裏松家
裏松家(うらまつけ)は、藤原北家烏丸庶流の公家である。家格は名家。江戸時代前期の権中納言烏丸光賢の次男・参議資清を祖とする。江戸時代の石高は130石[1]。
裏松家 | |
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本姓 | 藤原北家烏丸庶流 |
家祖 | 裏松資清 |
種別 |
公家(名家) 華族(子爵) |
出身地 | 山城国 |
主な根拠地 |
山城国 東京府 |
著名な人物 | 裏松光世(固禅) |
凡例 / Category:日本の氏族 |
家の歴史編集
室町時代編集
元々は室町時代前期に、烏丸家の宗家筋にあたる日野家において裏松資康を祖とする庶流が家号の「裏松」で称されることがあった[2]。 日野家嫡流を継いだのは資康の弟・資教であったが、その長男・有光は将軍・足利義持との確執が原因で没落、跡を継いだ次男(有光弟)の秀光、その養子・春龍丸も相次いで亡くなり、春龍丸の実父・広橋兼郷が一時「日野中納言」を称して家督と所領を継承していた。有光も禁闕の変で子の資親と敗死したことで日野宗家は一時断絶となった[3]。
一方の裏松家からは足利将軍家の御台所を4名(業子・康子・栄子・宗子)、足利将軍の生母を1名(栄子)輩出している[4]が、後に裏松家の当主であった勝光(資康の玄孫・日野富子の兄)が、兼郷の逝去(1446年)後断絶していた日野家宗家の家督を継承[5]して子孫に伝えたために、裏松家の系統(裏松資康 - 重光 - 義資 - 重政 - 勝光)が日野家の嫡流扱いを受け、今日では「日野」で称されることが多い[6]。
江戸時代編集
江戸時代に入って烏丸光賢の次男・参議資清が分家して再び「裏松」の家号が復活することとなった。
光世(固禅)は有職故実家として知られる。宝暦事件に連座し永蟄居となったが、この間に『大内裏図考證』を著した。この大内裏の考証は天明8年(1788年)の皇居焼失に際し、老中松平定信の指揮による皇居再建に当たって古式に則った再建に大きな役割を果たした。
明治時代以降編集
系譜編集
- 実線は実子、点線(縦)は養子。
烏丸光賢 | |||||||||||||||||||||||||
資慶 〔烏丸家〕 | 裏松資清1 | ||||||||||||||||||||||||
資直 | 意光2 | ||||||||||||||||||||||||
益光3 | 交野惟粛 | ||||||||||||||||||||||||
祐光4 | |||||||||||||||||||||||||
光世5[8] | |||||||||||||||||||||||||
謙光6[9] | 恭光 | ||||||||||||||||||||||||
明光7 | 堀河親実 | ||||||||||||||||||||||||
恭光8 | |||||||||||||||||||||||||
勲光9 | 勘解由小路資生 | ||||||||||||||||||||||||
良光10 | 水無瀬忠輔 | ||||||||||||||||||||||||
友光11 | |||||||||||||||||||||||||
幕末の領地編集
脚注編集
参考文献編集
外部リンク編集
- 公卿類別譜(公家の歴史)裏松 - ウェイバックマシン(2008年12月12日アーカイブ分)
- 裏松家(名家) - (世界帝王辞典)