とは、晦(くらい)ということであり、文明の光の届かないところ)」と解釈し、東方の9つの夷、北方の8つの狄、西方の7つの戎、南方の6つの蛮の野蛮人の住地であるというのが『爾雅』のいう四海中国語版であり、中国では東夷、西戎、南蛮、北狄を指し、四海は「東西南北四方の文明を知らない野蛮な部族」を指す用語で使用され、国史編纂委員会データベースは、「胡服」も「野蛮人の服装」と解釈しているが、「夷服」「蛮夷服」をすべて「野蛮人の服」と解釈し、さらに「古朝鮮の服」と再解釈したので、「胡服」も同様に解釈したものとみられるが、中国史書は、衛満を「夷服」「蛮夷服」「胡服」を着用した野蛮人と描写しており、韓国人が「夷」「蛮」「胡」を無批判に古朝鮮と同一視することにより、野蛮な部族であることを自ら自任していると指摘している[25]

中国史料に記録されている衛満は燕から亡命した漢人であり、衛氏朝鮮は中国人が建国した植民地政権とみなされている。韓国の学者には、衛満が漢人であることを否認し、衛氏朝鮮が中国人による植民地政権であることを批判する人がいる[32]

  1. 衛満は燕人ではなく、朝鮮人である。衛満が民を率いて朝鮮に亡命した時、「髷を結い、蛮夷の服を着た」ということから、衛満が朝鮮人であることがわかる[32]準王が衛満を信頼して西部の国境を警備させたのは、衛満が朝鮮人だからである[32]
  2. 衛満は準王を追放し、権力を掌握した後も「朝鮮」の国号を使い続けている[32]
  3. 衛満が率いた1000余人も朝鮮人である。衛満に率いられて朝鮮に亡命した民は皆蛮夷の服を身にまとい、髷を結っていた。衛満が西部の国境を警備している間に組織した勢力は東夷族である。
  4. 衛氏朝鮮政権では、朝鮮相や歴谿卿をはじめ、多くの朝鮮の先住民を政権高官として任用した。
  5. 大同江流域一帯の発掘調査では、衛氏朝鮮時代にふさわしい支石墓群が発掘されている[32]

一方、韓国の学者尹乃鉉朝鮮語版朝鮮語: 윤내현檀国大学)は、衛満は燕から亡命した漢人であり、衛氏朝鮮は中国人が建国した植民地政権であると主張しており、上記の主張に対して以下のように反論している[33]

  1. 古代には、髷結は朝鮮人だけのいでたちではなく、李丙燾朝鮮語版は、南越人にも髷結の風習があったことを著書で述べている。すなわち、『史記』酈生陸賈列伝に「陸生至,尉他魋結箕倨見陸生。」という記録があり[注釈 11]劉邦が陸生(陸賈)を南越国に遣わすと、南越王の尉他(趙佗)は「髷結」のいでたちで、傲慢に両足を投げ出して座ったまま陸生に謁見したとある。また、秦の始皇帝の陵から出土した兵馬俑にも髷結の者が多数いる。また、衛満が着ていた蛮夷服は必ずしも朝鮮の衣服ではなため、衛満を朝鮮人と断定することは難しい[33]
  2. 盧綰謀反に失敗し、匈奴に亡命したが、衛満は盧綰に従って北方に逃亡せずに、むしろ多くの民を率いて東走し、箕子朝鮮亡命したことは、衛満が古朝鮮についてよく理解し、十分に把握していたことが窺われる。衛満が漢人であれ朝鮮人であれ、中国燕国に長く居住し、その境地は朝鮮とつながっているため、朝鮮の風習と情勢についてよく理解しており、何よりも箕子朝鮮の支配者が中国殷王朝の子孫であることを知っていた[33]
  3. 史記』朝鮮列伝は、衛氏朝鮮の国家運営者として、路人韓陰王唊の名前が列挙されている。このうち、先住民であるを除く、路人韓陰王唊はすべて漢人である。『史記』は、路人漁陽県出身であることを明らかにしており、「路」姓の漢人は多く、路人は中国から朝鮮に移民した漢人である。韓陰王唊の「」姓と「」姓は中国でよくみられる姓であり、ともに漢人である可能性が高い。は、姓のない先住民名であり、が先住民であることが分かる。が衛氏朝鮮王から重用されたのは、おそらく支配者と先住民勢力のある種の妥協、あるいは原始的部族長社会の名残である可能性がある[33]
  4. 三国志』には、衛満が朝鮮亡命後、準王の信任を得て西部の国境100里の警備を任され、「博士」として封じられたという記録がある。その背景には、準王の祖先である箕子はもともと殷王朝の子孫であり、殷周革命時に、朝鮮に流転し、国家を建国した。その後、中国は実力で国土を奪い合う、弱肉強食春秋戦国時代に突入し、燕と箕子朝鮮との間には多くの葛藤が生じるようになり、燕の将軍である秦開遼東を経略した影響が朝鮮にも波及した。その後、秦が中国を統一すると、その勢力はすぐに朝鮮半島の西境まで発展し、箕子朝鮮は大きな圧力を受けた[20]。このような状況は秦滅亡後、漢が勃興するまで継続したが、やがて衛満が箕子朝鮮に投身し、衛満が前漢から来帰したことをみた準王は、必然的に同族意識をもった。そのため、衛満は準王からの共感信頼を得るのは容易であり、前漢の侵略から西部の国境を警備する任務に就くことが許され、西部国境の警備に任じただけでなく、衛満を「博士」として封じた。衛満は、西部の国境を警備するだけでなく、職権を乱用し、燕および斉からの亡命者と先住民の力を結集することによる権勢の発揮は、準王の衛満への過信によるものである[20]。その勢力が伸張した衛満は、前漢が攻めてきたと詐称して、準王を護るという口実で王都に乗りこんだが、準王は衛満を過信していたため、防備をしておらず、衛満の反乱は順調におこなわれた[20]

いずれにせよ、『史記』『塩鉄論』『漢書』『三国志』など多数の史書が衛満が前漢時代に燕から亡命したと伝えていることから、少なくとも衛満は燕に居住し、燕の文化で成長した人物であることは確実である[34]

中国の教科書における衛氏朝鮮編集

中国の歴史教科書は一律に「紀元前2世紀から紀元前3世紀古朝鮮領域には様々な種族が散らばり暮らしていた」と記述、「衛満燕国出身亡命者)が衛氏朝鮮建国」と説明、衛氏朝鮮以前に朝鮮半島に政体はなく、外的要因によって古朝鮮が形成されたという認識を植え付けており、東北アジア歴史財団研究員の오강원は、「中国の歴史教科書の記述は、古朝鮮は野蛮、中国は文明世界という意識が敷かれている」「未開な古朝鮮社会を中国の文明人が開花させたというイメージを植え付けている」と指摘している[35]

韓国の教科書における衛氏朝鮮編集

古朝鮮とは、14世紀以後の李氏朝鮮に対して呼ぶもので、檀君朝鮮・箕子朝鮮・衛氏朝鮮をまとめた呼称である。ただし、檀君朝鮮・箕子朝鮮は、神話伝説の時代であり、具体的な歴史事実は明らかではない。その点でいえば、衛氏朝鮮から、歴史が始まることになる」というような理解が通説である[36]

しかし、韓国の教科書の高等『国史』には、古朝鮮は紀元前2333年に成立し、その支配は中国遼寧から朝鮮半島まで及んでいたと記述され、古朝鮮の根拠を琵琶形銅剣の分布にもとめて、古朝鮮建国の根拠として檀君神話を紹介している[37]。このように檀君朝鮮が小学『社会』に記載されている対して、朝鮮最初の国家である衛氏朝鮮に関する記載が無く、中学『国史』以後論述されているように、檀君朝鮮の方が衛氏朝鮮よりも学習上重要視されている[36]朝鮮の歴史の舞台である朝鮮半島が、中国大陸と直接に領土を接しているため、朝鮮史は中国情勢の影響を受けるが、中国人の朝鮮半島への流入、中国による朝鮮半島支配など、中国による朝鮮の歴史への関与を教科書に論述することを認めたくないため[38]、衛満を燕人(中国人)を教科書に論述するかは教科書執筆者にとって難問であった[39]

燕地域から部下を率いて古朝鮮にやってきた。 — 中学国史、1996年
衛満の古朝鮮は檀君の古朝鮮を継承したものといえる。 — 高校国史、学習の手助け 衛満朝鮮の意味、1996年

高校『国史』では、衛満が中国から朝鮮に来た人物としつつも、「学習の手助け 衛満朝鮮の意味」という項目では、衛満が朝鮮のを着ていたこと、国号を朝鮮にしたこと、土着民が政権の中枢に存在したことをわざわざ論述する[36]。服装や国号、土着民の存在など朝鮮系要素が強調されていて、小学『社会』において、檀君朝鮮についての記述がみえるものの、衛満に関する記述がないのは衛満が中国)人だからである[36]

1940年代-1960年代にかけて崔南善が執筆した教科書は、衛満は、本来「朝鮮人」であったが、に居住していて、再度朝鮮に戻り王になったと記述している[39]。衛満を「朝鮮人」に「偽装」することで、衛氏朝鮮を教科書に位置付けようとする[39]

西方から二千百年ほど前に長らく中国で暮らし、中国人の性格をよく知る衛満という人物が戻ってきたので、朝鮮では中国人に関する問題を彼に担当させた。 — 崔南善、中等国史、1947年
燕に行き役人となっていた。 — 崔南善、高等国史、1957年
長期間燕で居住し、中国人の性格をよく知る。 — 崔南善、国史、1962年

1960年代になると、衛満が中国)人であることを完全には否定しないが、教科書に衛満の出自を中国)人と具体的に記さない記述がみえてくる[39]

長期間燕で居住し、中国人の性格をよく知る。 — わが国の文化史、1965年

1990年代に編纂された国史編纂委員会高校『国史』註では、衛満が朝鮮に入国する際に、を結い、朝鮮の服を着ていたことから、衛満を朝鮮人と推定している[39]。これらは40年代-60年代崔南善の主張と酷似している[39]

燕に居住していた朝鮮人とおもわれる。 — 国史編纂委員会、国史、1996年

教科書における衛満・衛氏朝鮮に関する記述は檀君・檀君朝鮮に関する記述に比して全体的に少ない。このことは、教科書執筆者たちが、事実上衛満を「朝鮮人」に「偽装」することができなかったことを示唆している[39]

韓国の教科書における燕人の変遷編集

準王の時にはやく帰化し西部国境に勢力を置いていた燕人衛満が国を開いた。 — 震檀学会、国史教本、1946年
西方から2100年前に長らく支那に入っていて支那人の性質をよく知っていた衛満。 — 崔南善、中等国史、1947年
前194に燕人衛満が侵入 衛満朝鮮が成立。 — 申奭鎬、中等国史、1948年

衛満は燕人、朝鮮に亡命したと記す[40]

衛満は燕から亡命。 — 金庠基、高等国史』、1957年
燕に行き官吏となっていた。 — 崔南善、高等国史、1957年
漢から亡命して帰化。 — 曺佐鎬、中等国史、1959年
燕人の衛満。 — 歴史教育研究会、中等国史、1960年
長期間燕に居住し中国人をよく知る衛満が朝鮮に戻ってくる。 — 崔南善、国史、1962年

衛満=朝鮮人で燕国に居住していた人物と記す[40]

前194年に燕人の衛満が古朝鮮と濊貊・真番・臨屯を滅ぼし、衛満朝鮮を建国。 — 申奭鎬、中学国史、1965年
衛満が逃亡してきて、朝鮮の王となった。 — 高等国史、わが国文化史、1965年

衛満が燕人であることは記さない[40]

衛満が中国から亡命してきた人々を率いて古朝鮮を滅亡させた。 — 金庠基、国史、1967年

衛満が燕人であることは記さない[40]

衛満朝鮮 中国から亡命してきた人物。 — 歴史教育研究会、高等国史、1967年
衛満が前2世紀に政権奪取。 — 高等最新国史、1968年

衛満が燕人であることは記さない[41]

衛満が朝鮮に帰化。 — 申奭鎬、高等国史、1969年
衛満が建国(前194年)。 — 閔泳珪、高等国史、1969年

衛満が燕人であることは記さない[42]

大陸から多数の漢人が朝鮮半島に流入、衛満もまたその一人。 — 歴史教育研究会、高等国史、1972年
斉・燕からの亡命人が朝鮮に入る 衛満もその一人。 — 李丙燾、高等国史、1972年

直接的な表現ではないが、衛満を燕人とする[42]

遼東からきた衛満が政権を奪取。 — 李弘稙、高等国史、1973年

衛満が燕人であることは記さない[42]

遼東からきた衛満が政権を奪取。 — 邊太燮、高等国史、1973年

衛満が燕人であることは記さない[43]

前2世紀に中国から移動してきた衛満が準王を追い出し建国。 — 文教部、中学国史、1975年
北中国方面にいた移動民の勢力の代表である衛満が古朝鮮の準王を追い出して王となった。 — 文教部、高等国史、1977年
前2世紀に中国から移動してきた衛満が準王を追い出し建国。 — 国史編纂委員会、中学国史、1979年
前2世紀に中国から移動してきた衛満が準王を追い出し建国。 — 国史編纂委員会、中学国史、1982年
前2世紀初に古朝鮮北方から移住してきた勢力を代表する衛満が準王を追い出し王となった。 — 国史編纂委員会、高等国史、1982年

衛満が燕人であることは記さない[44]

西側地方で勢力を拡大させた衛満が準王を追い出して古朝鮮の王となる。 — 国史編纂委員会、中学国史、1996年

衛満が燕人であることは記さない[44]

前2世紀初に古朝鮮北方から移住してきた勢力を代表する衛満が準王を追い出し王となる。 — 国史編纂委員会、中学国史、1996年

衛満の出自を中国人・燕人と明確に記さない[44]

中国からの流移民を古朝鮮西方に安置させたが、そのなかでも衛満は準王を追い出し王となった。 — 国史編纂委員会、高等国史、1996年
燕に住んでいた朝鮮人であるとおもわれる。 — 国史編纂委員会、高等国史「註」、1996年
衛満の古朝鮮は檀君の古朝鮮を継承したものとみることができる。 — 国史編纂委員会、高等国史「註」、1996年

衛満=朝鮮人で燕国に居住していた人物と記す[44]

北朝鮮における衛氏朝鮮編集

当然のことながら、北朝鮮ナショナリストも衛満を「朝鮮人」と「偽装」しており、朝鮮総連機関紙朝鮮新報』において、歴史評論家の朴春日は「その昔、古朝鮮に魏満(ウィマン)という人物がいて、燕の国が強大になるとそこへ移り、燕が匈奴(きょうど)に圧迫されると、再び古朝鮮へ戻ったりした。魏満は古朝鮮の準王に取り入って信任を得ると、機会を狙って政変を起こし、準王を追放して王座を奪った。そこで南方へ逃れた準王は、韓という国で王になった」と述べている[45]

日本や中国やアメリカでの捉え方編集

  • 豊田隆雄 は、「燕人の衛満は、王と行動を共にすることなく、兵とともに朝鮮亡命する道を選んだ。当時朝鮮を治めていたのは、建国の父・檀君が君主の座を譲った(伝説上は)箕子の子孫・準王だった。彼は衛満を歓迎し、博士の官職と土地100里を与え、辺境の警備を任せた。ところが、である。紀元前194年、亡命してきた中国人を糾合して力をつけた衛満は、準王を攻撃して追放し、国を奪ってしまう。まさに恩を仇で返す所業である。彼は王倹城(現在の平壌)に新たな都を定め、王朝を打ち立てる。これが『衛氏朝鮮』の始まりだ。つまり、朝鮮初の国家は中国からの亡命者によって建国されたことになる。司馬遷の『史記』朝鮮列伝にも『朝鮮王満者、故燕人也』とはっきりと記されている。ところが韓国歴史学者の中には、衛満を中国人ではなく燕に住んでいた朝鮮人だと主張する者も多い。『史記』にある『髷結蛮夷服而東出塞』の一文、すなわち『を結い、蛮夷の服を着て東に逃れた』という部分を根拠にしているのだろうが、髷が朝鮮族だけのものとするのは無理がある。『三国志魏書』にも同じような記述があり、そこには『燕人衛満亡命、為胡服』とある。胡服朝鮮服と考えるのには無理があり、やはり衛満は朝鮮に亡命した中国人であろう。亡命者の衛満があっさりと朝鮮を支配できたのは、当時まだ青銅器文化だったところへ鉄器文化を持ち込んだからだといわれる。『歴史に初めて登場する政権が、他国からの亡命者によって建てられた』という事実は韓国人にとっては辛い現実である。彼らが日本にことさらに『漢字を伝えてやった』『仏教を伝来させた』と主張するのは、常に民族的なアイデンティティーが危機に晒されてきたことの裏返しだといえるだろう」と述べている[46]
  • 武田幸男 は、著書のなかで衛満を「もと燕人の衛満」と記述している[10]
  • ペンシルベニア大学のRobert W. Preucelとマサチューセッツ大学のStephen A. Mrozowski は、衛満=朝鮮人説を「一部の北朝鮮考古学者は、衛満が純粋な朝鮮人であったと考えることを好みます」と評する[47]
  • 田中俊明は、「朝鮮」名は紀元前3世紀頃から知られていたが、歴史的実態が明らかなのは衛氏朝鮮が最初であり、「前195年ころのことで、そのとき、燕に仕えていた満という人物が、徒党1000人余りを率いて朝鮮へいき、そこに国をひらいた[48]」「衛満は、漢帝国の中の燕国から亡命してきた」と記述している[49]
  • 森鹿三は、に滅ぼされ、その亡命者が朝鮮に流入した後、秦末期から前漢初期にかけても、戦乱を避けて大量の難民が朝鮮へ移動した状況のなかで「朝鮮には殷の箕子の子孫と称するものが支配者になっていたが、燕人の衛満が亡命してきてついに箕子を追いだし、朝鮮王となって今の平壌を都とした」と分析する[50]
  • 日比野丈夫は、秦の始皇帝が中国を統一して、紀元前226年燕を陥れ、逃亡する燕王たちを追跡して遼東に進軍して5年目に捕虜としたとき、多数の燕人が朝鮮半島に流入した。その後楚漢戦争が始まると、中国人の流入はますます増大して、「漢のはじめ衛満というものが中国から亡命して今日の平壌に都をさだめ朝鮮国を立てたのは、じつにこのような地番があったからである」と分析する[51]
  • 藤永壮は、檀君朝鮮箕子朝鮮は説話的であるが、衛氏朝鮮は実在したとして、「燕からの亡命者・衛満が箕子朝鮮を滅ぼし」たとする[52]
  • 矢木毅は、箕子の末裔と称する中国化した政治勢力が、「前漢の初めに燕人の衛満によって減ほされた」と記述している[53]
  • 石平は、「朝鮮半島最初の王朝・衛氏朝鮮は中国人が建国したという史実や、朝鮮の歴代王朝が中華帝国属国となり続けたことの劣等意識から、韓民族は建国物語『檀君神話』を生み出した」と指摘している[54]
  • 宇山卓栄は、「箕子朝鮮に続き、紀元前195年頃、衛氏朝鮮が建国されました。は箕子と同じく、王険城(現在の平壌)に置かれました。やはり、この衛氏もまた、中国人です。このように中国人の支配者が続くのは朝鮮人に、国を運営する能力やノウハウがなかったからだと言う他にありません。衛氏朝鮮は燕の出身の武将の衛満によって建国されます。燕は、現在の北京を中心とする中国東北部の地域です。劉邦前漢王朝の成立に伴い、彼らの勢力と対立していた燕の人々を、衛満が率いて朝鮮に亡命しました[55]」「中国支配を否定する韓国…衛満は鉄製の武器で武装し、その軍隊も優れた機能と統制を兼ね備えていたので、朝鮮人はほとんど対抗できませんでした。高度な文明を擁していた中国人にとって、朝鮮人を屈服させるのは難しいことではなかったでしょう。箕子朝鮮の実在が未だ確定されていないのに対し、衛氏朝鮮の実在は確定されています。そのため、現在の韓国は中国人起源の箕子朝鮮を否定しても、同じく中国人起源の衛氏朝鮮を否定できず、中国人が古朝鮮を支配していたという実態を結局、覆い隠すことができません。それでも、かつては衛満が朝鮮人であるという無理矢理な理屈をでっち上げていました。衛満が朝鮮に入った時、を結い、朝鮮の服を着ていたことから、衛満を朝鮮人と推定でき、朝鮮人である衛満が中国の燕に滞在し、朝鮮に帰って来て国をつくったと説明されていました。韓国の学校でも、1990年代までそのように教えられていました[56]」と述べている。
  • 西嶋定生は、「周知のように、漢帝国ではその国内体制として郡県制封建制とが併用された。いわゆる郡国制がそれである。この場合の封建制とは、皇帝の一族や功臣を諸侯王・列侯とし、これに食邑を与えてこれを国と称し、その支配を委任するというものであり、そこに郡県制以外の間接的統治方式が復活したのである。この封建制の復活が周辺地域の首長に対して官職を授与し、これと君臣関係を結ぶという形式を可能ならしめた。その結果出現するのが朝鮮王衛満・南越王趙佗などの外藩国王である。これらはたまたまともに漢人出身者ではあったが、その統治する住民はほとんど異民族であり、そこには郡県制は施行されず、また朝鮮王・南越王も内臣である中国内の諸侯王と相違して、外臣と呼ばれる扱いをうけていた」と述べている[57]

脚注編集

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出典編集

  1. ^ ブリタニカ国際大百科事典王険城』 - コトバンク
  2. ^ 甘 2009, p. 83
  3. ^ a b c d e 武田 1997, p. 266
  4. ^ a b c d e 武田 1997, p. 267
  5. ^ 甘 2009, p. 92
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  7. ^ 岡田英弘 『日本史の誕生―千三百年前の外圧が日本を作った』筑摩書房ちくま文庫〉、2008年6月10日、22頁。ISBN 978-4480424495 
  8. ^ a b c 甘 2009, p. 84
  9. ^ 岡田英弘 『日本史の誕生―千三百年前の外圧が日本を作った』筑摩書房ちくま文庫〉、2008年6月10日、23頁。ISBN 978-4480424495 
  10. ^ a b c d e 武田 1997, p. 265
  11. ^ 岡田英弘 『日本史の誕生―千三百年前の外圧が日本を作った』筑摩書房ちくま文庫〉、2008年6月10日、25-27頁。ISBN 978-4480424495 
  12. ^ 伊藤英人 (2013年). “朝鮮半島における言語接触 : 中国圧への対処としての対抗中国化”. 語学研究所論集 (東京外国語大学語学研究所): p. 62 
  13. ^ a b c 武田 1997, p. 268
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  57. ^ 西嶋定生 『日本歴史の国際環境』東京大学出版会UP選書 235〉、1985年1月1日、21頁。ISBN 4130020358 

引用編集

  1. ^
    この青銅ならびに鉄器文化をたずさえて入ってきた中国系移住民の来往が、はっきりと文献に現われるのは、まさに衛満の移住と建国であるといえよう。平安道地方に出現する衛満朝鮮は、いうならば鉄器文化の波及の一つの頂点を表わしているものである。 — 金元龍、『韓国考古学概論』東出版、82頁
  2. ^
    これらの土壙墓の中に木材木棺をともなうものがあることから、楽浪郡木槨墓の先縦とし遼東郡地方にいた衛満などの中国人が、西北鮮に建設した衛氏朝鮮の支配階級となり、楽浪郡設置後も引き続き残した墓制とする見解も行われている。 — 岡崎敬、『シルクロードと朝鮮半島の考古学』第一書房、175頁
  3. ^
    そしてその朝鮮では、王位は箕否から最後の箕準へとうけ継がれた。この朝鮮がいわゆる箕子朝鮮であった。(中略)確実なのは朝鮮はかなり古くから、遅くとも紀元前四〜三世紀ごろには実在していたということである。 — 礪波護武田幸男、「隋唐帝国と古代朝鮮」『世界の歴史6』中央公論社、1997年、264頁

注釈編集

  1. ^ 衛氏朝鮮の建国者である衛満については、『史記』朝鮮伝に「朝鮮王満者、故燕人也」とあり、中国人となる。
  2. ^ 『史記』蘇秦列伝には燕領として遼東と朝鮮が併記されているが、考古学的にはこの時期すでに遼東半島は燕の領有に帰していたと考えられるので、朝鮮も領有されていたとする史記の説も肯定的にみる説がある。
  3. ^ この時、駐留していた秦の官吏と駐屯軍が清川江以南から撤退し、朝鮮・真番は放棄されて権力の空白地帯となったとみる説もあるが、難民が発生するような混乱の中にわざわざ戻った者ばかりではなく、戻りたくても戻れない者や、あるいは秦の亡民が半島に移住土着したという三国志韓伝の記述からは、安全確保のためむしろ朝鮮に留まった者も多かったと推測される。
  4. ^ この段階でも燕はまだ朝鮮を領有していたのか、または韓広の勢力範囲は朝鮮まで及んでいなかったのかは両方の可能性があり不明。
  5. ^ 遼東王というのは遼東半島だけの王という意味ではなく満洲の中央を流れる遼河以東の王という意味ともとれる。従ってこの段階でも韓広が朝鮮を支配していた可能性もないではない。
  6. ^ 遼東半島だけを併合し朝鮮は放棄されたと思われるが定かではない。
  7. ^ 『史記』に「侵降其旁小邑真番臨屯皆來服屬方數千里」とあり、臨屯は朝鮮半島の日本海沿岸部、真番は朝鮮半島南部。『後漢書』によるとも衛氏朝鮮に服属していたという。穢の地は朝鮮半島東北部と吉林省東部、遼寧省の一部で後の玄菟郡に相当する地。滅亡後に衛氏朝鮮の跡地に置かれた漢四郡の範囲から衛氏朝鮮の国土が推察できる。
  8. ^
    燕人衛滿,魋結夷服,復來王之。 — 三国志、三十
  9. ^
    燕王盧綰反,入匈奴,滿亡命,聚黨千餘人,魋結蠻夷服而東走出塞。
    — 史記、朝鮮列伝
  10. ^
    及綰反,入匈奴,燕人衛滿亡命,爲胡服,東度浿水,詣准降。 — 三国志、魏書三十、烏丸鮮卑東夷伝
  11. ^
    陸生至,尉他魋結箕倨見陸生。 — 史記、酈生陸賈列伝

参考文献編集

関連項目編集

先代:
箕子朝鮮
朝鮮の歴史
前195年? - 前108年
次代:
漢四郡