紙背文書

和紙の使用済みの面の裏面に別の文書が書かれた場合に、先に書かれた面の文書
裏文書から転送)

紙背文書(しはいもんじょ)とは、和紙の使用済みの面を反故(ほご)として、その裏面を利用して別の文書(古文書)が書かれた場合に、先に書かれた面の文書のことをいう。後で書かれた文書が主体となるので、先に書かれた文書が紙背(裏)となる。裏文書(うらもんじょ)ともいう。

概要 編集

古くは和紙が貴重品であったために、使用済みの面を反故(ほご)として、白紙の状態である裏面を利用して別の筆記を行っており、漉返紙と並んで和紙の再利用法として活用されていた。また、紙背を利用されるのは古文書ばかりではなく、不要になった典籍が利用される場合もある[1]奈良時代から具注暦の余白部分に日記を書く習慣が生まれたが、書ききれなかった部分を紙背に追記して記述した。他に、後日、補筆・清書作業を行うことを考慮し、そのための参考内容を調達の容易な紙背を利用して執筆した文書などがある。万葉仮名、仮名消息など、かなの発達史上、重要な紙背文書が多くある。また、長期保存する必要のない動産管理の文書も見受けられるため、庶民の財産状況を知る手がかりにもなり、史料価値が高い[2]

紙背文書として用いられた元の文書は廃棄しても差し支えが無い文書、すなわち重要な公文書や民間の権利文書ではなく、日常的事項について書かれた書状など短期的な役割を果たした後は保存の必要が無い(廃棄しても問題無い)文書が多く、それだけに全体の断片のみの情報に限定される可能性の問題はあるものの、紙背文書からは公的な文書では伝えられることのない日常的な情報を見い出すことも可能となる[3]

主な紙背文書 編集

正倉院文書 編集

正倉院の中倉に納められている文書を正倉院文書という。戸籍[4]などの律令国家の公文書[5]が反故として東大寺に渡り、その紙背を東大寺は記録紙などに利用した。『装潢手実』、『正倉院万葉仮名文書』など数多くの紙背文書がある。

装潢手実
  紙背文書 後で書かれた文書
文書名 装潢手実(そうこうしゅじつ) 韓藍花歌(からあいのはなのうた)
概説 写経所で、1000部の『法華経』を書写した際、写経生や装潢生などが、各自の書写、または装釘した写経の枚数を記して提出した手実(伝票)のうちの1通である。 写経所の仕事に倦んだ筆者が手遊びに書いた短歌落書きである。詳細は、韓藍花歌切
年代 天平勝宝元年(749年)8月28日 751年頃
筆者 不明 不明
所蔵 正倉院文書・続々修第5帙第2巻
大きさ 縦27.6cm×横16.1cm
正倉院万葉仮名文書(「和可夜之奈比乃(わがやしなひの)…」)
  紙背文書 後で書かれた文書
文書名 正倉院万葉仮名文書 造石山寺所食物用帳(ぞういしやまでらしょしょくもつようちょう)
概説 詳細は正倉院万葉仮名文書を参照。 石山寺造営に従事する工夫の給食帳簿。
年代 不明 天平宝字6年(762年)1月
筆者 不明 不明
所蔵 正倉院文書・続修別集第48巻
大きさ 縦29.4cm×横52.4cm
正倉院万葉仮名文書(「布多止己呂乃(ふたところの)…」)
  紙背文書 後で書かれた文書
文書名 正倉院万葉仮名文書 造石山寺公文案(ぞういしやまでらくもんあん)
概説 詳細は正倉院万葉仮名文書を参照。 石山寺造営の公文書の控え。
年代 不明 天平宝字6年(762年)1月30日と2月1日
筆者 不明 不明
所蔵 正倉院文書・続修別集第48巻
大きさ 縦29.1cm×横30cm

因幡国司解案紙背仮名消息 編集

  紙背文書 後で書かれた文書
文書名 因幡国司解案紙背仮名消息 因幡国司解案(いなばのこくしのげあん)
概説 女手(平仮名)の完成を示す作品で、10世紀前半の女手の様子を知ることができる。 因幡国高草郡高庭庄(たかばのしょう)の領有をめぐって、東大寺と所有者の藤原有実が争ったため、因幡国司が太政官に裁きを願い出た解文の案(写し)。
年代 不明 延喜5年(905年)11月2日[6]
筆者 不明 不明
所蔵 正倉院・東南院文書第4櫃第2巻
大きさ 縦29.2cm×横19cm

虚空蔵菩薩念誦次第紙背仮名消息 編集

  紙背文書 後で書かれた文書
文書名 虚空蔵菩薩念誦次第紙背仮名消息 虚空蔵菩薩念誦次第(こくうぞうぼさつねんじゅしだい)
概説 18枚10種類の文書中、仮名消息が4通で、その中の一つ。康保3年(966年)の年紀のある文書がある。 昭和16年(1941年)、石山寺の経蔵から見つかった文書で、真言密教の修行において、まず行者が身を清めてから、行を終了するまでの作法を記した次第。
年代 康保3年(966年)頃 不明
筆者 不明 不明
所蔵 石山寺重要文化財
大きさ 縦30.8cm

稿本北山抄紙背仮名消息 編集

  紙背文書 後で書かれた文書
文書名 稿本北山抄紙背仮名消息 稿本北山抄
概説 女性から藤原公任に届けられた消息で、流れの中に文字が隠れてしまうほど連綿体が発達した仮名。 朝廷の年中行事や儀式などについて漢文で記した有職故実の書。
年代 11世紀初頭 11世紀
筆者 不明 藤原公任
所蔵 京都国立博物館国宝
大きさ 縦30.3cm

九条家本延喜式紙背仮名消息 編集

  紙背文書 後で書かれた文書
文書名 九条家本延喜式紙背仮名消息 延喜式
概説 宝亀から承暦に至る300年にも亘るもので、長元8、9年(1035年、1036年)の文書に続いている。 朝廷の年中行事等をまとめた文献。
年代 長元8、9年(1035年、1036年)頃 延喜式参照
筆者 不明 不明
所蔵 東京国立博物館
大きさ 縦29.5cm

三宝感応要録紙背仮名消息 編集

  紙背文書 後で書かれた文書
文書名 三宝感応要録紙背仮名消息 三宝感応要録(さんぼうかんのうようろく)
概説 古来より藤原行成伝称筆者としているが、時代はそれよりも下る。この消息は冷泉為恭が愛蔵していた。連綿美は仮名美の極致といわれている。
年代 不明 不明
筆者 藤原行成 不明
所蔵 京都鳩居堂
大きさ 縦28.2cm

諷誦文紙背仮名手紙 編集

  紙背文書 後で書かれた文書
文書名 諷誦文紙背仮名手紙 諷誦文(ふじゅもん)
概説 藤原俊成が、90歳の賀の宴を賜ったとき書いた手紙であり、晩年の書とされる。 追善のために読む文章。
年代 建仁3年(1203年)11月23日 不明
筆者 藤原俊成 不明
所蔵 MOA美術館

五部大乗経紙背仮名手紙 編集

  紙背文書 後で書かれた文書
文書名 五部大乗経紙背仮名手紙 五部大乗経(ごぶだいじょうきょう)
概説 新陽明門院近衛位子(兼教の妹)の手紙で、鎌倉時代末期の女性の書として重要である。 五部大乗経とは、『華厳経』・『大集経』・『般若経』・『法華経』・『大般涅槃経』の5部の大乗経典のこと。京都栂尾高山寺に伝来した近衛兼教筆の550巻(うち300巻が現存)。
年代 鎌倉末期 鎌倉末期
筆者 近衛位子 近衛兼教
所蔵  

宝積経要品紙背短冊 編集

  紙背文書 後で書かれた文書
文書名 宝積経要品紙背短冊 宝積経要品(ほうしゃくきょうようほん)
概説 和歌121首を足利直義足利尊氏光明院吉田兼好以下28人が書き、その短冊をつないで一帖としたもの。 直義、尊氏、夢窓疎石が『大宝積経』の要品を写し、高野山金剛三昧院に奉納した。
年代 不明 康永3年(1344年)
筆者 足利直義足利尊氏など 足利直義・足利尊氏・夢窓疎石
所蔵 前田育徳会(国宝)
大きさ 縦31.2cm

手紙 編集

千葉氏が用いた行政文書を、千葉氏の家臣富木常忍日蓮に譲り、日蓮が弟子檀那への手紙などに使った。中山法華経寺などに所蔵されている[7]

日記 編集

平安時代から江戸時代にかけて書かれた公家僧侶日記。元々、日記は具注暦の余白を用いて記されていたが、書くスペースには限りがあるため、具注暦の裏側にも記入され、更に全く違う裏紙を継ぎ足して続きを記すことも行われていた[8]

写経 編集

典籍や経典の素材としても紙背文書が用いられていた[9]が、後者の場合には執筆者の没後に遺族や関係者が紙背に写経を行って個人への供養とした例がある。伏見天皇が父である後深草天皇の没後にその生前の書状の紙背に『法華経』を写経したものが、妙蓮寺に現存している。また、叡尊の書状の裏に摺写された『般若理趣経』が西大寺や法華寺に残されているが、これも同様の趣旨であったとみられている[10]

脚注 編集

  1. ^ 田中稔『中世史料論考』P174
  2. ^ 網野善彦「中世民衆生活の様相」『中世再考』講談社,2000年,ISBN 978-4061594487
  3. ^ 田中稔『中世史料論考』P175-176
  4. ^ 例として、裏面が写経関連の書類に転用された半布里戸籍がある。
  5. ^ 例えば、戸籍の保存年限は30年間であり、それを過ぎたものは官司などに払い下げられたとみられ、他の公文書も保存期間が定められたものは同様の扱いを受けたと推定される(田中稔『中世史料論考』P177)。
  6. ^ 『因幡国司解案』は後に書き写したものであり、『因幡国司解案紙背仮名消息』も承平年間(931年 - 938年)に書かれたものと伊東卓司(1901年 - 1982年)は推定している。
  7. ^ 田中稔『中世史料論考』P184-185
  8. ^ 田中稔『中世史料論考』P179
  9. ^ 田中稔『中世史料論考』P180-181
  10. ^ 田中稔『中世史料論考』P181-182

参考文献 編集

関連項目 編集